ふんえ。

 声帯を雑に震わせてから、首をもたげる。
 合わないピント。差し込む光に目を細め、眉を寄せ、しかめっ面のまま朝日を味わう。陽の暖かさと鳥の声に直感する。ああ、いい朝だ。
「……」
 近眼に悩む豚のような表情をしたまま、右手で髪を一束掴む。離す。ぼり、ぼり。
 さて、なんだったか。
 とりあえず、気持ちの良い朝。俺は起きたんだ。起床。寝る前は。ああ、そう。寝る前だ。昨日の夜。リリが来たんだ。それでなんか柔らかくて、いい匂いで、おっぱいがこう、にゅってなって、それからキスで、サキュバスだとかいう話で。えっと。
 うん? なんだったか、えーっと。ああそうだ、とりあえずリリは。
 やっと壁の木目などを視認できるようになった目で、すぐ隣を見やる。綺麗な金色の中心に、ぽつんと一点。ああ、なんて可愛らしいつむじだろうか。のんきな感想を漏らす俺とは別に、もう一人分の膨らみが布団の中で寝息を立てている。
 ちゅん、ちゅん。朝ちゅん。
 俺はもう一度、陽の光を顔に浴び、眩しさに意識を投じる。太陽は偉大だ。こうして生きる者をみな平等に照らし、明るさと温もりを与え、その光は葉を育て、そして、俺はこんなことを考えながら逃避している場合じゃない。
「んー……?」
 眠い目を擦りながら、布団の中から小さな天使が、もとい悪魔がもぞりと顔を出した。
「……」
「……」
 ぱちくりと蒼く大きな瞳が俺を捉える。そして、にへっと笑った。
 やめろ、何も言うな。おまえが何か言葉を発した瞬間に、俺はこの現状を寝ぼけて見た幻覚だと思い込むことが出来なくなる。
「……ふふ、おはよお、おにいちゃん」
 俺は無言で背を向け、頭を布団にもぐり込ませた。

 

 

「おはよう」
 宿の朝。がやがやとした喧騒の中、フロアに並ぶテーブルの一角にリリと銀髪がいた。俺の声にリリはいち早く反応し、深くかぶった漆黒のフードをふわりと弾ませた。
「おはよー! おにいちゃん!」
 笑顔が咲くとはこういうことか。
 元気一杯な挨拶の隣で、銀髪も頭を2ミリほど上下させた。これでも充分な反応と言える。
「おう、大丈夫だったか?」
 俺はリリに何となく声をかける。
「うん、大丈夫」リリが頷いた。
 表向きは街の外で夜を過ごした(はずの)リリへの心配だ。その実、さきほど窓から飛び降りた少女への気遣いでもあった。悪魔にそんな心配はいらないのだろうが、怪我はなかったか、そして誰かに見られたりはしなかったか。そんなことを言い含めたつもりだった。
 はふ。
 リリの手元のカップから立ち上る湯気がゆらりと揺れた。見たところ熱々のホットミルクのようだ。ご丁寧に少量のバターまで溶かし込んである。
 はてさて。今朝、リリにお金は渡していなかったはずだ。そしてそのすぐ隣で銅像のようになっている銀髪も他人に奢るようなタイプではない。赤髪なんてまだ部屋で支度しているのだろう。とすれば、このホットミルクを提供してくれた者は。
「……」
 向けた視線の先の見知った顔、宿の主人が俺に向けて親指をグッと立てた。あんのクソオヤジ。いい仕事するじゃねえか。
「あふっ」
 まだ熱さに苦戦しながら、リリがちろっと舌を出す。しかし困っている様子はなく、むしろ飲めるまでの過程を楽しんでいるようだった。
 この宿に正面から入るなり、リリは俺の名前を出したに違いない。ここの主人とは親睦がある。まあ、これだけ可愛らしい子だ。俺との繋がりなんて関係なくても、餌付けしてしまいたくなるのが“いい歳の男”というものなのかもしれない。
 俺はポケットから硬貨を出し、指で軽く弾いた。それは主人の手元、呼び鈴の真上に転移して、小さくチンと音を立てた。少し間をおいて「別にいいんだぞ?」なんて顔をする主人に、俺も軽く片手を上げてにやりと笑った。リリの楽しそうな姿、プライスレス。
「ふーふー」
 白い湯気が揺れる。リリのすぼめた口元が少し気になって、慌ててフロアを見渡す、振りをする。昨日さんざん押しつけられた柔らかい唇。俺をじっと見ていた蒼い瞳。肌。
 すとっぷ、すとっぷ。
 誤魔化すように鼻の頭を指でかいて、リリがコップを傾けていく様子を眺める。やっとのことで少量を飲み込んだリリは、ぎゅうと目を瞑り、満足そうに「はあ」と息を吐いた。
 ほんのり染まるほっぺ。揺れる金色の前髪。ほころばせた表情。いけないな。昨日よりさらに二割増しで可愛く見える。
 魅了なんて単語を頭に浮かべながら、俺は思案する。さて、どうしたものか。
 リリは俺の力を奪うために近付いてきたサキュバスだ。そして、その目論見に見事に嵌められ、俺は昨日の夜に四肢を縛られた状態で陰茎を無様におっ立たせていた。そこで勝負はついた、はずだった。
 しかし俺の勇者としての力はいまだに健在で、さきほど硬貨を飛ばした転移の魔法も問題なく発動した。リリは俺から力を吸い取ることをしなかった。そして、戦闘能力ではるかに勝る俺は、千載一遇とも言えるリリを仕留められるチャンスを、今もこうして逃し続けている。
 はてさて、これはどういった状況か。
 今朝も本人に聞いてはみた。どういうつもりなんだと。リリは漆黒のローブに腕を通しながら首を傾け、着替え終わってから「まだ秘密」とだけ答えた。いたずらな笑みがよく似合っていた。
 どうするんだ。どうしたらいい。この子を、俺は。

