いわゆるショートムービーで流れてそうな曲だなあと僕は思った。
 
 まさしく、"それっぽい"というか、いかにもな曲調だと感じているのはおそらく僕がそのショートムービーアプリをあまり良くないモノだと思っているせいであって、どうして良くないと感じているかといえば、SNSでよく批判的な意見を見かけるだけという理由だった。
 つまるところ僕も同類なのだろう。
 
「――――ってる!?」
「はい!?」
 
 まるでコール&レスポンスのような彼女の問いかけに、僕は室内を振動させている大音量のBGMに負けないように声を張った。
 狭いカラオケの室内。制服をだらしなく着崩した彼女が呆れた顔をする。
 
「……知、っ、て、る!?」と彼女の声が肌を震わせる。
「知らない!」
「ええ!?」
「し、ら、な、い!」
「あっそ!」
 
 特に気分を害した様子もない彼女は、また画面に流れ出した白い文字を追いかけ始めた。この曲を僕が知っているかどうかなんて、そんなに重要なのだろうか。もしこれが彼女なりに気を利かせた上での選曲であるならば、僕らはどうやら絶望的に音楽の趣味が合わないということだろう。
 同級生のくせに化粧っ気の強い顔と、ブラウンに近い色合いの金髪はさらりと長く、かなりお金が掛かっていそうに見える。とっさに"読モ"という単語と、そして女子向け雑誌の名前が二つほど頭に浮かんだ。もし無人島で他に書物が落ちていなくても僕は読まないだろう。
 
「いしょ」
「……」
 
 歌い終えた彼女が容赦なく隣に腰掛け、僕は触れる肩を少し離した。
 ほのかに香る香水の匂いは意外と控えめで、それが彼女自身の体臭なのかどうか一瞬わからなくなる。なんだか変態みたいだ。僕。
 なぜ恋人がいたこともない僕が放課後デートに誘われてしまったのかはわからないし、孔雀みたいな彼女が土鳩みたいな僕を誘った理由もまったくわからないし、こんなスカートの短さが許されるような高校に進学してしまったのは僕の中学時代の怠慢が原因で、ついでに言うなら孔雀の派手な方はオスだった気がする。
 
「どれかわかるのある?」
 
 彼女にはパーソナルスペースというものが存在しないのだろうか。
 平気で腕に降りかかってくる髪も、二の腕の柔らかさも。感触が気になってデンモクどころではない。
 液晶画面に映るのは新曲一覧の一ページ目。アイドル系が三曲、J−POPと思われるものが同じく三曲と、得体の知れない楽曲がひとつと、演歌っぽい名前のものがひとつ。何一つわからない。聞けばわかるかもしれないけど、わかってもサビの一部くらいだろう。
 
「わからない」
「うそ、一つも?」
「一つも」
「コレも?」
 
 彼女はページの中で一番得体の知れない一曲を指差した。
 人を辞める最期の日。なるほど、僕にピッタリなタイトルかもしれない。
 
「わからない」
「うそでしょ。二千万とか再生されてるやつだよ?」
「ああ、動画で人気なんだ。どうでもいいけど顔近い」
「ウタの家ってネット繋がってないんだねえ」
「繋がってるよ。あと顔近いです」
「まあなんか、変なことしてそうな苗字だしね。なんだろ、歌舞伎とかさ」
「聞いてないよね」
 
 彼女は意に介した様子もなくさっさとその曲を送信し、マイクを手に取る。なんでもスタンディングでなければ気合が入らないらしく、空いた左手は胸元にいったり髪を触ったりとせわしない。
 速いピアノのアルペジオからベースとギター、ドラムが一斉に加わり、狭い個室をびりびりと振動させる。キャッチーなイントロに、確かに人気が出そうな曲だなあ、なんてことをなんとなく思った。
 人どころか人生ごと辞めてもいまの僕は大して後悔しないだろう。家に着いて夕飯を食べてお風呂に入って、寝て。そのまま起きられなくても別に構わない。もしかしたら明日の僕は後悔するかもしれないけれど。
 
