第一話 何色


 
 
 
 

 別に興味がないわけではない。

 むしろその機会にありつけるのであれば多少の出費も致し方ないところではあるが、それはあくまで何のデメリットもない場合の話であって、社会的地位の低下と生活環境へのダメージを考えれば教室のど真ん中で裸の女体写真をまとめたような――――――つまるところエロ本を読むような馬鹿な輩はいるはずがない。誰にも邪魔をされず、誰にも咎められずに楽しめる場所でこそ、それは価値のあるものになるのだ。
 それは一般的な、それこそ偏差値でいえば中の上程度の高校の小テストの最中だった。この高校への入学を決めたのは中学時代の知り合いに誘われたのが大きな理由で、部活だけで三年間過ごそうと本気で考えていた俺にとって、こういった自分の可能性を広げるための素敵な試みなんてものは心底どうでもよかった。
 だいたいなんだ小テストって。じゃあ普通のテストはどの程度の規模なんだ。紙のサイズか。A3サイズなら大きなテストなのか。だったらセンター試験はA0用紙を使うのか。試験場を武道館にする必要があるだろうな。
 俺はため息を吐きながら作業を続けた。すでに分けられたテストは適当に済ませて、俺は裏面の広大な余白にシャーペンを走らせた。縦棒、横棒、矢印、ワープゾーン。余白のほぼ3分の2が埋まり、もうすぐ一大巨編の迷路が完成するところだった。
 
 それは本当に偶然だった。
 いや、厳密には偶然ではなく、視界の端っこで肌色の面積が広がったのを健全な男子高校生の高性能な眼球が捉えてしまったから、かもしれなかった。
 何はともあれ、俺は見てしまったのだ。
 スカートが捲くられることで現れた太ももはもはや絶品というよりほかなく、彼女の手がさらに際どい方へと擦るように動いたせいで、さらに奧にある女性特有の衣類が見えてしまうところまでがまるでコマ送りのように網膜に映し出され、すでに誕生日を迎えたこれまでの16年間を曲がりなりにも人間のオスとして育ってきた俺としては、その曲線美に抗うことなんてできるはずもなかった。
 そう、俺は見てしまったのだ。
 彼女の手が離れ、肌が隠れてしまうまでのひとときを、脳に焼き付けるがごとく、しっかりと見てしまったのだ。
 それはほんのわずかな時間だったかもしれない。それでもふと訪れた非日常はあまりにも強烈で、その後彼女の手がひらひらと動くまで自我を失っていたのは仕方ないとも言える。
 俺はぎくりとして、恐る恐る視線を上げた。隣の席の植田さんが机に突っ伏したままこちらに顔だけを向けていた。
 彼女が、にやりと笑った。
 
 それは気が遠くなるほど長い数分間だった。
 すぐさま視線を彼女からテスト裏の迷路へと戻した俺は、人差し指でスタートからゴールまでの道のりを確認し始めた。突き当りを左に、角を曲がって。
 ひたすら道筋を辿るように指を滑らせたが、元よりテストが返ってきたら友人に見せて笑いでも取ろう程度に考えていた暇つぶしの産物なんて今は至極どうでもよく、制作過程のことも頭の中からきれいさっぱり吹っ飛んでいた。作った本人でありながらまともに攻略もできなかった。そもそも完成していないのだ。ゴールも出来上がっていないことすら失念していたのだから、自分がどれほど彼女と目があってしまったことに衝撃を受けていたのかは推して知るべしだ。
 早急に対策が必要だった。なにせ俺の学生生活の余命は残り数分。チャイムと同時に井戸端会議で晒されれば、噂という名の稚魚は川に放流されて大海原に旅立ってしまう。そうなればもう取り返しはつかないだろう。俺は女子たちの蔑んだ視線に怯えながらのハイスクールライフをエンジョイすることになる。きっと楽しいことだろう。
 本当に、冗談じゃない。
 俺の体は身の危険に伴う体温の上昇を冷や汗で下げるという恒温動物としては至極まっとうなマッチポンプ状態に陥り、もはや道筋を辿ることもできなくなった指先で紙の表面をカリカリと掻いていた。
 彼女に口止めを請うしかないのだろうか。しかし、実際には彼女が俺の視線に気がついていなかったとしたら、とんだ墓穴を掘る事になる。
 かといって希望的観測で勝負するにはあまりにデリケートな問題だ。放置は厳禁。俺が後になってどれだけ弁明したところで、噂が広まった時点で終わりなのだ。
 やはりチャイムが鳴り次第、すぐに話をつけるより他にない。そう考えた俺は隣の席の植田さんについての情報を整理する。
 もともと女子と会話をするのは得意な方ではなかったせいか情報と呼べるほどのものは持っていないが、幸い植田さんは同じ中学の出身だ。クラスこそ一緒になったことはなくとも3年間も同じ中学に通っていればそれなりの雰囲気だけは伝わってくる。
 派手な集団の中の派手じゃない方。というのが俺の受けた端的な印象だった。
 カーストで言えばおそらく上位のグループに属していたようではあるけれど、本人は大声を上げて楽しむといよりは専ら聞き役専門のようで、常に気だるそうな表情も友人と話す時には少し愛好を崩していたようにも見受けられた。それが彼女の素の表情だったのか、それとも処世術だったのかなんてことはもちろん判断するほどの材料は持ち合わせていないが、この高校にきてから積極的に優位性のありそうなグループに混ざっていくという様子はあまり見かけられない。あっても2人か3人か、少数で集まっている印象が強い。
 中学時代の彼女のグループはその大半がここよりさらに“入りやすい”高校に行ってしまったらしい、というのを同じようにその高校へ行った俺の友人からなにとなく聞かされた覚えがあった。知り合いと一緒であるこの高校を選んだ俺が言えるようなことではないが、大事な進路選択をたかが一時の友情によって決めるなどという愚かなことは彼女は選ばなかったようだ。そもそも集団に取り込まれただけで、そこまでの仲でもなかったのか、彼女がこざっぱりした性格なのか。そのあたりはわからない。
 さて、彼女の交友関係は現時点ではあまり広くない、ということであるが、だからといって少数であれば俺の噂が広がっても問題ない、ということにはならない。まったくならない。なぜなら最初にも言ったとおり、全ての川は海に通じているからだ。
 