「ふあ、はよー」
 赤髪があくびをしながら近づいてくる。まだ眠そうに見えるということは、遅れた原因は支度ではなく起床時間にあったようだ。まあ、いつものことではあるが。
「……ちょっと、やめてよ」
 彼女がテーブルに着いて早々の一言は否定だった。何がお気に召さないのか。まったく身に覚えはないが、声がまっすぐ俺に向けられているとあれば無視もできない。
「……え?」
 俺が様子見に呆けていると、赤髪は冗談でしょと言わんばかりに醜く笑う。
「その顔、やめてよ」
「うん? なんか変な顔してたか?」
「いや、顔自体が気持ち悪いからやめてって言ってるの」
 顔をやめろとは。お腹をやめろだとか、右の上腕二頭筋をやめろと言われるくらい不可解だ。おそらく俺は顔をやめられない。そもそも顔をしていない。顔は行動でも状態でもない。俺の知る限り、顔は名詞のひとつだ。
 要はひとの顔を馬鹿にしたいだけなのだろう。
「おい、酷いだろうそれは」
 やれやれと思いながらも、俺はやめろと言われた顔を筋肉で動かし、それぞれのパーツを慣れた配置へと移動させた。立派な苦笑の出来上がりだ。
「うわ、気持ち悪い。それでよく人間やってるわね」
「悪かったよ、人間で」
 くぴ、くぴ。
 湯気の立つカップを両手で傾けながら、リリがわずかに視線を送ってくるのを感じる。俺は知らないふりをする。この場で形なりとも笑ってないのはお前だけだぞ。ほら笑え笑え。大いに笑え。
「ねえ、ほら、あんたも言ってやんなさいよ」
 私のいじりは面白いでしょう? なんて顔をしながら、赤髪はリリへ声をかける。ほら見ろ、そっちに飛び火したじゃないか。
「……わたしは、おにいちゃんはカッコいいと思いますよ」

 ばち。

 まったく悪意の感じられない声色で放たれた言葉は、それでも、赤髪の馬鹿笑いを止めるには十分だった。
 俺の顔も苦笑の形で固まる。奥歯を噛みしめながらリリへ目を向けると、すまし顔でまたミルクを飲んでいる。おい、おいおいおい。
 恐る恐る赤髪の様子を伺うと、口を半開きにしたまま唖然としている。それもそうだろう。自分のとても面白いギャグが受けなかったのだから。そんなこと、今までなかったのだから。
 まずいな、非常にまずい。
「へ、へえ、ああ、ふーん」
 勢いを削がれた赤髪は、釈然としないまま、気持ちのやり場を探している。固まった空気の中をひとりでうろつきながら、落とし所を探している。
 かなり、まずい。こういうプライドだけでかくなった上司タイプの人間は、恥をかかされたと感じることを何より嫌う。
「いや、まあまあ、全く、カッコよくはないけどな」
 俺はなんとか笑い声を作り、場を繋ごうとする。
「知ってるわよそんなこと」
 手遅れのようだ。赤髪の即答がさきほどより1オクターブは低い。
 イライラとした目つきが落ち着きなく辺りを見回す。獲物を探している。鬱屈した感情のツケを誰かに(主に俺に)払わせるためのネタを。
 果たして、それはそこにあった。
「……それ」
 赤髪が目をつけたのは、リリの手元のホットミルクだった。まるで空気を察したかのように、立ち上る湯気が心細く揺らめいた。飲料よ、怯えなくていい。君に罪はない。
「あっそう、へえー……」
 一人で納得したように、赤髪は俺に蔑んだ視線を向けた。
「食べ物で釣るんだ。そこまでして味方が欲しいんだ?」
 どうやら俺がリリに買い与えたものだと思ったらしい。まあそう考えるのが妥当な状況ではあるし、俺もそう思ってもらったほうが都合がいい。リリに矛先が行くよりずっといい。
「ほんっとに気持ち悪い。昨日からそう。年下の女の子をモノで懐柔しようだなんて」
 俺がいつものように困り顔を機械的に造り上げるさなか、目という部品がリリの振り向く姿を捉える。現在絶賛反抗期ですと言わんばかりのむっとした顔がそこにはあった。エマージェンシー、エマージェンシー。
 蒼い瞳が赤髪を見据えて、小さな口を開き。
「これ――――」
「いやいや! まあ、見逃して欲しいなあ」
 それが言葉になる前に、俺はふたりの直線上に割って入る。届くはずだったリリの文句が背中にぶつかって落ちていく。
 俺はあえて生意気に、調子づいた声を出す。
「俺だって、そりゃあさ、ひとりくらい味方をつくろうとしたっていいだろう?」
 俺の言葉に、赤髪が「はん!」と笑った。いいぞ、ヘイト管理はばっちりだ。
「方法が気持ち悪いのよ。だいたいその子だって言わされてるようなものでしょう、可哀想に。誰も本心であんたの味方になる奴なんていないのよバーカ」
 いつ変顔コンテストに出しても恥ずかしくない醜さだ。ああ、似合ってるよ。素敵だ。
「そこまでいうか……」
 俺は力なく笑って、肩を落としておく。同時に、背中に回した右手を開いて、リリに待てをする。気持ちは嬉しいが、それはいけない。女性どころか、もはや人の顔と判別できるかも怪しいような、こんな生き物を刺激するもんじゃない。どこから謎の液体が飛び出すかもわからない。余計に面倒事が増えるだけだ。
 リリの気持ちは嬉しい。本当に嬉しいんだ。心から。
 それだけでいい。
 
