ぽふ、のす。
 
 窓の外は灰色。
 まさに桶を引っくり返したような水の量に、打ち付けられる地面が絶え間のない叫び声をあげている。どうも上手くならない胡坐のせいか、くるぶしが小さく痛みを訴えた。体を逸らせて両手をつく。ひんやりとした床。木目と俺の指紋ではどちらの方が偉いだろうか、だとか、そんなことが頭に浮かんで、鼻で笑う。そのまま瞼から力を抜くと、俺の意向を無視した内耳が幼い呼吸音を勝手に捉える。そんな情報はいらん。
 激しい雨音とわずかな雷鳴に包まれる二人きりの部屋。薄暗い真昼の宿。
 雨天中止を伝えるまでもなく、赤と銀の二人は宿を出て行ったらしい。一階にも部屋にもいないのだから間違いない。恐らくは吟屋にでもいったのだろう。雨の日はいつもそうだ。拡声と消音の魔法を利用した個室で順番に詩をうたうのが最近の若者の流行らしい。草原でも荒野でも場所ならいくらでもあるだろうに。安全性を盾に全力で自己顕示欲を満たしにかかるのは、なんとも趣深いことである。俺にはついていけない。もう歳だ。そんなことを言ったら、防具屋のおばさんにまた叱られるだろうけど。
 
 もふ、ぽ。
 
 そんな俗世間の話題なぞ知ってか知らずか文学少女、ページをめくっては膝下をベッドに弾ませている。どうやら読書中の癖らしい。うつ伏せのローブの裾がめくれて、健康的すぎるふくらはぎが丸見えになっている。意識的に視線をずらす。さらりと落ちる金色の髪はまとめられておらず、頭の上の二つのピョコンが今日はない。ただそれだけでいつもの活発な印象はガラリと変わってしまう。誰だろうか。この美少女は。
 読書中の姿と相まって、冒険者用のローブよりもしとやかなドレスを誂えたくなるのは俺だけじゃないだろう。誰だってそうする。貧乏人だって仕事を増やす。活動的な男たちのモチベーションはいつだって野心と女子であり、そんな男心の縁をツンツンとつつく彼女の容貌にはいつものハツラツさはないけれど、断じてそれが悪いというわけではなく、これはこれでなんとも、なんともである。
 
 もす、のふ。
 
 小さく跳ねる脚に、またわずかにローブがめくれる。俺は窓の外を眺める。相変わらずの灰色である。これといって真新しい情報は何もないけれど、それでかまわない。
 本日、何度目かもわからないため息を吐くと、遠くで水蛙がグロォと鳴いたのがわかった。声が太い。これほどの雨音に負けない声量、サイズはなかなかのものだろう。久しぶりの雨に喜ぶのはいいけれど、あまり街の近くで自己主張しすぎると狩られるぞ、と心の中でアドバイスをしておく。水棲系の素材を欲しがるチームは多い。
 逸らした上体を起こし、膝にヒジを立てあごを乗せる。空いた手で膝の皿をとんとんと軽く叩きながら、床の模様とその間の虚空を眺める。こんな自分もはたから見れば何か根の深い問題に取り掛かろうとしているかのようなアンニュイさを醸し出しているのかもしれないけれど、その実は何も考えてはいない。しいて言えば、俺はいま何も考えてないなあ、と考えている。そして、そんなことを考えている自分についてまた考え始める。あと何ループくらいするのかは定かではない。
 時間の流れがいやに遅い。早くお腹が空けばいいのに。朝食をすぐに済ませてしまったのは早計だったかもしれない。一階に降りて温かい飲み物でも注文してこようか。体の芯から温まれば少しは楽になるかもしれない。さっきからお尻も痛いし。
 意を決して立ち上がる。軽く伸びをして体を捻る。
 静か過ぎる。
 何となくリリに目を向ければ、彼女は今朝からずっと変わらぬ位置で文字の世界に意識を投じている。柔らかいベッドの上。やや端に寄った彼女の隣には、大人ひとり分のスペースがあるように見えるけれど、俺はそれに気付くつもりはあまりない。
 密度の濃い空気の中をなんとか泳ぎ切り、ドアを開ける。部屋の外。一階へ続く階段の方からは誰かの談笑が響いてくる。低いほうへ押し流されるようにそのまま部屋を出る。ドアを閉める直前、リリの脚がベッドに弾む音が、やけに大きく聞こえた。
 