 好きだった女の子が、煙草で謹慎を食らうようなヤツと付き合い始めた時点で、今まで歩いてきた地面は実は空で、空だと思っていた青い空中が実は地面なのだと知らされたような気分だった。夜空の星はたくさん足が生えてマンホールの中を這いずり回っているし、綺麗だった虹は一色ずつに別れブーメランのように各国へ散って大爆発を引き起こした。僕の世界はまともじゃなくなった。
 アイデンティティクライシスといえばその通りかもしれないし、けれど元から僕は好きだった女の子、もとい依田さんに対してまったくモーションを掛けてはいなかったし、予定もなかったし、指を咥えて眺めていたブドウが鷹に掻っ攫われたところで何の文句を言う筋合いもなければ、きっとあのぶどうは不味かっただなんて文句を垂れる権利もない。
 ただ、あんな、いつも凛としていた僕の憧れが、いずれ舌にまでピアス穴を開けそうな奴を好きになる道理が理解できなかった。なんなら僕がいくらお酒を飲んでいなくても煙草を吸っていなくても、バイクを乗り回さなくてもアンパンをヤらなくても、きっと依田さんと付き合えることはなかったのだと思い知らされただけだった
 僕がどれだけ清く生きていたとしても、僕が依田さんと付き合える世界線なんて存在しなかったのだ。そう考えてみたら、脳天がぽんと弾けた。
 人生なんて、こんなくだらないものはない。
 
「ねー、連続はキツいんだけど」
 
 何か入れてよ、と清澄さんが暗色交じりの髪を揺らす。
 僕はテーブルに置かれたデンモクを一瞥して、手に取ることもせずに目を閉じる。
 
「……お好きにどうぞ」と僕は寝る準備を始める。
「はあ?」
「僕は歌わないから」
「歌舞伎の曲とかないの?」
「なに、カブキの曲って」
「歌舞伎の曲だよ。なんか、能とか? そういう、なんかないの?」
「なにもない」
「ほんとにないの?」
「なにもないよ」
 
 僕にはなにもない。
 もし人生に希望が残っていたら、そもそも僕はここにいないだろう。ほとんど話したこともない白ギャルみたいな同級生に教室のど真ん中で二人きりのカラオケに誘われて、それに付いていったら周りからどんな評価を受けるかくらい僕にだってわかっている。
 構わないんだ。もう。
 依田さんと付き合うこともできない高校生活なんて。
 
「じゃあどうする? ぞうさんとか入れる?」
 
 まったく気にしていない声色に、僕は重いまぶたを持ち上げる。
 隣の彼女の膝の上で、デンモクの検索欄に「ぞう」の二文字が見えた。続いて「さ」が入力されたのを見て、僕はそれが何かの冗談じゃないことを知る。
 
「なんで、ぞうさん」と僕は文句を口にする。
「ぞうさんなら歌えるでしょ?」
「そこまでして歌わせたいの?」
「べつに。歌わなかったら中止押すし」
「いまさらゾウの親子の鼻の長さを再確認させられてもどうしようもないんだけど」
 
 清澄さんはよくやくムッとした顔を見せる。
 そして僕の膝に乱暴にデンモクを放った。
 
「じゃあはやく入れれば?」と彼女はテーブルの上のソーダに手を伸ばす。
「なに、激おこファイナルなんとかなの?」
「……ウタってうざいね」
「誘わなければよかった?」
「うん」
 
 正直な返答。まあそうだろうなと僕も頷く。
 けれどすでに発生している部屋代は現役の学生からすると決して安いものではない。それを理解しているのか、彼女も席を立つ様子もない。僕もそのつもりはない。暇を持て余したディスプレイはまったく興味もなさそうなアーティストのインタビューを映し出している。どうやら彼らも僕たちには興味がなさそうだ。
 
 衝動。といって間違いないだろう。
 僕はいつかに聞いた曲のタイトルを思い出し、思い出し、必死に思い出し、辿り着く。そうだ、そんな曲名だった。
 膝に置かれたデンモクに備え付けの細い棒を押し当てる。隣の彼女が僕の手元に目を向けたのがわかった。
 
「……怒りのぶるうす? なにこれ」
「…………」
 
 僕は無視して送信を押す。
 ここは彼女に習って、と席を立つ。ついでに少し距離を取る。
 なぜなら、少し危険だなと思ったからだ。
 
 どこで聴いたんだっけ。これ。覚えてないけど、ちょうどいい。
 
 彼女のストローがずずっと音を立てた。
 一杯目が空になっても席を動かないということは、どうやら僕の選曲に興味があるのかもしれない。邪魔だからジュース注いで来ればいいのにと思う。
 本当に邪魔だ。邪魔だし、それに。
 