 
「さーて、そいじゃ、行きま、す、かねえ」
 両手を組んで上体を後ろに反らせながら、赤髪が言う。勇者いびりを存分に堪能してご満悦のようだ。ほら出発するよと軽く目配せしてくる。
「ん」
 喉で返事をして、俺も座っていた椅子をテーブルの下へ滑らせる。飲み終わったホットミルクのカップに手を伸ばそうとすると、リリが手をひらひらさせながら、申し訳なさそうな顔で俺を制止した。自分で片付けるようだ。
 一時はひやひやしたが、俺の意図を察してか、リリは話し合いの間もおとなしくしていてくれた。賢い子だ。ちなみに俺たちの魔物狩りにはついて来ない。宿にとった部屋で本を読んで待っているそうだ。当然だろう。もし逆の立場だとしたら、俺だって人間狩りになんて参加したくない。
 俺は申し訳ない気持ちを隠さずに、リリに向けて口を開く。
「それじゃあ、俺らはちょっと街で遊んでくるから」
 リリが少し目を見開き、赤髪が「はあ?」と振り返った。
「何言ってんのあんた。いまから……」
「かなり遊んでくるから、帰りは遅くなるかもしれない。ごめんな」
 言いたいのは最後のひとことだけだった。それでもリリは理解して、こくんと頷いてくれた。いい子だ。
 俺はまた喚きだそうとする赤髪をなだめながら宿の外へと足を進める。
 必要のない気遣いだったかもしれない。何の重みもない言葉。上っ面だけの浅はかな嘘だ。それでも、今から君の仲間を殺しに行ってくるとはとても言えなかった。『仕方ないの。ただ、寂しいなって、そう思うの。』
 弱弱しく笑った昨日のリリを思い出す。そう、仕方がないと、そう思うしかない。そう思ってもらうしかないんだ。
 きい。
 鼻息を荒くしながら赤髪が戸を開ける。銀髪がそれに続く。
 そして、俺も。
「……?」
 行こうとして、行けなかった。
 背中にわずかな抵抗を覚え、足を止めて目を閉じた。マントを引く小さな手ごたえに、俺は一呼吸置いてから振り返った。
「どーした?」
 黒いフードをかぶった女の子。俺はかがんでその頭に手をぽんと置いた。「行かないで」とでも言われるのかと思ったが、リリは口をへの字に曲げたまま俯いている。
「リリ?」
 ぼす。
「おふ」
 声をかけるや否や、無言の腹パンが飛んでくる。痛かったわけじゃない。驚いただけだ。
「……もう」
 不機嫌そうに声を出しながら、もう一発。ぼす。
「もう、もう」
 ぼす、ぽふ。
 猫のパンチよりも数段鈍く、子供の肩たたきよりも弱く、自らの不満をぶつけるかのように、拳を押しつけてくる。それはもう、殴っているとは言えない行為。
 ああ、そうか。
「……」
 俺はその頭を撫でる。
 リリはまだ、俯きながら叩いてくる。文句を言いたいのに言えない。俺に返される言葉がわかるから言わない。でも不満で仕方がない。それが痛いほどに伝わってくる。
 この子は、俺の我慢を、我慢してくれているんだ。
 口をぎゅうと結んだリリが、俺を見上げる。ああ、なんて可愛い子だろう。人の目がなければ抱きしめてしまったかもしれない。
「おにいちゃんの、馬鹿」
 馬鹿と言われてしまった。罵倒されたのは俺なのに、今にも泣きそうなのはリリで、今にもはにかんでしまいそうなのは俺だ。まさに馬鹿野郎だ。
 この子は、嫌なんだ。俺が中傷されることが、俺以上に嫌なんだ。俺が耐えていることが、俺以上に耐えられないんだ。俺に言い返してほしいんだ。やり返してほしいんだ。
 なぜこんな子が悪魔なのだろう。サキュバスなのだろう。何かを主張したげにツンと飛び出した唇も、また下を向いてしまった蒼い瞳も、眩しいほどなのに。悪魔というのは嘘で、本当は天使だと今更言われても信じてしまいそうなのに。
「馬鹿」
 ぽす。
「いいんだよ、俺は」
「……よくないよ、全然よくない」
「いいんだよ。ありがとな」
 ぽんぽんと頭に触れてから、俺は宿屋の戸を開いた。
 強がりじゃない。本当にいいんだ。リリはきっとまだ知らない。
 どれだけ罵倒されても馬鹿にされても、無理やり笑顔を作ったとしても、そうやって自分が耐えているということを理解してくれる人。そんな人がそばに居るだけでどれだけ救われるのかということを、おそらく彼女は知らない。

 

 

「っつ」
 地面に残る焦げ跡と、ひり付くような熱気。
 振り返れば赤髪がニイと笑う。毎度のことながら、こいつは魔法の効果範囲に魔物だけでなく俺も入れようとする。どうせ問い詰めたところで、もっとちゃんと動きを止めておかないから、なんて文句を言われてしまうに違いない。
 しかし冗談にも線引きはあるだろう。
「さー、次々」
 何も気にしていない様子で赤髪は先を歩く。銀髪もそれに付いていく。俺は防具屋のお姉さんにもらった右腕の黒いバンドで汗を拭った。
 魔物に出くわせば、対応しなければならないのはどうせ俺だ。しかし、彼女らはおかまいなしだ。適当に魔物を挑発しては俺のところまで連れてくる。休憩も治癒もない。知ったことではないのだ。
「あっちか」
 立ち止った赤髪が次の標的を遠くに見据える。実際に見えているわけじゃない。気配だろう。
 最初のころは、俺も口を出すことはあった。前衛を務める者がいつだって魔物の足止めを出来るわけじゃない。自惚れではないが、俺だから成り立っている部分もある。最大詠唱の攻撃魔法なんてそうそう放てるもんじゃない。
 前衛が止められなかった敵に近付かれたら。魔法を扱う職が距離を詰められたときの対応は。その方法は、手段は。効果は弱くとも、すぐに発動できて動きを制限できる魔法、攻撃力を削ぐ魔法。幻を見せる魔法。あらゆる選択肢の中から適するものを瞬時に選び出して、術式を組む。そういった訓練の方がはるかに有意義だ。
 この魔物狩りは魔力を扱うという意味で実践的ではあるが、実戦的ではない。
 以前にそんなことをやんわりと言った覚えがある。赤髪は鼻で笑い、「強くなれればそれでいいのよ」と返した。強さとはなんだ。経験値とは一体。うごご。
「ちょっと遠いみたいだから、ほら、飛んでよ」
 赤髪がさも当たり前のように命令し、銀髪も目だけで「早くしろ」と訴えてくる。二人ともまともに歩く気すらないらしい。
 移動も他人任せ。戦闘の大部分も他人任せ。おまけに精神衛生までも他人任せ。これはまた、ずいぶんとゆとりのある修練と言えるだろう。いずれ彼女達の呼吸まで面倒をみることになるかもしれない。
「何してんの」
「おう、悪い」
 奥歯を噛みしめ、赤髪が感じ取ったであろう気配の近くへ座標を指定した。

 