 チャイムが鳴った。比例するように俺の心臓もうるさくなる。
 所々からうめき声やお調子者の歓声なんかが入り混じり、教室内が喧騒に包まれる。俺は後ろから回された小テストを出来る限り無駄のない動作で前に送り、胸を小さく二度叩いてから意を決して隣の席に目を向けた。
 すでに回収作業を終えていた植田さんは、あのときと全く同じ姿勢のまま俺を見つめていた。びくりとした俺に、彼女は口の端を上げてちょいちょいと手招きをした。
 俺は不安に押しつぶされそうになりながら席を立った。何を言われるのだろうか。いきなり片手を掴まれて「この人が痴漢です」なんてのもありえるのだろうか。
 もとより女子とサシでの会話なんてここ数年で覚えにない。厳密に記憶をたどればまったくないという訳ではないのだろうが、……要は俺の女性経験というのはその程度だということだ。俺には女子がわからない。わからないから怖い。同じ人類だということを理屈として理解しているだけ。もしかしたら彼女達も、お腹が空いたらご飯を食べたりするのかもしれない。
 俺は彼女の席の隣に立った。交流もないクラスの女子に自分から話しかけるだなんて、そんなバンジージャンプみたいな行為を覚悟していた俺としては、彼女の手招きはある意味助かったといえるのかもしれない。周りの目も当然気になるけれど、気にしているからこそ、ここでケリをつけるしかない。痴漢男と呼ばれながら平然と生きていけるほど俺の心臓は毛深くはないのだ。
 気だるそうな瞳が俺を見上げた。俺は第一声のために開きかけた口を、しばらく考えた後にあえなく閉じた。「なに?」と尋ねるのは白々し過ぎるし、「何か用?」だとか、「どうしたの?」なんてのもそれに同じだ。だからと言って、「あれは偶然目に入っちゃって」なんて言い訳から入るのも馬鹿らしい。俺は仕方なく彼女から下される判決を待った。
「死んで」
「え?」と俺は聞き返した。
 整った顔立ちと、形のよい唇からは信じられないほど温度の低い言葉が発せられた。異質な空間に迷い込んで、彼女という特異な登場人物に突然話しかけられたのではないかというほど、現実味が無かった。
「死んで?」
 彼女は表情を変えずにもう一度言った。
 聞き間違いであって欲しかった言葉は、それを許してくれそうになかった。テスト中に微笑みを俺に向けた彼女は、その実、俺が憎くて憎くて仕方なかったのだろうか。殺したいと思うほど見られたことを恨んでいるのだろうか。だとしたら、俺はクラスの恥晒しになるより、もっと悲惨な目に合うのではないだろうか。
「あ、え、と」
 俺は彼女を直視できなかった。謝れば許してもらえるのだろうか。きっとそんな甘い話ではない。罵倒、罵声、嘲笑。いじめ、お金、家族、自殺、転校。一度にいろいろな単語が頭を過ぎる。正体のわからない女子は、やっぱり正体のわからない怪物で、関わるべき相手ではなかった。
 なんでもいい、謝るしかない。土下座、土下座を。
「嘘だよ」
 俺が膝を折ろうとしたところで、植田さんのやけに柔らかい声が聞こえた。
「へ、は?]
「だから、死んで、なんて嘘だよ」と植田さんが笑った。「嘘だから。むしろ生きて」
「は、な」
 口をぱくぱくさせる俺を見て、植田さんは突っ伏したまま腹を抱えた。その愛らし過ぎる笑顔にパニックを起こしながら、俺はどうしようもなく突っ立っていた。
「真面目すぎるよお」と目に涙さえ浮かべながら、彼女は口元を手で覆い肩を震わせた。「生きてくれればいいから、ほんとに。80歳とか90歳とか、生きたらいいよ。ごめんねえ、もう。そんな、この世の、終わりみたいな、顔されちゃったらさあ」
 ひーひー言いながら目じりを拭う彼女に、俺は失っていた血の気が次第に顔へと集まってくるのを感じた。酷く恥ずかしかった。この上なく悔しかった。
 何が楽しい。