 
「……っと」
 宿泊者用の大きなコップが傾き、俺は慌てて体を縮めた。
 ドアを閉めた手に片方のコップを持ち替え、一呼吸。右手のレモネードと左手のホットミルクが仲良く湯気を絡ませた。
 ぱたぱたとリズム良く弾む脚の動きは部屋を出て行ったときよりも幾分せわしなく、ふわふわと空気を含む漆黒のローブから、膝の裏側や、そのさらに奥が見え隠れしている。俺は唇を強く結び、視線を固定したまま朝日が昇るような速度でじんわりと首を回していく。目標は壁。そう、俺は唐突に壁が見たくなったのであって、リリの無防備な下半身に目を向けたわけではない。最初から壁を眺めたかったのだ。いい内装だ。はは。誰に向けて言い訳をしているのか。
 鼻から大きく息を吸って、止める。自分の心臓が確かに動いていることを感じながら、ベッドの脇へ足を運ぶ。視界の端に彼女の横顔を捉える。目の前には蝋燭の置かれた小さなサイドテーブルがある。あるはずなのに、両の目をしっかり開いてもその位置がうまく掴めない。ホットミルクを持った左手を伸ばす。ごとり。
 ぶはあ、と楽になってしまいたくなる体に力を込め、俺は踵を返して本日の定位置へ向かう。レモネードを床に置き、窓の横の壁を背にして腰を下ろした。ぶはあ。心の中で盛大に崩れ落ちる。張り詰めた気持ちが緩み、外向きの俺を形成する部品がいくつかぽろぽろと取れて転がっていくのを感じた。あとで目玉でも拾いなおす必要があるかもしれない。
 立てた片方の膝小僧、ズボンの繊維かホコリだろうか、長い糸くずのようなものが部屋の中のわずかな空気の流れにゆらゆらと揺れている。俺はせっかくの飲み物に手を伸ばすこともせずに、馬鹿みたいにそれを眺めていた。雨脚がまた少し強まっただろうか。さきほどと同じ声の主であろう水蛙が勇ましく独唱を続けていた。が、曲のフィナーレのように一際甲高い声を上げると、それ以降何も聞こえなくなってしまった。
 ほらみろ、言わんこっちゃない。
 予想通りどこかのチームに狩られたに違いないが、あまりに予想通り過ぎて噴き出しそうになる。部屋の無音が別の意味で耐え難くなってきた。
 尊い犠牲のおかげでいくらか気持ちが解れ、俺はレモーネードに手を伸ばした。
 