 
「それで?」
「……うん?」
「そ、れ、で? どーなのよ」
 腕を組んだ赤髪は岩の壁に背中をつけている。俺はあぐらをかきながら、聞かれたことについて思案する。崖下の木陰。じっとしているだけで手足の痺れが楽になっていく。俺のためではなくとも、やはり休憩は大事だ。
 さて、質問の内容について考えてみる。何について聞かれているのかがわからなければ答えようもない。
「リリのことか?」
「ほかに何があるのよ」
 大当たり。これだけ主語を避けるのであれば、あまり口にしたくはないことだ。本人があまり触れたくないこと、苦手としていること。そう考えればだいたいの察しはつく。
「リリがどうした?」
「だから、どうなのって聞いてるのよ」
「本が好きらしいぞ」
「そんなこと聞いてるんじゃないわよ、馬鹿にしてんの?」
 赤髪が鼻息を荒くする。どうどう。
「目的よ目的。人を探しているんでしょう? 昨日だって時間があったんだから、あの子がどういった人物を探してて、どういう役職なのかとか、どういうところに興味を持っていただとか、少しは注意してたんでしょう?」
「ああ、本に興味があるらしいぞ」
 俺が飛び退く前に座っていたところが黒焦げになった。マントにまで燃え移った小さな火を俺は叩いて消す。
「悪かった、悪い。すまん、本当に」
 青筋を立てる赤髪に平謝りしながら、俺は違和感を覚えていた。あれ。
 いま、俺は冗談を言うことにブレーキをかけなかった。
「そういうことじゃ、ないでしょ、わからないの? ねえ、あのさあ、わかってるよね?」
「はい、わかっています、すいません」
 赤髪の激昂は当然だ。ナメている相手にナメた口をきかれたからだ。それくらい、言う前からわかっていたはずなのに。
「……それで?」
 三度目の「それで」。強制力が果てしない。
「……人を探してるってのは間違いないらしい」
 大事なところはぼかして伝える。
 さらに言えばそいつの役職は勇者で、もっと言えば俺だ。なんて、言えるはずもない。
「ふーん」
 興味を失ったように、赤髪がそっぽを向く。リリが昨日はっきりと「言えない」と口にしたのもあって、さほど期待もしていなかったのだろう。割りと簡単に矛を収めてくれる。これ以上の追求がないのは俺としてはありがたい。
 ……ありがたい? そう、ありがたいんだ。ありがたく思っている。リリの正体や目的を知られて、問題になってしまわないことを。それはつまり、俺がリリとの関係を失いたくないと感じていることに他ならないのではないだろうか。
 ……俺が? 去る者を一度も見送った覚えもない俺が。
 ああ、じいさんを亡くした時くらいか。あのときは酷く泣いたな。
「……それで?」
 またしても赤髪が口を開く。声はさきほどより小さい。俺は眉をひそめる。
「どうなのよ」
 デジャヴだろうか。数十秒前に同じ質問をされた気がする。ともすれば、彼女は本を読むのが好きらしいとでも答えたらいいのか。
 この質問は一体なんだ。赤髪の求める返答をするまで逃れられない呪縛か。なにを聞かれているのかを聞いてもよろしいか。
「いろいろ買ってあげてたでしょう」
「うん? ああ、うん」
 買ったな。本とか。さすがにしつこいか。
「お金とか、だいぶ使っちゃったんじゃないの、あんた」
 軍資金の心配だろうか。
「まあ旅にはまったく支障ないくらいだよ」
「……ふーん」
 そのまま、黙り込んでしまう。なんだ。何が言いたい。
 いつまでも痰が絡んだまま出てこないようなもどかしさを覚える。まどろっこしいな。
 要するに、俺のリリに対する意見を求めているんだろう? それで赤髪はリリをあまり得意としていない。これでも人見知りだからだ。あまり良く思っていない相手がいて、本人のいない間に女子がすることと言えば。
「まあちょっと買わされ過ぎた感はあるかなあ」
「……! でしょ!? あんたお人よしなんだから、どうせ騙されてるのよ。害はなさそうに見えてもあれで悪魔なんでしょう? 信用できないわ」
 見事に釣れた。入れ食いだ。塩でも振って焼いたろか。
 渋々とはいえ昨日は了承したというのに、なんだ、もう嫌になったのか。リリの存在が面白くないのか。
「あんたも本心じゃ迷惑してるんじゃないの? 付きまとわれて」
 いやに低調なトーンで語る。割りと本気らしい。意外な一面としては、この様子だと赤髪の中ではリリより俺の方が必要とされているということだ。いや、こいつのことだ。俺がいなくなれば今度は俺への悪口大会を開催するに違いない。
 さて、どう答えるか。俺は誰か一個人の味方になるのはあまり好きじゃないし、かといって誰の敵になるつもりもない。ガキじゃないんだ。敵味方なんて、モラトリアムと一緒に卒業しておけと思う。
「まあ、もう少し様子見てみるよ」
 当たり障りのない返答に、赤髪は「ふん」と鼻を鳴らした。ちなみに「まあ」を連発する奴ってのは、妥協しているようで自分の考えに固執してることが多いらしい。要は頑固なんだ。不本意ながら俺もその例に漏れないのだろう。
「まあいいわ、次行くわよ」
 赤髪が立ち上がり、銀髪も無言で続く。俺は重く感じる腰をじじい臭い掛け声とともに持ち上げた。

 

 