「……? ねえ、始まってるよ?」
「……ふう」
 
 画面に映し出された白文字は次々に色を染めていく。僕はただ息を吐いた。大きく吸うための前準備だ。
 本当になぜだろう。
 何が依田さんだ。僕は依田さんにどんな夢を見ていたのだろう。なぜ隣にいるのは短い黒髪のよく似合う彼女ではなくて、こんな、下手をすれば四十台のおっさんと一緒に街を歩いてそうな女子なのか。これだけ見た目にお金を掛けて、お金は足りるのだろうか。バイトでもしているのだろうか。してそうだなとも思うし、してなさそうだなとも思う。
 どっちでもいい。せっかく整っていそうな顔をさらに改造しようとする彼女のことは理解ができないし、依田さんの趣味にも理解はできないし、僕はこのままうだつの上がらない一生を過ごすであろうこともきっと避けようがなくて。
 それで、本当に。
 本当に、ああ。もう。どうでもいい。
 
 ただ、息を大きく吸った。
 
「…………ああ、あ」
 
 ――――――――――――――――――ッ!!
 
 防音のドアを突き破らん勢いで。あるいはマイクを破壊するつもりで。
 全ての苛立ちを喉にぶつける。腰を曲げて、床に額の熱を打ち付けるが如く。感情をぶちまける。およそ自分が依田さんの幸せなんてこれっぽっちの願っていないことを知る。あのクソみたいな奴に乱暴されて傷つけばいい。そうして泣けばいい。
 本当の愛なら相手の未来を、だとか。甚だ馬鹿馬鹿しい。死に腐れ。クソ共。この咆哮が全世界の頭の弱い奴等を死滅させるまで響き渡ればいい。
 鼓膜が揺れて、喉が焼ける。息継ぎをして、三発目、四発目。ああ、ああ。
 あんなのがモテる世界なんて。
 
 
 
 ごとりとマイクを置いて、どさりと座る。
 熱々の喉にウーロン茶を流し込むと、ぴりりと少し痛んだ。今日明日はまともに声が出ないかもしれないな、なんて思った。
 清澄さんは無言で立ち上がる。コップを手に取りドアから外へ。このまま戻らなかったら部屋代は僕が払うことになるけれど、それでも構わないと思った。してやったりだ。ざまあみろ。僕をカラオケなんかに連れてきたのが悪い。
 ソファにもたれながら全身の疲れに酔いしれる。ドアが開いて、ソーダを手にした彼女が戻ってきた。わざわざ僕とテーブルの狭い隙間を通るのは相変わらずで、何回折ってあるかもわからない短いスカートが目の前で揺れた。もう少しでパンツが見えそうだけれど見えなかった。見えたら僕は喜ぶのだろうか。
 清住さんが腰掛ける。さっきより五センチは遠くなった距離が痛々しい。
 
「……引いた?」と僕は投げやりに口を開く。
「いや引くでしょ。怖いって、ウタ。なにあれ」
「怒りのぶるうす」
「曲名を聞いてんじゃないんだけど。なにそれ。ウタが激おこじゃん」
「ああ、やっぱり激おこって使うんだ」
「いや別に言わないけど。合わせただけだよ」
「激おこのぶるうすだよ」
「ふはっ。馬鹿じゃん」
 
 鼻で笑った彼女は足を組みかえる。ソーダを一口。
 名前しか知らない同級生を笑わせたことに僕は少しだけ満足した。
 
「あんなのしか聴かないの?」と彼女が聞く。
「いや、さっきのは僕もいつ聴いたか覚えてない」
「なにそれ。いつもはなに聴くの」
「米津とかヒゲダンと、あとキングヌー」
「聴いてんじゃんウタ。なんで知らないとか言ったの」
「さっきの一覧はほんとに知らなかっただけだよ」
「そっか」
 
 溶けかけの氷がカランコと崩れる。
 頭の芯がスッキリしたように感じた。
 
「出るの、キングヌーとか」と彼女はまたデンモクをいじり始める。
「出るわけない」
「じゃあなんで聴いてるの」
「……、……べつに、メタルを聴いてる人が全員カラオケで歌うために聴いてるわけじゃないでしょ」
「うん。まあ。それはそう」
 
 力の抜ける会話が続く。
 なんだか新鮮だ。女子とこんなに雑なキャッチボールをするのは。
 
「これ歌える?」と清澄さんがまた身を寄せてきて、僕はどきっとする。
「……どれ?」
「これ。かなし」
「かなし? あいしのやつ?」
「そう、あいしのやつ」
「…………まあ、わかるけど」
 
 思いもよらない選曲に面食らう。
 なんでこんな曲知ってんだろ。と思っているうちに、彼女はさっさと送信を押してしまう。押し付けるようにこちらへマイクを手渡すと、彼女ももう片方のマイクを手に取り立ち上がった。画面が切り変わる。
 