「ん、う」
 
 指先が取っ手をすべり、コップの底がごこんと音を立てた。
 ベッドの上の小悪魔は閉じた本をベッドの脇に置き、のびー、とひとつ伸びをして、うつ伏せのままぐでっと力を抜いた。そしてしばらくしてから、思い出したようにサイドテーブルへ手を伸ばした。体を滑らせるようにして本の隣に座りなおすと、俺の持ってきたコップを両手で抱えてまじまじと中身を覗く。綺麗に伸びるまつげが、丸みの多いほわほわした顔つきをすっと引き締める。幼さが美しさに変化していくような、まだ最初の一歩目、奇跡的な一瞬に、どこか儚さすら覚えてしまう。
 はた、として俺はもう一度コップを持ち上げる。幸い中身は零れていない。
 自らの顔を隠すようにして一口含む。こくりと飲み込む。顔を伏せ、目を閉じ眉を寄せて、はあと一息。少し遅れて、ホットミルクを口にしたらしい女の子が「んは」と短く声を上げた。
 甘酸っぱい香りと、程よい熱と、手の中にあるレモネードとはまったく別のところからくる安心感が、すーっと体に浸透していく。広がっていく。縮こまった心が、外側からやんわりと解けていく。はあ、おいし。
 あまり顔を上げないようにしながら、続けて一口、二口。じっくりと味わいながらコップを床に置き、俺は胡坐の上に両手を組んだ。そして自嘲する。
 これじゃあまるで、俺が、レモネードを飲んでいるみたいじゃないか。
 宿主が近くで聞いていたら、心底疑わしいものを見るような目つきを向けられたに違いない。あるいは俺を魔物か何かの類だと判断して、近くにいるチームに俺の討伐を依頼するかもしれない。俺だってそうする。逆立ちをしているやつが「これじゃあ俺が逆立ちをしているみたいじゃないか」なんて言い出したら、少なくとも二三発は重いのをぶちかまして目を覚まさせてやるのが正解だろう。そうだよと、お前は逆立ちをしているよと、それ以外の何なんだと。つまるところ、俺が言いたいのはそういうことではない。
 居心地が良すぎるのだ。
 これらを調達するにあたって、俺は一階へ向かうために階段を降りた。一段一段を踏みしめるように、そして時々立ち止まるようにしながら、ゆっくりと階段を降りたのだ。傍から見れば、俺が階段を降りようとしているように見えたかもしれない。
 宿主に飲み物を注文する際も、すぐにはそれを言い出さなかった。やれ雨が強いだの、水蛙がうるさいだのと必要のない話を繋げるだけ繋いで、変な顔をされる前にホットミルクとレモネードを注文したのだ。フロアで遅めの昼食を取っている他の面々を見て、ああ、ちゃんと昼は過ぎているんだなあ、なんてことを思ったが、そいつらから見れば、俺は宿主と話したがっている人に見えたかもしれない。
 いま、こうして隣を見下ろせばいくらかぬるくなったレモネードが寂しく佇んでいる。数回口に含んだ程度だから、中身はまだ十分すぎるほどに残っている。残っていれば、それはまだレモネードに違いなく、これからちびちびと飲んでいくうちに水のような温度になってしまったとしても、やはりそれはレモネードに違いないのだ。違いなければ、俺はずっとレモネードを飲んでいる人でいられるわけだ。これほど居心地がいいことがあるだろうか。
 とうとう頭がイカれたかと言われれば返す言葉もない。俺自身、今の自分が正常ではないことは理解している。こんな日があと数日も続けば狂ってしまうだろう。
 なに、心配はいらない。もしこのコップの中身がなくなってしまったとしてもおかわりという裏技が残っているし、さきほど一階でヒントも得た。レモネードを飲む人でいられなくなったら遅い昼食を取る人になればいいのだ。水っ腹になろうが胃もたれになろうが知ったことじゃない。外面的な俺に違和感がなければ構いやしないのだ。
 ベッドの端に腰掛けた少女のつま先はまだ正面を向いている。彼女とは対角線のような位置にいる俺でも、顔を上げなくてもそれくらいは分かる。さきほどから音がない。何をしているのだろうか。まだ手元のホットミルクを眺めているのだろうか、それとも新しい本を膝の上で開いて読んでいるのだろうか。
 あるいは、いま、こっちに目を向けたり、しているのだろうか。
 そんなひとつの可能性に気付き、俺は慌てて指先を伸ばし、コップの縁をなぞる。こうして首も傾ければ、コップに興味を持った俺、がかろうじて出来上がる。これでも成人男性だ。別に赤子がハイハイをした先で玩具を見つけたわけではない。
 リリが俺を見ているかもしれない。
 単なる可能性のひとつとして考えるにはあまりに差し迫った問題だった。
 視点を定められない。指先も落ち着かない。いつまでもコップをいじってばかりもいられない。別に俺は容器マニアではない。ならばレモネードを飲む人になるか。しかしある程度の角度まで顔を上げないことには、大切なレモネードが口に流し込んだ矢先から全て床に零れ落ちることになる。
 ……万が一にでも無いと言えるか。数秒後の自分は果たして、自分の求める行動範囲内に収まってくれるだろうか。ふと沸いた悪魔的な好奇心に抗うことが出来ると断言できるだろうか。その瞬間の自分自身に唆されて、わずかにでも、彼女の表情を確認したいなどという馬鹿げた考えには至らないと言い切ることができるだろうか。コップを傾けるそのときに、愚かにもぼやけた背景に焦点を合わせ、その先にいる彼女の青い瞳がまっすぐこちらを向いていたら。目が合ってしまったらそのときは。
 全てご破算だ。台無しだ。恥ずかしさと情けなさとその他もろもろの感情に体内を焼きつくされた俺は、それが焦げ付いてしまう前に窓を大きく開いて大雨の中へ飛び立つのだろう。いくら雨水を飲み干したところで、鎮火できるようなものではないけれど。
 