 くた、くた。
 おぼつかない足取りで、俺は街のゲートをくぐった。ようやく結界の中で安堵した俺は、傷口を薬草で抑えつけながらすぐ近くの柱に寄り掛かった。背中をつけて、腰を下ろす。ずずず。
「はあ……」
 門番のにーさんが心配そうにこちらを見ていたので、大丈夫、と手を挙げる。薬草を落としそうになって、慌てて掴んだ。貧乏性だな。
 沈んでいく太陽が辺りを赤く染める。なぜ赤なのだろう。同じようにお日様が出ているのに、青空と夕焼けはどうしてこうも違うのだろうか。角度で何か変わるのだろうか。
 とはいえ沈む前と後の境目、そのたった一秒で青空が夜空に変わったらそれはそれで恐ろしい話だが。暗闇に慣れない目では小石にも躓きそうだ。
 ふー……。
 葉巻が好きな人ならここで一本やるところなのだろうが、あいにくと趣味じゃない。
 しかしながら贅沢な時間だ。ひとりはいい。十分に体力を残し、先に宿に向かったであろう二人はもう近くにいない。こうした黄昏の時間に文句を言う輩もいない。体はボロボロでも、傷の痛みさえ哀愁のひとつに感じられるような、浸れる時間。
 少しずつ沈んでいく。眩しい赤色。じっと見ていればわかる速度で。そうしてるうちに、きっと辺りも暗くなる。真っ暗になるまで、その変化に気づかないほどゆっくりと、鮮やかに。
 こつ。頭も柱につける。目を閉じる。まぶたの裏の赤。
 じわりと水気が滲む。いつものことだ。二人に散々言われたこと、そしてそれに耐えきった自分を思い、ちょっとだけ泣きそうになる。ああ、恰好悪いと言え。弱いと言え、気持ちが悪いと言え。何と言われようと、俺が一番癒される時間だ。
「……」
「……」
 足音はしなかったが、気配は感じていた。本人も隠す気がないらしい。
「もう暗くなる。屋内にいたほうがいいぞ」
 沈んでいく夕陽を眺めたまま、俺はつぶやくように言った。
「わたし魔物だもん」
「襲ってくるのが魔物だけとは限らない」
「え、ほんと?」
 やけに上ずった声に振り向けば、リリが夕陽の光に目を輝かせている。
「喜ぶところじゃないぞ」
「えへへ」
 すぐ隣に座りこむ。膝を抱えながらはにかむ姿に胸が鳴く。
 少し赤らんでしまいそうな顔を夕陽の色に隠す。光が温かい。どんな回復魔法でも、このじわじわと内臓から浄化されていくような感覚は得られない。
 店を畳む人たち。門に駆け込んでくる旅人。宿へ歩くチーム。静かだ。それぞれの生活音が入り混じるこの場所でも、そう感じる。それはきっと人通りが減ったからだけではなく、一日の終わりをなにとなく予感しているからなのだろう。
「……」
「……」
 二人して景色を眺める。心地よい。
 何事にも間というものはある。こと会話においてのソレは、人と人との相性に深く関わっているのではないかと俺は思う。無意識のリズム。言葉の早さ、強弱。相槌の仕方、タイミング。それらの相性が良いと、言葉が重なることもなく、会話が淀みなく流れていく。あまりに自然過ぎて気付かないことも多い。むしろ「なんかこの人合わないなあ」と感じることの方がよく覚えているものだ。
 それらに鑑みても、俺はこの沈黙が気持ちがいい。
「……っと」
 弛緩しきった右手から薬草が落ちる。もうあまり痛みはない。役目は終えたようだ。
「だいじょーぶ?」
「大丈夫」
「そっか」
 ハスキーがかったくすくす笑いが愛らしい。俺の返答をある程度予想していたのかもしれない。振り返れば蒼い瞳が俺をじっと見つめている。大きめのフードがふわりと広がっている。その生地も、ほっぺも、ローブの中の肢体も、すべてが柔らかそうだ。柔らかいに違いない。きっといい香りがして。
 唐突にむらっとくる。
 心地よい空間からくるシンパシーか、それとも安心感か。きっと相性がいいと感じてしまったことが、自分とリリの未来を想ったのか。何をしても許されてしまいそうな空気、リリの様子に、男の本能が小さくうずく。
 叶うなら、抱きしめたいな。腕に。この子をいますぐ抱きしめて、そして。
「おにーちゃん」
「うん?」
 おもむろに立ち上がったリリが、ゆっくり歩きながら俺においでおいでをする。何をするのかと腰を上げれば、リリは俺が寄り掛かっていた太い柱の裏に回った。
「ここなら誰にも見られないから」
「なんだ?」
「はぐ」
 リリが両手を俺に向けて広げた。心がぞくりと震えた。
 顔に出ていたのだろうか。物欲しそうな顔はしていたのかもしれない。しかしそこまで細かくわかるだろうか。単なる偶然か。
「な、なんで」
「ずっと待ってたんだよ? ちゃんといい子にしてたから、ご褒美」
 にひ、と笑う顔にはまったく悪意が見られない。
「ご褒美って、いや」
「いましてほしいの」
 上目づかいに、はやくとせがんでくる。需要と供給が強烈に繋がって、細々としたいろいろなものがごっそり抜け落ちる。
「んんっ」
 俺の腕がそれを抱き寄せ、リリが喉を鳴らした。ローブの感触が腕にもふっと広がる。それでいてしっとりとした触り心地。右手をリリの後頭部に添え、その頭に俺は頬をそっと押しつける。体がぎゅっとなる。リリの香りが溢れる。ああ、やわっこい。
「んふふ、しあわせえ」
 猫のように鳴いて、体を寄せてくる。俺は右手でリリの頭を撫でる。柔らかいフードの上から、頭の真ん中、角の位置、確かめながらやわやわと。
 鼻を埋める。唇を埋める。酷く甘い。狂おしいほどに可愛い。呼吸を繰り返すだけで、彼女を吸いこんでいく。抱きしめるだけで、彼女の体を感じる。噛みしめている。考えられるのに、考えていない。目の前をただ見つめる。黒の生地が、捕えた光をエメラルドに染める。綺麗だ。
 ただそうしている。ただ、それだけをしている。これが恍惚というのだろうか。ちょっと違うかもしれない。なぜなら、俺はいま体の奥から湧き上がるものを感じている。
 浄化。癒し。夕陽を眺めていたときとは比べ物にならないほどの速度で、体内と心が正常化されていく。白く、癒されて、復元していく。幸せを形にしたような、幸せ。
 とろっとする。瞼が重いわけではない。眠ってしまってもいいかもしれないけれど、そういうわけでもない。ただゆったりと浸る。彼女に浸る。
 ああ、ああ。俺だけの。俺だけが。
「んっ、おに、ちゃん」
「お、う」
 いつの間にか力の入っていた腕をゆるりと和らげる。赤い顔をしたリリがほうと胸を撫で下ろした。
 自分の行動に困惑する。
 ほんの一瞬、恐ろしいほどの黒い欲が渦巻いた。身に覚えのない、いままでに感じたことのない欲求。そして俺は、その正体と名前も知っていた。
 独占欲だ。
「おにいちゃん?」
 蒼い瞳が俺を見上げる。
「えへへ、たまんなくなっちゃった?」
 俺はびくりと震える。そうだ、たまらなかった。
 ほんの小さな隙間から派生した不安だった。こんなに可愛いのに、こんなにも愛らしいのに、いま俺の腕の中にいるのに。だからこそ、いま目の前にあるからこそ、いつか居なくなってしまうかもしれない。俺ではない、誰かの元へ行ってしまうかもしれない。考えたわけじゃない、思ったわけでもない。ふと沸いたんだ。
 あまりに原始的で、あまりに非理論的な直感だった。それでいて、恐ろしいほどに切迫していた。
 なんだ、今のは。
「わたしもね? 同じ。すごくたまんなかった。幸せでふわふわして、どうしようもないの。ぎゅーってなるの」
 ふわ。リリの体が重力を失う。
「おかえりなさいのチュー、してもいい?」
 返答を待たずして、小さな両手が俺の頬を包む。蒼い瞳が大きくなり、そして見えなくなる。
「んむ」
「……っ」
 それに触れる。
 それが始まって、それになる。それは事象。起こったこと。リリが俺に顔を近付いて、唇を咥えた。俺の唇がぶるっと震えて、それを捕まえるようにやさしく抑え込まれる。繋がる。リリと繋がる。リリをくれる。君を与えられる。
 まつげが長い。息が甘い。これは事象。いま起こっていること。
 ただそれだけの。
「目、とじて……?」
 とろっとした瞳で、リリが呟く。吐息のような言葉は口の中を通る。脳へ響く。
 それは事象。起こったこと。俺が目を閉じるという行為。何も見えなくなるという現象。
「んっ」
「ん、んう」
 あむ、ちゅ。
 口だけになる。リリの唇だけになる。リリの腕が首に回る。腕と唇だけになる。
 ちゅ、ちう。にる。
 小さく舐められる。暗闇の中、また口だけになる。口だけ気持ちいい生き物。
 にゅるう。
「ん」
「んんんっ……!」
 舌が入ってくる。俺の中に入ってくる。リリに入られてしまう。だらしなく開いてしまった扉を、さらにこじ開けるようにして。
 鼻息。吐息。唇。舌、舌、舌。口内。頬の内側、歯茎、俺の舌。ざらついて、にゅるにゅるで、それだけしかなくて。
 ぐい、と腕の力が増す。深くなる。深くまで来る。さらに攻め込まれる。
 ああ、それ以上は。
 やっと生まれた思考は、リリの舌に絡めとられ、それをいけないことだと感じ、リリの幼い唇に溶かされて、どうにかなってしまうと焦り、リリの唾液の甘さと熱さに蒸されてぼやける。
 来る。来る。どんどん来る。線を引き、そこを越えられ、また防波堤をつくり、その間に侵入されて、来る。まだ来る。それでも、どこまでも。俺の心にたどり着くまで。
 あむり。むに。
 ああ、う。気持いい。リリが気持いい。この子が気持ちいい。この子が俺の幸せ。