 俺は初めて植田さんの爆笑する姿を見た。同時に、初めてオンナという生き物とは決別しようと本気で思った。噛み締めすぎた奥歯が痛んだ。唇が震えて、まともな言葉を話せる状態でもなかった。
 文句を口にすることすら憚られて、俺はいっそ教室を出てしまいたかった。振り向いた先で予想外に多くの目がこちらを向いていた。俺が始めて彼女のこんな姿を見たように、他のクラスメイトからしてもそれは希少な光景だったのだろう。そうでなくても、これだけ大きな声で笑っていれば、やれ何か面白いことでもあるのかと目を向けるのが普通かもしれない。
 俺の瞳が相当の怒気を孕んでいたのか、それとも盗み見ていたことの罰が悪くなったのかはわからないが、目が合えばそれが女子であれ男子であれ友人であれ、ふいと視線を外してしまった。最悪な気分で、俺は教室の出口へと足を踏み出した。
「ちょ、ちょ、ちょ」
 歩き出す俺の手を、柔らかい感触が襲った。目だけを向けると、植田さんの手だった。彼女の頬は笑いすぎたせいか紅潮していたが、それでも先ほどとは打って変わって真摯な表情になり、じっと俺を見つめていた。彼女が俺の手をぎゅっと握り込んだ。痛いと感じなかったのは、それが女の子の手であって、さらに言えばその感触を確かめるほどの心的余裕がなかったからかもしれない。
「ごめん」と俺を目を見つめたまま植田さんは言った。「そんな怒らせるつもりじゃなかった、ごめん」
 それだけ言うと、彼女はもう片方の手を伸ばし、俺の手を両手で優しく包むように握った。怒りの半分がすっ飛ばされて、驚きに変わった。女の子の手の柔らかさを、初めて意識した。彼女はそのまま俺の手を引き寄せるようにして、目を瞑った。まるで祈るようにそこへ頭を下げて、丁寧に言った。
「ごめんなさい」
 掴まれた手の指先に彼女の前髪が触れた。心臓が早鐘を鳴らした。怒りの残りも綺麗に吹き飛ばされて、驚愕だけが残った。それはとてつもなく長い時間に感じた。しばらくして植田さんは目を開けて、小首をかしげた。
「許して、くれる?」
 煮えたぎるほどの怒りに駆られていたはずの俺は、そのとき何を思ったか。
 植田さんって、もしかしたら可愛いかもしれない。
 所詮俺の女性経験なんて、その程度だということだった。
 女子とお手手を繋ぎながら見詰め合っているこの現状はあまりにロマンチックに過ぎた。コンビニの可愛いバイトさんとお釣りなりレジ袋なりの受け渡しで偶然手が触れたくらいで安っぽいドラマのラブソングが頭に流れそうになる俺には、あまりに女性成分が供給過多だった。そのうち賛美歌が流れるかもしれないと思った。
 いつしか触れた手が温かさに包まれてしっとりしていた。恐らくは俺の手汗だった。いたたまれなくなった俺は、彼女から視線を外した。一度泳がせた目はこちらをじっと見つめている彼女の方へ戻れるはずもなく、回遊の末に二つ後ろの席の女子が読んでいる本の背表紙に落ち着いた。『今すぐ使える気持ちの整え方』とあった。今すぐ使いたかった。
「ねえ」
 植田さんが再び俺の手をぎゅっと握った。うまく息が吸えなかった。
 その声に反応するように、教室内でカバーもなしに実用書を読みふけっていた女子がすっと目を上げた。まさか俺に見られているとは思わなかったようで、慌てたように本の内容へと視線を戻した。ふと俺が周りに目をやると、やはりというか、またしても数人のクラスメイトと目が合った。どうやら俺なんかより何倍も“進んでいる”はずの彼ら彼女らにとっても、この突発的ロマンスはそれなりに刺激的な見世物だったようだ。
「ねえってば」
 もう一度彼女が俺を呼んだ。逃れられそうになかった。
 意を決して振り向くと、植田さんは心配するように俺の顔を覗き込んで「やっぱり、怒ってる?」と尋ねた。怒ってなどいなかった。怒ってるはずがなかった。それを彼女に伝えなければならなかった。俺は口を開き、もっと気の利いた言葉はないものかと少し模索してから、諦めたようにそれを口にした。