「……いしょ」
 
 ささやくようなハスキーボイスに俺は縮み上がった。
 それは単なる掛け声であったようで、先の先を見切らんとする俺を尻目に、彼女のつま先は視界の端から消えて、シーツの擦れる音だけが静かな空間に残されていった。
 また、ベッドの上に寝転がったのだろう。コップ愛好家の俺は、そう理解する。
 やれやれ、と俺はため息混じりに余裕たっぷりの薄ら笑いを浮かべる。それと同時に、指の震えの止め方や、強張った肩の緩め方、正しい呼吸の仕方などを模索し始める。満身創痍である。陶器評論家は精神的な圧に弱いと昔から言われている。いや、土鍋主義者だったか? なんだっけ。まあいい、そういう類のそういったアレなソレだ、俺は。
 はあ、ふう。
 そっとコップを手に取る。取り合えず落ち着こう。
 リリはもう読書を再開しただろうか。飲み物はホットミルクで大丈夫だっただろうか。読書疲れに甘い飲み物は眠気を誘うかもしれない。目蓋も重くなってくるだろう。そのままほんわりとしたまどろみに落ちて、可愛らしく寝息を立ててしまえばいい。
 レモネードを口へと運ぶ。顔に近づけたそれは剣呑な空気に萎縮してしまったのか湯気も立ってはいないけれど、空気から肌で感じるほんのりとした温かさが穏やかな口当たりを予感させる。
 舌を満たしていく潤いと味わいに浸り、鼻に吸い込む湿度の高い香りがツンと通り過ぎていく。わずかに開く視界。半分をコップの弧が占める世界の上で、ベッドに眠る小さな少女を見つけた。否、ベッドに寝そべる彼女は、猫のように丸められた手によって口元こそ見えないけれど、薄く開かれた瞳は散々近くで見つめた俺がよく知る綺麗な青色をしていて、なぜその目が俺から見えているのかを考えるより先に、本能的に、口に液体を含んでしまったことを深く後悔し、したところですでに遅く、脳の命令が遅れ、間違った道へ流れ込んでくるレモネードの侵略に体が拒絶反応を起こしたことは言うまでもなく、つまるところ彼女は本を読んでいるわけでもなく眠っているわけでもなくこちらをじっと見つめていて、すでに逆流の始まったレモネードを口の中に押しとどめる術も知らず、感情の中枢が連続して小規模な破裂を起こし、結果、俺は破顔とともに、爆ぜた。
 
「ごっ! ぶふぁ、う」
「……ふふ」
 
 口を無理やり閉じるという突貫工事はやはり気道から押し出される空気を閉じ込めるには不十分で、瞬間的に膨れた口の中と、わずかな綻びに流れ込む空圧と水流は激しく、吐き出されたそれらはコップの口で綺麗な円を描き、俺に跳ね返ってきた。
「んすっ! んんぐっ」
 鼻に入ったレモン野郎と喉の痛みに耐えながら、俺はコップを雑に置いて服で顔を覆った。
 あまりに馬鹿らしい。ばかげている。馬鹿すぎて笑えてくる。
 けひ、けひと気管に残った残党を咳で退治しながら、涙のたまる目と水滴をごしごしと拭き取る。ああ、くだらない。なんだったんだ、一体。今朝からの俺の苦労をどうしてくれるんだ。
 んああ、と勇者の鳴き声を上げながら鼻水をすする。顔中の液体が飛び出たのではないだろうかという惨事に、俺は顔をしかめながら服を下ろし、豚のように鼻を鳴らした。リリは変わらず目を細めたままこちらを見ている。ぱたぱたとベッドの上に弾む脚がなんとも愉しげである。
 
「おにいちゃん」
 
 すっと笑みを消した彼女はベッドの上に座りなおし、わかってるよね、といった顔つきで目の前の辺りを両手でぽんぽんと叩いた。魔物使いの魔物が叱られるときは、こんな気分なのだろうか。
「……はい」
 俺は観念する。
 言葉は短いけれど、確かなやりとり。それは今朝、恐る恐る「おはよう」と声をかけて、リリがこちらも見ずに「うん」と小さな声で答えてから、実に本日二度目の会話だった。
 
 
 