「…………」
「交代ね、適当に」
 
 僕の視線を察したように彼女が言った。
 口元にマイクを持っていくのを見て、僕は一度腕の力を抜いた。わかった。とだけ返事をして、僕は彼女の歌い出しを静かに待った。
 いやな予感がした。
 彼女が何かをたくらんでいるというわけでも、何かのアクシデントが起こりそうというわけでもない。ただただ、なんとも言えずに、僕は空いた手で頭をかいた。
 
 こんな簡単に機嫌が直ったら、困るんだけど。
 僕ってそんなに依田さんのこと。いや。
 好きだった、はずなんだけどなあ。
 
 
 
   *   *   *
 
 
 
 自分が酷くゲンキンで薄情モノだということ言うことに気付くまでに、それほど時間はかからなかった。
 ものの三曲くらいだったか。
 認めたくないこの気分の良さは、どうやら本物だ。彼女のやけに真剣な歌声も、コトあるごとに「うまいじゃん」と驚いたように褒めてくれることも、一緒に歌う楽しさも。間違いなく底に沈んだはずの気分を浮かせ始めていて、酷く居心地が悪かった。何かに大失敗して、ヤケになって十万円ほど買った宝くじがなぜか当たって、十万円がそのまま返ってきてしまったらこんな気分なのかもしれない。
 ちょっと見た目が可愛いだけのクラスメイトとカラオケに来たくらいで、簡単に機嫌を直してしまう程度のものだったのだろうか。僕の依田さんへの想いは。
 およそ数週間に渡ってこの身を焦がすであろうと思われた怒りは、知らぬ間に僕より先に店を出て、横断歩道を渡って駅の方面にでも向かったのだろう。帰ってくる予定もなさそうだ。だったら部屋代くらい払えと思う。
 
「…………」
 
 カラフルな風船が転がるようなファンシーなイントロが突然止まった。
 僕は清澄さんの後姿に目を向ける。マイクを持つ右手の一本だけ伸びた指先が、テーブルの上のデンモクを突いていた。一時停止だ。
 
「ねえねえ」とやけに高揚した様子の清澄さんがこちらへ振り向いた。
「めっちゃ可愛くない?」
「……はい?」
「ねえ、可愛すぎる。しんどい」
 
 彼女の指先はディスプレイに向けられている。いまだ歌詞の一文字すら表示されていない画面にはどうみてもカタギとは思えないクマのキャラクターが映し出されている。彩りの綺麗さからいってもおそらくはこの曲のPVなのだろう。
 なんだ。この三人くらいは殺してそうなクマがそんなに人気なのか。
 
「プロモーションなんかネットでいくらでも見れるんじゃないの?」と僕はため息を吐く。
「まじで可愛い」
「別に聞いてくれなくてもいいけどさ」
「でもさあ、金曜ロードショーやってたらまた見ちゃうみたいなとこない?」
「聞いてんじゃん。それになにその的確な例えは。わかるけどさ」
「わかりみ?」
「わかりみわかりみ」
「だよね、可愛いよね」
「可愛さに同意したわけじゃないよ」
 
 画面を見つめたまま恍惚とした彼女をよそに、僕はテーブルの上のデンモクを奪い取った。一時停止を解除されると思ったのか、清澄さんが驚愕した表情でこちらを見た。僕は無視をして曲名検索を開く。
 
「……、……ウター」
「なに」
「あれしてよ。失恋ソング入れてよ」
「なんでまた」
 
 僕が怪訝そうな顔を向けると、まるで僕が疑問を浮かべること事態が不自然なことのように、清澄さんがきょとんとした顔を見せた。
 なんか可愛い、と思った。
 
「え、だって、失恋したじゃん」
 
 可愛くなかった。
 
「なに、なにが」
「ひとみのこと好きだったんでしょ? 教室でなんか言ってたじゃん」
「……聞かないでよ、そんなの」
 
 ひとみ、というのは依田さんの名前だ。
 男友達と仲間内だけで話していたつもりだったのに。まさか聞かれているとは思わなかった。ある意味で、声のボリュームがちゃんと制御できないくらいに憤慨していたとも言えるのかもしれない。
 
「フられた時は歌うのがいいよ」
「べつにフられたわけじゃないんだけど」
「そうだね。ちゃんとフられたほうがまだカッコイイもんね」
「……」
 
 なんとか言い返そうと、思い浮かんだ言葉がひとつ残らず負け犬の遠吠えに思えて、僕は奥歯をかみ締めた。
 それなら入れてやろうじゃないか。
 僕の十八番の失恋ソング。
 