「……っ、……はあ!」
 覚醒は唐突。まるで水面から顔を出したように肺が酸素を求める。次いで、言わなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことが一気に脳へ舞い込んでショートしそうになる。視界がかすむ。
 だめだ。なにをするんだ。やめなさい。
 それを言う前に、すでにリリは地に足をつけ、頬を赤らめて俺を見上げている。なんだ。なんなんだ。
「は、なん、で」
 無様な疑問だった。叱るでもなく、拒絶するでもなく。それでいて、他に何を言えたわけでもなく。
「は、はあ、だめ、……っ、は、だろ」
 だめだろ。酸欠にふらつく体で、なんとか言いきる。リリはやはりそれを予見していたかのように、右手を額にあて、可愛らしく敬礼してみせる。
「はーい!」
 くらくらする。
 なんだ。何にアてられているんだろう。光のような、魅力のような、リリの笑顔のような、そんな素晴らしい何かに。気持ちに。
 負けている。ただ圧倒的に、負け越している。持っていかれている。
「じゃあ、続きは、お部屋でね?」

 

 おかしい。
「なんで正座なの?」
 何かが、おかしいはずなんだ。
「とりあえず、話し合おう」
「うん、わかった」
 柔らかいベッドの上。俺はリリと向き合って姿勢を正す。彼女によるサイレント・ルームとやらはすでに発動されている。隣の部屋にいるはずの賢者ふたりは楽をしていたとはいえ、さすがにお疲れのご様子らしい。顔すら見せない。いつものことではあるが。
「何をお話しするの?」
「そうだな」
 おかげさまで、今回はリリと同室に泊まることが容易かった。どうせ忍び込んでくるのなら、いっそ堂々と宿泊してしまったほうがリスクは小さいだろう。
 先ほど浴びたお湯は程よい熱さで気持ち良く、まだ残っていた小さな傷口にちょっとだけしみた。なにとなく念入りに体を洗い、風呂を出たばかりで湯気の立つほかほかの俺と、ちょこんと座って首をかしげるリリがここにいる。
「まず、貞操観念について」
「わたしサキュバスだよ?」
「慎みというのはな、いつでも大事なんだ」
「うん、でも好きだったらいいと思う」
 ぽけーっとした顔でリリが応じる。これは冗談でもなく、誇張でもない。
 確かに、サキュバスに女の操を語らせるのも変な話だ。切り口を変えよう。
「たとえ好きな相手がいたとしても、好き放題していいってことじゃないだろう?」
「ううん、いいと思う」
 リリが首を振って続ける。
「だってお互いに気持ちいいことなんだよ? 誰にも迷惑かけてないよ?」
「いや、でもな、人の目ってものがあるだろう? 本人達はそれでいいかもしれないけど、それを見て不愉快に思う人だっているはずなんだ」
「うん、だからわたし、人に見られないところでしてるよ?」
「いや、そ、う、なのか?」
「うん。それならいいと思わない?」
「いい、のかな?」
「いいんだよ」
「そうか……」
 ……うん? いや、いやいやいや。
 そうではなくてだなあ。
「しかしだな」
「うん」
 リリが頷く。
「リリはサキュバスだ」
「うん、わたしはサキュバスだよ」
「そうだな。それで、言い伝えなんかじゃサキュバスは人間の男に害をなす存在とされている。主に性交を通じてだ。男女のやりとりだ。それをわかっているのに、勇者の俺が簡単にほだされるなんてのは良くないことだ。その、世間体としてもだ」
「でも、わたしがその気なら昨日そうしてるよ?」
「そうなんだよなあ……」
 俺は盛大な溜息とともに頭を抱えた。なんだかおかしい。ひとつずつ事実を積み上げて整理しながら説いているのにも関わらず、どうにも分が悪い。なぜだ。
「もっと言っちゃうと、おにいちゃんもそれをわかってるのに、なんでそんなことを言うのかわかんない」
「う」
「それに、わたしが『そんなことしない』って口にしたって意味ないことも、おにいちゃんはわかってるはずだよ?」
「うう」
 ぐうの音も出ない。代わりにううの音が出る。
 結局のところ、そうなのだ。ここで俺がリリに詰問をして、リリが答えたとしても、それを信じるかどうかは俺次第だ。言葉の上では何とでも言えてしまうのであって、本質はそこにはない。
 そもそも、俺はどうしたいんだ。
「……しかしだなあ」
「うん」
 リリはまた素直にこくんと頷く。
「リリは、サキュバスだ」
「うん、わたしはサキュバスだよ」
「そうだな」
 そう、サキュバスだ。だからなんだ。
 要は倫理観なんだ。俺のチェリーハートは、リリに迫られることを許してしまっている自分を是としていない。いけないはずだと思っている。だからこそ苦しくなる。そこをスッキリさせたいのだ。なにがしかの結論が欲しいのだ。
「そのー、そう。俺みたいな、一応の大人の男がな、リリみたいな子とキスをするなんてのはおかしいよな?」
「ううん、好きならいいと思う」
 ばっさり。
「い、いや、そもそもだな、キスだのなんだのってのは恋人同士がするものだ。両想いの男女がするものだよな?」
 まじまじと俺を見つめるリリが、正座のまま両手をついて体を前に滑らせた。ずい。
「リリ、冷静に話し合おう」
「わたしは落ち着いてるよ?」
「う、うむ。でもな、不可侵条約というものがある」
「まだ結んでないよ?」
 ずい。
「待て待て待て。人は、だな、武力を行使せずに和平を実現することだってできるんだ」
「うん、でも体を触れあわせながらでも、話し合いはできるよね」
 ひたり。両膝の上に置いた手の甲に、リリの小さな手が合わせられる。
「おにいちゃん」
「はい」
 たじろいだ俺に、見上げる蒼い瞳がぐっと迫る。
「わたしはおにいちゃんが好き。こうやってお話ししてるだけで楽しい。わたしは悪魔だけど、人として好き。優しいおにいちゃんが好き。男の人としても好き。性的に、おにいちゃんが大好き。だからチューもしたいし、えっちなこともしたい」
 まっすぐな姿勢からまっすぐな言葉が立て続けに放たれる。それは俺の装甲の薄い部分に直撃し、軽く突き破り、さらに連続して奥へとえぐり込んでくる。
「おにいちゃんは、わたしのこと、嫌い?」
 切なげに首をかしげる。金色の前髪が合わせて揺れた。
 はあ、ふう。
 落ち着け。冷静に話せばわかるはずだ。
「ねえ、……嫌い?」
 胸のあたりにそっと手を置かれる。猫が甘えるような仕草に、心がきゅっと鳴く。だめだ、目の前の小さな体に腕を回したくてたまらない。
「べつ、に、嫌いじゃあ……」
「好き?」
 息が詰まる。喉が鳴る。
「好きなら何してもいいんだよ。きっとわたしが何をしてもおにいちゃんは許してくれるし、おにいちゃんに何をされてもわたしは許しちゃうと思う。二人きりでしたいことを好きなだけできるんだよ。だめ、なの?」
 だめだ。そう言い切るだけの手札を俺は持ち合わせていない。
 そんなことより、リリを抱き寄せることを必死で耐えている、この状況の方が明らかに切迫した問題で。我慢できるかどうかの瀬戸際で。
 いや、いいんじゃないか。俺が抱きしめたくて、リリがそれを良しとしてしまうのであれば。誰も見ていない。他人の邪魔にも迷惑にもならずに、お互いが求める行為をするのであれば。