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 先に断りを入れて洗顔と着替えを軽く済ませ、俺は彼女と向き合った。両足を外側へ逃がすように女の子座りをするリリを前に、俺は背中を丸めた。なんだか昨日も同じようなことをしていたような気がするが、俺とリリの会議場はベッドの上が主流になってしまうのだろうか。どこか流されているような気がしないでもない。
「何か言うことは?」
 ふんすと鼻息を荒げながら、幼い声でリリが訊ねる。
「言うこと?」
「言うこと」
「言うことか……」
 俺はありもしない罪の減刑を望むために罰の悪い表情を作り、頭をかいた。少女に、失礼、女性にこんな怒られ方をするのはいつ以来だろうか。あの理不尽な二人組みとは違う、彼女の真っ当な怒りは、今朝から逃げ続けてきた俺からすれば心当たりはいくつかあるけれど、こういった場合、一番の理由を当てられなければ謝罪の意味をなさないことは俺もなんとなく理解している。
 しかし謝罪とは言っても、彼女のぷりぷりした様子からしてもうほとんど怒ってはいないようにも見えるし、意地を張っていた俺が言うのもなんだが、こうしてまともに会話ができるようになってほっとしている面もある。
「ずっと怒ってるの、得意じゃないから、はやく、おにいちゃん」
 リリは急かすようにベッドをぽんぽんと叩く。
 そんな様子に俺は心の中で深く頷く。そうだよな、と。
 リリは恐らく、怒りを溜め込んでおくのが苦手なタイプだ。彼女でなくとも、寝て起きただけでさっぱりしてしまう人もいる。それでも少し前までムカッときていたことが、何事もなかったかのように解消されてしまっているのが悔しいから、無理にでも引っ張るのだ。つまるところ、俺には謝罪の必要がないとも言えるし、彼女が無理に怒った顔をする必要もない。
 リリの好きな読書に例えるのであれば、これは句読点だ。彼女の中で問題のあった文章と、それが解決してしまった文章があり、現在はその前後が綺麗なグラデーションのように繋がってしまっているような状況なのだ。本人にすら、どうしてこんなに滑らかに進んでしまったのかがわからないのだ。だけど前半と後半は本来、相容れない文章であるはずだから、真ん中に句読点を入れましょう、という話だ。それが謝罪の役割であり、彼女が俺に求めているのは怒りへの代償ではなく、区切りだ。
「えーっと……」
 しかしながら、かれこれ長いこと独り身を貫いてきた成人男性。俺。感情論ではとりあえず自分から謝っておくことが正解であることがわかっていながら、理屈のパズルを組み合わせたヘンテコな盾を手に入れてしまうと、それを実戦で使わないことには気がすまない。
 そもそもなぜ俺が、こんな状況に陥るまで彼女に話しかけることもできなかったのか、だ。
 謝り方がわからないのだ。
 いや、嘘をつくな。
 謝り方はわかるけれど、その謝り方があまりに納得できないような言い回しでしか表せないからだ。だって考えてもみろ。彼女が怒っているのは昨日、昨晩、俺が射精を拒んだからだ。俺が彼女の口にソレを放ってしまうのを嫌って、彼女の行為を拒絶したからだ。なら、どう言って謝る?
 考えてもみろ。
 俺は勇者で、彼女は見た目こそ幼いながらもサキュバスだとかで、俺は世間的に言えば凶悪な魔物やひいては魔王を倒すために存在していて、彼女はそんな俺から力を奪ってしまうために現れたというのだ。それで、俺は、なんて謝るんだ。
 彼女の小さな口に欲望の塊を吐き出さなかったことを、どう謝るんだ。まがりなりにも勇者が、サキュバスに。
「おにいちゃん?」とリリが俺を見上げてくる。
「いや、その、だな」と俺は言葉を濁す。「……悪かった、昨日は」
「昨日?」
「昨日の、その、夜のこと。あっただろあの、リリがさ、俺にしたというかしてくれたというか何というか、そういうこと、の、……の? 違うそういうことが、が、違うなそういう、そう、そういう感じの類のあれの話なんだけどその、謝りたいなっていう」
「ぶーーーーーー」
「あえ、へ?」
 リリが唇を尖らせ、俺は前につんのめった。
 よほどのアホ面をしてしまったのだろう。彼女は据わった目つきでじっとりを俺を眺めている。その様子に俺はうっと言葉を詰まらせた。
「全然わかってないよ」と彼女は低めの声で言った。「おにいちゃんは全然わかってない。わたしが言ってるのは今日のことだよ、今日。昨日は、その、確かにちょっと、だったけど、でも次はやめないって言ったし、それで話は終わってるんだよ」
「……今日のこと?」
「そうだよ、今日。今日のこと。もうお昼も過ぎてるんだよ。いっぱい時間あったんだよ。そしたらもっと、一緒にお昼寝とか、お話をしたりとか、雨だから一緒にお出かけは難しいかもだけど、せっかく二人っきりなんだから、ねえ? おにいちゃん!」
「え? そんな、……ええ?」
「えへーじゃないよおにいちゃん。どーするのっ! いっぱい時間経っちゃったよ! どうするの!」
「いや、ええ?」
 ばんばんとベッドを叩くリリを前に、俺は頭を抱えた。
 予想外すぎて理解がおいつかない。今日のことをリリは怒っているという。それも、言ってはいけないかもしれないが、至極くだらないことで怒られているように思える。リリが俺と一緒に何かをしたがっていたのであれば、本当に、いままでの時間は一体なんだったのだろうか。