「……いいじゃん」と、画面の右上に表示された曲名を見て清澄さんがつぶやいた。
「これも知ってるの?」
「知ってるよ。あたしも好き」
「そうですか」
 
 それは何よりだ、と心の中で吐き捨ててデンモクを戻す。
 失恋ソングも何も清澄さんが極道の熊鑑賞を終えてくれないことには歌えるものも歌えないのだが。
 しばらく自分の番は来ないだろうとスマホを取り出す。清澄さんが無駄に僕の守備範囲までカバーしているせいで選曲に悩む。いや、別にギリギリ知ってそうな線を無理に狙う必要はない。そんなことはわかっている。わかっているけれど、なんとなく、その顔に微かな驚きが見られることを期待してしまっている。その顔を見たがっている自分を否定できなくなってきている。
 こんなところに付いてこなければ、まともに話したこともない派手なクラスメイトが意外と表情豊かだなんてことも知らずに卒業していたはずなのに。
 
 ……あと、僕が歌えそうなバンドといえば。
 
「なにやってんのウタ。はやく立たないと」
「……え、え?」
 
 手元の薄暗さにスマホを覗き込まれていることを知る。
 あれ、もう僕の番だろうか。と立ち上がる。画面にはまだ任侠を重んじていそうなクマ科のイキモノが映し出されていて、なぜかその画面は左半分しか見えなくて、まず最初に知ったのは清澄さんのシャンプーの香りと、次に肌に女の子の髪が触れる感触と、さらに順を追って女の子の身体の柔らかさと、男子と女子が夏服同士で抱き合ったらどんな感じなのかということを理解した。
 停止した感情がやっと理解に追いついて。
 追いついた結果、やはり、僕は停止した。
 
「いちおう聞いとくけど」と耳元でした声が、一瞬清澄さんの声と認識できなかった。
「ウタってドーテーだよね?」
「…………ぁ、な、なっ、き」
「うんわかった。そうだよね」
 
 動こうにも、彼女の両腕は脇から背中に回されていた。
 まるで匂いを嗅ぐかのように僕の肩に鼻を押し付けた清澄さんに。一瞬にして僕の歴代対女性パーソナルスペース距離を瞬く間に更新してしまった彼女に。ノドがひゅっと鳴って、万が一こんなことが偶然起こったとしても冷静に対処していた妄想の中の僕はどうやら架空の産物でしかなく、冷めた言葉はおろか、気の利いた返しも、鼻で笑ってやることもできずにただただ彼女の抱擁を受け入れてしまっていた。
 だって、何が。
 どう、わからない?
 誰が、なぜ。
 何を、理解できなくて?
 
「うーた」
「ぃや、あ、あの、あ、き、清澄、さん?」
「んふ。うける。こんなので緊張してるのウタ」
「なっ、なに、なにを」
「何ってカラオケに来たんだから決まってるじゃん」
 
 明らかにトーンダウンした音。耳元に潜むような低い声にいやがおうにも秘め事をイメージさせられて、薄暗い部屋の中が一段と見え辛くなった気がした。思わず後ろのカベに手をつく。傾いた僕の体に清澄さんの生暖かい肢体がそれでも纏わり付いてくる。このままソファに座ってしまったら彼女までもれなくついてくるであろうことを知る。
 信号が赤になれば止まることぐらい、十七年も生きてくれば僕にだってわかる。けれど、水着に着替えてプールに飛び込む寸前、プールサイドに置いてあるコタツで丸まっている人物から「なにやってんの」と聞かれたら、僕はやはり、いまと同じような思考状況に陥るのだろう。
 ギャルみたいな女子高生がオトコとカラオケに入ったら決まってスルことだなんて、僕の十七年には何の情報もない。あってたまるか。そんなもの。
 