 しかしそれは、男女による体だけの関係をも肯定しかねない発想で、いや、俺はそういった関係を持っている人を蔑んでいるつもりはなく、自分だったらしっかり気持ちを確かめ合った相手とだけ、そういった行為に及ぶのだろうなと漠然に考えていたのだが、しかしながら実際自分がこんな状況に置かれてみると確かに一つの形としてはアリなんじゃないかと思えてしまうというか、そもそもリリは俺のことを好きと言ってくれていて、俺は俺でそこまで好意を示されてしまうとやんごとない気分にもならざるを得ないというか、だとしても俺は勇者でリリはサキュバスで、正直を言えばもうわけがわからない。
 すり。
「あ」
「うっ」
 リリの伸ばした手が、それをさする。悲しいかな、いまだに一匹狼を貫いている我が息子はメスの接近にあまりにも経験が浅く、すぐに緊張してしまう。要は固くなっているのだ。
「えへへ、おにいちゃん、もしかして迫られるの好き?」
「い、いや」
 すり、くに。
「あふ」
 情けなく身をよじる。
 こんなこと。こんな。
「おにいちゃん、おちんちん触られるの気持ちいい? すごくいいお顔になってるよ?」
 怪しく目を細めて、リリがさらに身を寄せてくる。
「ねえ、おにいちゃん、褒めて? おにいちゃんが気持ちいいこといっぱいしてあげるから、たくさん触ってあげるから、ね、頭なでて? いっぱい褒めてほしいの。ねえ、いいこいいこしてえ」
 およそ少女を褒める理由にはなりえない行為を、リリがその幼い外見でもって実行する。それでいて、純粋に求めてくる。俺の言葉を、俺の気持ちを。
 すりすり、ぐに、ぐにゅ。
「あ、あ」
「気持ちいい? わたし、いい子にしてるよ? こうやって、おちんちんをぐにぐにって、いっぱい気持ちよくしてあげる。おにいちゃんがしたいこと全部してあげる。ねえ、イイコトたくさんするの。ねえ、褒めてえ」
 頬を染めたリリのおねだりに、俺はまるで事切れたように、力なく目の前の少女にしがみついた。
「あう、おにいちゃん?」
「……リリ」
 さらさらの髪。指を通す。リリが小さく声をあげる。さきほどよりずっと近い場所で、少しかすれた息を感じる。愛おしく思う。
 俺は指でそっと撫で下ろし、もう一度繰り返す。リリがまた喉を鳴らす。俺のモノがズボンの上からやや強く握られる。俺はリリの髪に口づけをするようにして、熱い息を吐いた。
「んう、これ、好き」
 とろけそうなささやき声。彼女が喜んでいる。俺はまた手のひらを押し当てて、彼女の要望に応える。頭から滑り、髪を撫でて、頬に触れて、耳へ。今度はリリが息を吐いて、身をよじる。くすぐったそうにしながらも、俺の手に甘えてくる。
 ぐに、ぐにゅ。
「あ、く」
「んん、ん」
 俺が陰茎への愛撫に眉を寄せ、リリは幸せそうに薄目を開ける。赴くままに身をすり寄せる。背筋の震えが止まらない。じゃれついてくるリリも、その下で行われる不徳な行いも。何もかもたまらない。その匂いがたまらない。その体がたまらない。その気持ちがたまらない。
「おに、ちゃん」
 リリが顔を火照らせる。体が熱くなる。肺の中で熱せられた空気が喉を焼き、口から吐き出す。リリの髪の匂い。うっとりした蒼い瞳。華奢で柔らかい体。俺のモノを扱く手。愛おしい、気持ちいい。リリの存在に心を震わせる。
「もう、する」
 熱にうなされるような表情で、リリが俺のズボンに両手をかけた。
「り、リリ?」
「もう無理。我慢できない。もしヤだったらやめるから」
「お、ちょ」
 力の抜けていた俺に、咄嗟にリリの腕を止める術はなく、勢いよく引っ張られたズボンから元気のよいソレが飛び出し、情けなく揺れて外気に晒される。
 きゅ。
「あっ、つ、リリ」
 彼女の手は躊躇なく、それでいてやんわりと俺の陰茎に触れる。なんとか抗議しようと口を開いたところで、彼女の青く燃えるような瞳に気圧される。
「おにいちゃん、ごめんね、これは、でも、やっぱり、もしかしたら、ちょっと、途中で止まれないかも」
 荒く息を吐くリリは間違いなくオンナとして、というよりサキュバスとしてのスイッチが入った状態で、その余裕のない表情と湧き上がる気持ちが彼女の体の周りを陽炎のように揺らめかせる。したい、したい、したい。そんな言葉が肉眼で読み取れるかのように。
 かたや俺はどうしよもなく童貞で。彼女から優位性を奪う方法も、対処法もなにも知らなくて。そんな俺に、彼女の小さな口が俺のモノに届くまでに何が出来ただろうか。
 もちろん、何かを出来たわけでもなく。
「あむ」
「……っ、ああっ!!」
 のけ反る。一回りも小さな女の子に、それを咥えられて天井を仰ぐ。
「んっ、んっ」
 温かい。生温さに包まれてぐちゃぐちゃになる。
 竿に肌の感触が上下する。リリの手。亀頭にぬりぬりとしたものが塗りつけられる。リリの舌。
 ああ、フェラをされている。初めて、口で、舌で、舐められて。ああ。なんだこれ。
 心を丸裸にされる。人として被っていたいろいろなものが、一気に剥ぎ取られる。俺が俺としてあえぎ声を上げてしまう。
「んちゅ、はっ」
 リリが一度顔を上げる。俺のモノがリリの唾液に濡れている。
 青い瞳が、俺を見上げる。ぞくり。腰にくる痺れ。
「んん」
「あっ、あっ……!」
 再開する。リリが、舐めてくれる。俺のこんな汚いものを、舐めてくれる。少女が、こんなに可愛い子が、俺のモノを舐めてくれる。
 気持ちが弾ける。陰茎に力が入る。力を入れる。リリの口の中。最大限になっているものに、俺のすべてが集まる。
 にゅる、にる。
「か、は」
 たまんない。最低。最高に。サキュバスに。リリに。嬉しい。嬉しい。だめだ。舌が。ああ。
 俺の液は簡単にせり上がってくる。為す術はない。こんな子に、自分のものを舐めさせて悦んで。だって、そんなこといったって。
「ん、んん、んっ」
 リリの口も、リリの手も容赦ない。こんなことされたら。ああリリ。出しちゃう。出したい。君に、君に。
「んぐ、いいよ、お、いいよ、出して、出して」
 陰茎を擦り上げる手が早まる。快感に絶望を知る。絶対的な予感に屈する。俺はイかされてしまう。リリに。
 先端が幾度となく舐め上げられる。その度にリリを感じる。その度に罪悪を覚える。その度に、泣いてしまいそうなほど虜になっていく。
 くにゅくにくにくに。ぬり、ぬりゅり。
 ああイく。リリのおててとお口でイってしまう。流されていく。ゆっくりと、それでいて着実に自分が持っていかれる。
 流されている。リリに、リリの可愛さに、リリの気持ちよさに流されて、ただ流されて、行きつくところまで。
「んんっ、んっ、んっ」
 ああ出る。出てしまう。
 リリの口に、俺のものを、俺の、俺なんかの。
「…………っ!!」
 歯を食いしばる。
 ほんの一握りの気持ちだった。そしてそれは、俺がどうしようもなくチェリー野郎で、どうしようもなくヘタレで、どうしようもなく経験不足だからこそ、生まれた気持ち。
 しかしそれが、罪悪感と合わさって、リリの肩を押して引き剥がそうとするに至ったのは奇跡とも言えただろう。そして、同時にアホだとも言えただろう。