「いや、いやそれだったら、朝のことは、何だったんだ?」
「朝のこと?」
「朝、おはよって言ったら、なんか、なんというか余所余所しいというか、そんな感じじゃなかったか?」
 俺の記憶に焼きついているのは花の咲くようなリリの笑顔であり、元気な「おはよう」の一言だった。それを待っていた。待っていただけに、今朝のあの態度はどうしても昨日の一件を引きずっているようにしか思えなかったのだ。
 俺の疑問に、リリはあからさまに視線を逸らした。
「……あれは、うん、昨日のことが、ね」
「リリ?」
「とにかく、おにいちゃんが悪いんだよ」
「待て、いま昨日のことって言ったよな?」
「昨日のことは昨日のことで、今日のことは今日のことだよおにいちゃん。過去に囚われちゃいけないんだよ。大事なのは今だよおにいちゃん」
「………………ごまか」
「誤魔化してないよ! ほら、今日の! 無駄になっちゃった時間の! 対価を要求してるんだよおにいちゃん!」
 爛々とした彼女の瞳に俺は力が抜けていく。今朝からずっと頭を悩ませてきた出来事がひどく瑣末な問題に思えて、俺は一度考えるのをやめた。そして投げやりに口を開く。
「うん、わかった。それで、どうすればいい?」
 そう訊ねると、彼女は少し視線を泳がせてから、小さく首を傾げた。下ろした髪が静かに揺れ、なにとなく見蕩れていると、リリは少し意地悪にニッと笑った。
「ちゅー、してくれたら、許してあげる」
「は、え?」
 困惑する俺をよそに彼女はほんのりと頬を染め、細い両腕を体を隠すように交差させ、自らの肩を抱いた。
「やさしくぎゅって抱きしめて、ちゅーしてくれたら、許してあげる。おにいちゃんから」
「お、俺から?」
「そう、おにいちゃんから。いつもはわたしからだったから。だから今日は、おにいちゃんから。じゃないと許してあげない」
 やけに手馴れたすまし顔は明らかに芝居がかっているけれど、つんと出た唇がどうしても目に付いて、俺は考え込むフリをして顔を伏せた。キスだと?
 断言してもいい。彼女はもう怒ってなんかいない。朝の時点では昨日のことがつっかえていたのは間違いないけれど、いまはもう別の目的にシフトしているように思える。なにより目力が違う。つんとすました顔でも、いつものように煌く瞳が隠しきれていない。
 そもそも、俺が朝の件から昨日のことについて謝ったのも間違いではなかったわけであって、できればそこらへんでもう手を打ってほしいというか、どうかんがえても情状酌量の余地があってもいいはずで、だいたいおれ自身が減刑を望むほどの状況だと認識してしまっているのがすでにおかしな話で、俺に大した罪も無いとすれば、逆にリリの提示した罰もまんざら的外れではないということになりかねない。なりかねない? いや、何を言ってるんだ。なりかねるぞ。なりかねなければならない。そうでなければならないというか、なぜ俺がこれほどリリとのキスに関しての言及を避けているのかといえば、それについて考え出したら思考の泥沼に嵌るのが目に見えているからだ。
 卑怯、じゃないか? いや卑怯ではない。卑怯ではないのだが、なんというか、卑怯じゃないか?
 うん? と試すように小首を傾げる彼女を前に、俺は正しい感情を見つけ出すことができない。現実は酷く単純で、俺からキスをすれば彼女が許す。それだけのことだ。それだけのことではあるのだが、これがウィンウィンであってはならないのだ。決して。ウィンウィンであってはならないのだ。何度も言うが、これはウィンウィンではない。違うからな。
 自分よりも一回り見た目の幼い悪魔を目の前に、俺は泥沼の淵に腰掛けて両足だけを突っ込み、途方に暮れる。全身で潜ってしまえば昔に戻れるけれど、もうそんな汚い場所からは足を洗って、美しい草原や花畑に何も考えずに駆け出してもいいのではないか。そうしてしまうのはとても簡単で、辛くもなく、悩みもない。現実、こうして長く近くに座っていると花の香りが漂ってくるようで、そんないい匂いで俺の思考を邪魔するのはやめていただきたい。
「おにーちゃん?」
「うん、わかった、わかってるから」
 どうせ断る理由を一から千まで挙げても、一日考えても一年分考えても、リリが催促している以上、結論は変わらないのだろう。予感に敗北するより仕方ない。
 童貞は股間に力を込める。
 両腕を伸ばし、わくわくとした表情の、その背中へと回す。
 世界の重力が弱まる。この体は本当に俺の体だろうか。どこか別の場所から、俺という人形を操作しているかのような、独特の感覚に陥る。それでも引き寄せる。小さな肢体はえらくぐにゃぐにゃしていて、骨が入っているのか心配になる。胸に収めると、悪魔は小さく声を漏らす。吐く息がお腹にあたる。頭の天辺が見えてしまうような背丈。俺が行おうとしているのは明らかにインモラルな性を犯す罪でしかないのに、それを意識するほど、カラダが慌しくなってくる。なぜこんなにも幼い悪魔なのだろう。リリは。
 ふわりと香る匂いと、腕と体に容赦なく押し付けられる少女の肢体がひとつの治癒魔法のように合わさり、俺はせずようもなく眉を寄せる。後頭部に手のひらを回して、俺の顔を見られないように軽く押し付けるけれど、滑るような髪が肌に触れて、余計に顔をしかめる。人間が、触れていいようなものでは、恐らく、ない。このえもいわれぬ柔らかな甘さは、リリは。彼女という妖精は。ああ。