「……」
 
 わずかに身を離した彼女が大きく縁取られたまぶたで僕を見上げてくる。わずかに嘲笑を含む口元がやけに似合っていて、僕は息の仕方を忘れる。印象をさらに引き立てる深い色の瞳はカラーコンタクトでも入っているのか、近すぎるクラスメイトとの距離に、同時に下腹部を滑り降りてくるナニカにすぐに気付けるわけもなく、生温い手の感触がズボンの中央をざわりと上下して、僕は遅れて、「ぁ」と情けない声を上げた。
 思わずしかめた僕の顔に彼女が嗜虐的に笑い、それすらゾっとするほど可愛くて、まだ動きを止めてくれない彼女の手に、背筋をナニカが走り抜けていく。言葉になっていない批難は清澄さんの意地悪な笑顔を深めるばかりで、肩を押しのけようとした手は掴まれて、頬に優しく唇を付けられる。意識の隙間に流れ込んでくるような行為はあまりに手馴れていて、その水流を塞き止めるすべなど持ち合わせているはずもなく、女子の顔が、僕の顔と、ほんのわずかな時間でもくっついてしまったという事実に打ちひしがれる間もなく、「おしりでも触る?」なんて声が脳に届いたときには、僕の手の両側は彼女の手のひらと、ソコに挟まれていた。
 短いスカートのプリーツ。そしてスカートと脚の境界線。布が肌になるその一線に自分の手が触れてしまったことに気付くまでは、ただ手のひらが温かいななんて、本当にただそれだけの意識で、気付けばさらに外側から押し付けられた手のひらは柔らかい丘に埋まり、そのまま上下したことによって布がめくりあがり、自分の指先が、その中にある薄い綿のような感触を捕らえてしまったのが原因で、そこでようやく彼女の言葉を理解した僕は、まるでそれが核実験に扱われる物質だと教えられたかのように、ばっと手のひらを避難させた。
 ひどい笑われようだった。
 馬鹿みたいな笑い方が、イヤに可愛くて、嫌だった。
 
 やっぱり真面目だね、ウタは。
 そんな言葉とともに、また僕の大事な部分の上で、彼女の手のひらが動き始めた。対策を考える前に眉が寄って、息が口から出て行って、声を押しとどめるのに精一杯だった。
 慣れきった彼女の手順には何の迷いもなく、いまされているコトを防ぐ方法を考えているうちにきっと彼女の頭ではさらに三つ四つと次の行為が予定されているように思えて、きっと彼女の蛮行を防ごうとするのは洪水の中でドミノを並べようとするようなもので、ゆいいつ頼りの頭はズボン越しの感触ばかりを鮮明に受け取って今にもメモリを超えそうになっている。
 はたと、止んだ感触に。
 彼女の髪が見えた。うつむいてしまった彼女をただ見ている僕は足の感覚もなく、けれど彼女の肩に捕まっていいのかどうかをいまだに協議していた。かちゃり、こち、と下から音が聞こえて。聞こえて。
 聞こえた。
 腰の涼しさにはっとした時にはすでにボクサーパンツが丸見えになっていて、僕は慌てて彼女を呼び両肩に手を掛けた。
 
「ひゃあっ、いやぁあんっ」
「……っ!!」
 
 ほんのわずかに触れただけ、のはずだった。
 けれど力が入っていたのか何かイケナイ場所に触れてしまったのか、やけに艶かしい悲鳴を上げた清澄さんが恥ずかしがるような表情で僕を見上げていた。二度目の核物質。地元が更地になってしまうより早く、僕はその細い肩から手を離した。とたんにニヤりと笑った清澄さんの手元で、薄黒いソレが元気に下着から顔を出した。
 演技だ、と思ったときにはすでに僕のソレはネイルの綺麗な手のひらに包まれていて、もう片方の伸びた手はデンモクを操作していて、人相の悪いクマが消えた。
 演奏中止。
 ハイと渡されたマイクにはすでに電源が入っている。履歴の画面が移り変わり、僕の失恋ソングが勝手に始まった。
 
「80点以上ね」と清澄さんが言った。
 
 まともに返答もできなかったのは、僕のソコを掴む彼女の手が上下し始めたからで、一気にカッと熱を帯びる下半身に、僕はようやく何もかもを頭から取っ払い、口を動かすことだけに集中する。
 なんだ、これ。
 
「なに、ぁ、きよ、……っ、さん、ちょ」
「めっちゃエロい顔するじゃんウタ。知らないの、手コキカラオケ」
「てこ……っ? な、なにを」
「なにって普通するでしょ。ほら、80点以上ね」
 
 普通もなにも、点数も、その謎のキメラ単語も。
 何もかもわからない。さっきまでそれなりに会話ができていたはずの清澄さんが別の惑星のイキモノに思えて仕方がない。
 こんな文化は知らないし、存在していいはずが。
 ない、けど、ああ。
 