 俺なんかの精子が、汚いものが、リリの口に入ってしまう。こんなものを飲ませてしまう。

「やっ……!!」
 目をつぶり、必死で押しやった先に、手ごたえはなかった。リリがいるはずの場所に、リリがいなかった。
 いや、いた。目を開いた先に、俺の腕の届かないほんの少し離れた場所に、リリはいた。
 肩を震わせていた。涙目にも見えた。
 あ、れ。
「信じらんない」
 もう。と悔しげに言葉を吐いて、リリが掛け布団を被ってしまう。
 突如しんとなる部屋の中。数秒の静寂を味わって、やっと気付く。
 俺が嫌がったから、やめてくれたのだ。
 今までだってそうだった。リリが、俺の拒絶に応じてくれたんだ。おそらく、俺がダメだと言う前に、叱る前に、リリはそれを感じ取ってしまう。感じられる何かを持っている。それが魔法なのか読心術なのか、何なのかはわからないけれど。
「次はもう、途中でやめてあげないから」
 くぐもった声が布団の中から聴こえる。トーンの低いその声は、拗ねていると断ずるに十分な怒気を含んでいる。
「あ……え、り、リリ?」
 息も絶え絶えにやっと発した言葉。返事はない。
 未だに上を向いた陰茎の先からは、無様に少量の白い液が滲み出ていた。ああ、これはつまり。えーっと。
「り、リリ?」
 やはり返事はない。間違いなく怒っている。
 ああ、どうしよう。リリをどうしよう。この中途半端な息子を。えーっと、俺は。俺はどうしたら。どうすれば。

 数分後、やっと萎んだ自分のモノを俺はそっとズボンにしまい、リリの眠る布団に忍び込む勇気もなく、静かに膝を抱えたのだった。

 

 
 
 
 
 
 
 

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