 ああ。
 できるものなら頬を額に寄せ、腕を締め付け、俺に比べたら酷く脆いその小さな体が、軟体の魔物のように分裂してしまっても、それでも押し付けて、塗りつけて、染み込ませてしまいたい。俺に吸わせてしまいたい。
 過呼吸になりかねない、目も眩むほど貴重な麻薬を腕の中に、俺は必死で自らを制し、無様に震える。自覚症状の域を超えている。出会った日の比じゃない。どんどん酷くなっている。一昨日より、昨日より、俺は。
 その透き通るような瞳と見詰め合えば、何をしてしまうかわからない。
 呆けるように天井を見上げ、水面に入る前の一呼吸。彼女の後頭部を押さえる手をそっと離し、頬と髪の間に滑らせる。顎のラインと首筋を薬指と小指に感じながら、持ち上げ。
 そして、俺は、潜る。
 何も考えないと、考える。鼻先がわずかに擦れる。彼女が俺を見ているのをわかっていても、それに感情を割く暇もない。俺は首を傾け、彼女の肩を抱き寄せた。目を閉じるのが彼女より少し遅れた。
 鼻の息遣いと部屋の無音を耳にした。互いの衣擦れと口内に抜けるリリの声を聴いた。感触はない。それをしていた。時間を見失う。二度目の息。くらりと揺れる。供給が追いつかない。本能的な危険を感じて俺はソレを離す。離れる。水面に上がる。そこで初めて、自分が本当に息を止めていたことを知る。
 肩を上下させる大人の男を、少女は見上げ、火照らせた頬を隠そうともせずに、にへっと笑う。遅れて知覚する行為と感触に、俺は緩みそうになる口をキツく結んで顔を逸らした。すでに遅い。俺の首に腕を回した彼女が追ってくる。逃げ切れない。リリもまた、少し弱ったような堪えきれない笑顔であるのに、それでも俺を追ってくる。彼女以上に弱りきった俺を逃がすまいとして、くすぐったい笑い声をあげながら、俺を追い詰める。隠そうとする俺を見つけ出す。見られてしまう。仕方のない程の俺自身を、彼女に見咎められ、意地悪に笑われてしまう。ああ、もう。許してくれ。
「許してあげる」
 嘘をつくな。
 抗議するために睨むけれど、きっと睨めていない。口を開いたら笑ってしまう。もう俺を俺に任せられない。どうにもならない。顔に集まった血を戻す方法も知らない。彼女の瞳からかろうじて視線は逃すけれど、得てして口元は緩み切り、鼻の穴も膨らみ、眉間に皺を寄せてみるけれどすでに手遅れで、見かねたように彼女は額を寄せ、おでこにおでこを付け、だらしなく笑い出す。幸せそうに笑い出す。俺は目をぎゅうと閉じて、無様に耐える。自分まで一緒になって笑い出してしまうことを、それだけを、歪んだ顔面で必死に堪える。
「わたしも、ゆるしてえ」
 甘ったるい息遣い。俺はまるで危険な工程の安全を確かめるように、おそるおそる目を開く。うっとりと目を細めるリリの、青い瞳が怪しく光った。
「わたしもねえ? いじわるしちゃったから。おにいちゃんのこと知りたくて。だけどもう、しないから。こんなことしない。今日みたいなの、もうやだから。だから、ねえ、おにいちゃん、ゆるしてえ」
 とろみのついた声色はいつになく粘度が高い。熱を帯びた女性が夜の宿へ誘うような芳醇な色香はその幼い顔立ちと酷くアンバランスで、甘口すぎる酒を口いっぱいに含まされたような気持ちになる。思わず唾液を飲み込む。ありもしないアルコールに、俺は喉を熱くする。
「ねえ、おねがい、ゆるしてえ」
「ゆ、……っ」
 許すといっても、なにを、どうやって。
 上唇が捕らえられる。疑問は疑問になれず、脳天から霧になって空中へ消えていく。思わず閉じた口が、彼女のぷるっとしたそれを挟み込んでしまう。求め合うような柔らかさに鼻の奥が鳴いた。
 舐られるような口付け。まるで唇のわずかな皺までを検分しながら、合わさり方を探すような入念な動き。幼い唇。悪魔。粗くなる鼻息と漏れる声。
 それをされていて、それをされるだけで、いま、彼女と、リリと、まつげと、また角度を変えられて、探されて、調べられて。
 ふう、とよろける。思わず後ろ手に体を支える。くらくらする。わずかに離れたリリの顔。切なそうに眉を寄せている。
「ゆるして、くれる?」
「ふ、ふ、ぁ、な、なに」
「いっぱい、ちゅーするから、ゆるしてえ」
 小さな手が俺の顔を挟み、こめかみへ舐めるように撫で上げる。髪を通る指。ぞわっとしたものが一気に体を駆け抜ける。柔らかく体重をかけられていく。そんな軽い体を支えることもままならず、俺は崩れていく。金色の髪が降りてくる。
「ゆ、まっ、は、ゆるす、許す。許すから」
「ほんとお? うれしい」
 いたずらに微笑むリリは止まらない。元より、止まるつもりがない。
 合わさる。息が止まる。決壊してしまう。大きな波。彼女を大量に流し込まれる。押し流される。息と、息と、唇。
 違う。キスを許したわけじゃない。そうではないのに。都合は全てを丸め込んで、心地の良い世界へ誘われていく。まるで、俺がそれを求めていたのかとすら錯覚してしまう。許してしまったから。俺が、彼女の行為を。
 違う。違わない。
「あむ、ん、ん」
 あ。
 ああ。
 崩れ落ちる。崩れていく。なし崩しに流れて、流されて、ぼてぼてと俺が落ちていく。泥になっていく。背中も頭も、体全てをベッドに預けて、俺は、リリを。
 ただ。
 