「なあ、……ぁっ、つ、なんで、80って、どうなる、の、あ」
「感じすぎじゃん? ヤバくない?」
 
 清澄さんがケタケタと笑う。
 その視界の端で、バラード調のイントロは佳境を迎え、白い文字が見え始めた。
 
「80点とれたら」と彼女が目を細める。
「もっとイイコトしてあげる」
 
 彼女しっとりした手がまたきゅっと圧を強め、大きく上下した。
 おぼつかない頭でマイクを口に持っていく。歌いだしが滅茶苦茶だった。
 こんなこと、なんで。と思うのに、すぐ近くで僕を見つめている清澄さんの瞳には有無を言わさない光が宿っていた。その近すぎる距離も絶対にわざとだった。
 手がまた動いて、僕はもういっぱいいっぱいで、思わず吐き出した吐息がぼふっとスピーカーから部屋へと拡声された。黄色い笑い声が上がった。酷く体温が上がって、顔も熱くて、何よりも、彼女の手が信じられないほどに。
 キモチ、よかった。
 一往復、二往復。歌詞の文字が意識を上滑りする。慣れたメロディーに、条件反射のように動く口から一番か二番かもわからない言葉が放たれていく。震えた声がスピーカーを伝い、もちろん隠せるはずもなく、ヤケに楽しそうな清澄さんの笑みに身体が焼かれる。汗がふきだす。恥ずかしくて、腰が砕けそうで、死ぬ。もう。
 
 あ、あ。
 
 あわやというところで彼女の手が止まった。僕は気付けば白い文字に色が付いていくのをただ見送っていた。ぐっと近寄った唇。がんばれ。という言葉が温もりと一緒に耳に入ってくる。強烈な身震いが全身を襲った。
 負けでいい。負ける。いわれのない敗北感に、僕はあきらめる様に、すがるように彼女の肩にすがりついた。さっきも嗅いだシャンプーの香りから、また耳元に小さな笑い声と、がんばれぇ、というささやく様な柔らかい音が響いた。
 
「…………っ!」
 
 ボクのセンタンがヌルリとヌメった。
 ボクを掴む、彼女の手の親指が亀頭をやさしく撫でるように、くりん、くりんと回されていた。声が出た。マイクを通った。彼女がまた笑った。
 酷く甘くて、優しい感触だった。あるいは僕をどうあってもイかせないという動きにも感じられた。
 
「これだけ手加減してるのに、ウタ弱すぎ」
 
 手の動きは緩やかになったのに、僕はいまも寸前で、けれどその親指の動きは確かに赤子の頬を撫でるかのように繊細で。
 優しくて、甘くて、甘くて。
 甘さに、陰茎が溶けてしまいそうで。
 ほら、と彼女に促されて画面を見る。僕はもう一度マイクを構えるけれど、数秒も持たずに、彼女の肩に抱きついた。もうだめ? とたずねる声があまりに優しい響きに聞こえて、僕は泣き言すら漏らしそうになってしまう。
 マイクを持つ手はもう、彼女の背中。ベース音とドラムと、ストリングスの音だけが空しく響き続ける。
 しょうがないなあ。
 確かにそう聞こえた僕は、きっと何かを期待し、何かを予感し、ぎゅっとした唇をかみ締めた。清澄さんの、オンナノコの柔らかい身体にしがみついたまま。そのシャンプーとほんのりとした香水の香りに包まれて、僕は泣きそうな声を必死で我慢する。
 彼女が体勢を少し変えた。僕はびくりとした。
 彼女のもう一方の手も、ボクのソコにあてがわれたのがわかった。手の動きが速くなった。息で鳴いた。僕の呼吸が、そのあまりのキモチよさを洗いざらい彼女に伝えてしまっていた。ムキだしのボクが震える。彼女の手に扱かれて暴れる。彼女はもう何も言わない。無言で強く握って、速く動かしていく。ただそれだけのことが、ただひたすらに続いて。
 彼女を呼んで。意味もなく呼んで。
 彼女がうんと返事をして。
 ボクは。
 果てる。
 