 
 雨はいつしか止んでいて、静寂が包む部屋には風のさざめきとお互いの息遣いしか聴こえない。天井は当たり前のようにそこにあって、俺がいくら変顔を向けてやったとしても、へとも思わないに違いない。そんな元気もないけれど。
 胸に彼女のおでこの重みがあり、少し目をやればいつものつむじが見える。でかい猫が俺の上で寝ているようなものだ。と言いたいところだけれど、彼女はまだ眠ってはいない。恐らく眠そうな顔はしているのだろうが。
 仰向けの俺の一部はいまだ酷く隆起している。きっとリリにもそれはバレている。けれど彼女は何を言ったりもせず、俺も、リリが何も言ってこないことはなんとなくわかっていた。そういう時間では、おそらく、ない。俺はただただ、そして勘違いでなければリリも、お互いの鼓動を静かに感じていた。
 悲惨なものだった。
 昼までの鬱憤を晴らすかのような彼女の甘えっぷりは度を超えていて、キスがひと段落したかと思えばおでこをこすり付けられ、頬を寄せられ、柔らかい肌に総毛立ち、猫かと突っ込めば耳元で「にゃあん」と鳴かれ、そんなやりとりで少し、いや確実に、股間のソレが一層元気になったことは自分でも酷くショックを受けた。世の中には幼い女の子の姿の悪魔に猫の声真似をされると勃起する勇者がいるそうだ。
「んしょ」
 俺の上で身を起こした彼女を眺める。なにとなく、彼女に初めて会った日の夜を思い出した。
 お腹におしりの感触。少しでも後ろにズレれば厄介なことになるけれど、それを指摘する気力もなければ、そもそも必要もない。言ったところで今日のリリは止まらないし、言わなくても知られている。
 散々俺を楽しんだらしい彼女は、満足そうに笑って口を開いた。
「今日のおにいちゃんを見てて、わかったことがあります」
 なぜ敬語なのだろう。とは思うけれど、口が動かず、無言で先を促す。
「おにいちゃんには、今日から、リハビリをしてもらいます」
 自信満々に彼女はそう言った。
 
 

 書いたもの

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 プレイ内容(ネタバレ含む)


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