「――――――――――――――――ッ!!」
 
 彼女の手は綺麗だった。
 ツメにもきっとお金が掛かっていた。
 教室でスマホをいじる指先も、この部屋でデンモクを手にした指先も、遠くから見てもとても同級生とは思えないほど手入れがされていて。そんな、彼女に。その手に。
 吐き出す。
 鳴いて吐き出す。しがみつく。
 彼女の手に。すべてを容赦なく吐き出していく。それを強制される。
 耳たぶが熱くなる。首まで埋まるような生温い感触。自分の動きにわずかに引っ張られるような痛みが走って、そこではじめて、彼女にそこを甘噛みされていることを知る。ぼうっと耳の穴を蒸らす吐息に、その行為自体に、体中の血液が蒸気を上げる。
 往復の戻り、彼女の手が僕の下腹部に当たる、その肌と肌の音が卑猥に連続する。カウパーに濡れた手がくちゅくちゅと音を立てる。
 出す。出していく。出すことを強制される。
 何もできず、何も抗えず、ただただ彼女にしがみついて、彼女にてを動かされて、彼女に出していく。サビのBGMを微かに耳が拾った。あー、という、彼女の呆れにも似たような、けれどどこか嬉しそうな声が聴こえた。
 彼女の髪に鳴いた。彼女の香りに泣いた。
 白く明滅して、下半身の先端から快感が転位して、身体の隅々まで行き届いていく。陰茎以外の感覚が消えて、何もなくなって、ただ気持ちがいいだけのオトコのカタマリになりさがる。動けず抵抗もできず、ただ彼女の手に気持ちよくされて、鳴くだけの、肉塊。
 悦ぶ、肉塊。
 ボク。
 僕。
 
 ああ。ああ。
 清澄さん。ああ。
 
 あ、あっ。
 
 
 
 あ。
 
 
 
   *   *   *
 
 
 
 ドアが開いた瞬間に、誰かが通りかかったら大変だなと、そんなことを考えながら僕はソファにもたれていた。
 天井を向くそのソレをしまう気力もなく、ただ半ケツのまま動けずにいた。画面には点数が表示されていなかった。きっと採点基準にすら届かなかったのだろう。
 しばらく放心していた僕は、画面の切り替わりにびくりとする。興味もない女性のアーテイスト紹介が始まり、ようやくボクサーパンツを引っ張り上げて、愚かなキカンボウをその中に押し込めた。ズボンを吐いて。ボタンを何とか留めて。
 ベルトは……、まだ、いいか。
 もう、なんでも。
 
 ドアが開け放たれて清澄さんが無言で入ってくる。
 手を洗ってくると言っていたから、トイレから戻ってきたのだろう。
 
「ぜんぜんダメじゃん」
 
 ちらりと画面をみた彼女がそういった。僕は何を言い返す気にもならなかった。
 もし80点取っていたらどうなっていたのだろうとか、今になってみれば気にならないでもないけれど、そのために歌ったわけでもないし、僕にほかに選択肢があったようにも思えない。そもそもまともに歌えてすらいないけれど。
 
 ふん、ふん。
 
 彼女はさきほどの僕の十八番のバラードを鼻歌で歌いながら、僕のスマホと自分のスマホを突き合わせて何かをしていた。何でももう、好きにしてくれという体制に入っていた僕は、ただ呆然とそれを眺めていた。
 
「おっけー」と清澄さんが声を上げる。どうやら連絡先の交換をしていたらしい。
「80点いかなかったから、今日はウタのおごりね」
 
 そう言って、彼女は手鏡でちょいちょいと髪をいじると、アクセサリーがじゃらじゃらと付いた学校鞄を肩に掛けた。もう帰るらしい。
 容赦なくドアに手を掛けようとする、その背中に。
 
「清澄さん」
 
 気付けば、声を掛けていた。
 振り向いた彼女に、僕の方がむしろ驚いたくらいだった。何のために呼び止めたかもわからなければ、何を口にしようとしたのかもわからなかった。
 否、すべて嘘つき。
 僕は、こんなことで。こんなことの後で。こんなに認めたくないことで。
 でも確かに。
 
「ふふん」
 
 にやりと清澄さんが笑った。
 そんな笑い方がやっぱり似合いすぎていた。
 
「あたしのコト、ウタは好きになっちゃだめだよ?」
「え?」
 
 僕の疑問符は勝手に口をついて出て、けれど清澄さんはすべてわかっていたかのように、その笑顔を寸分と崩すことはなかった。
 
「だって、教室で言ってたでしょ、ウタ」と彼女はドアを開く。
「真面目な子がヤンキーを好きになるなんて、おかしいって」
 
 一人になった個室には、やはりどうでもいいアーティストたちによって軽いノリの会話が響いていた。僕はただ佇んでいた。
 テーブルの上には二つ並んだマイクと、伝票と、スマホ。
 連絡先を残された。その理由がなぜか僕にはすごく意地悪なことに思えて。
 端末に手を伸ばすこともできずに、興味のない奴らの会話を、興味もないまま、ただ、だらだらと聞き続けていた。
 
 
 

 書いたもの

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 プレイ内容(ネタバレ含む)


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