「怒ってないよ」
 他の人に聞かれまいとした返答は声量の調節を誤ったか、必要以上に小さい声で発せられた。植田さんは一瞬きょとんとして、まるで俺の真似をするように声をひそめた。
「ほんとに? 怒ってない?」
 いまの状況と口の動きが見えなければ何を言っているのかすらわからないほど小さな声だった。俺は彼女が乗ってくれたことに何となく気をよくして、同じように続けた。
「怒ってない」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
「ほんと?」
「うん」
 そこまでやりとりをしたところで、植田さんが笑うのを我慢するような表情になり、その後を言葉にしてしまったことで、抑え切れなくなったように笑い出した。
「なんでこんなに声小さいの?」
 俺は至極もっともな意見と彼女の表情に誘われて吹き出した。植田さんは「なんでー」と言いながらまたお腹を抱えていた。俺も一度気が緩んでしまえば収まりがつくはずもなく、自分の顔を片手で覆って肩を震わせた。どうしようもなくアホらしくて、馬鹿げていた。緊張が一気に解けてしまった俺は、もはや疑念なんてそっちのけで迫り来る腹筋の痛みと戦っていた。
「はあーあ」としばらく笑っていた彼女が苦しそうに息を吐いた。「ほんとにもう、中村はほんと、なんでそんなに面白いかなあ」
「知らないよ。別に俺のせいじゃない」
 ひとしきり笑った俺はぐったりしながら、それでも「中村」という女子の声での呼び捨てに新鮮味を感じながら適当な言い訳を返した。
「たぶん植田さんが悪い」
「うそー」と彼女は笑った。「そんなことないよ、中村が面白いのが悪い。わたし証明できるもん」
「証明?」
 俺が聞き返すと、彼女はなぜか気取ったように澄ました顔になった。そして、どこか勘違いしているコメンテーターのように、いかにも大儀そうに語り始めた。
「これはもう周知の事実なんだけど、『だいたいの争いごとは中村が悪い』と昔から言うように……」
「言わないよ。濡れ衣すぎるだろう」
 とんでもない捏造だった。俺が反射的に訂正をしてから「昔の中村さんは何をしたんだよ」と問いただすと、彼女は信じられないものを見る目つきで「ご存知でない?」と言った。完璧な道化っぷりに感心すると同時に、そんな彼女の一面に驚いた。そこまで徹してくれるなら、俺も思い切りいけるというものだ。
「存じてねえよ」
「じゃあ教えてあげる。実はわたしがいま作った言葉なんだよ」
「知ってるよ!」
 俺がわざと声を荒げると彼女は途端にへにゃっと破顔し、口元を制服の袖で隠すようにして数回頷いた。何やら今のやりとりをお気に召したらしく、彼女は袖の内側からだらしなく笑い声を漏らした。普段見せたことのない笑顔。もし彼女が中学の頃にこれを見せていたら、もっと男子共が騒いでいただろうなと俺は確信に近い感想を抱いた。
 植田さんはまた何かに納得したようにうんうんと頷いて、俺に目を向けた。
「それで、話なんだけどさ」
 それまでのやりとりなんて無かったかのようにそう言って、植田さんはまたちょいちょいと手招きを見せた。そして両手で筒を作るようにして口の前に構えた。耳を貸せ、ということらしい。いつのまにか本題を失念していた俺は、彼女が俺を呼んで何を話したかったのかを改めて考え直した。
 俺は耳元に彼女の声が来ることに緊張を覚えながら、ゆっくりとそこに顔を近づけた。ふわっと彼女の香りがした。一際大きく心臓が鳴った。こんなの大したことじゃない、落ち着けと言い聞かせながら、彼女の言葉を待った。先ほどまでの雰囲気からして、そこまで突拍子も無いことは言われないような気がした。彼女が小さく息を吸ったのがわかった。
「わたしのパンツ、何色だった?」
 俺はまだ、苦悩しなければならないらしい。
 
 
 
 
 
 

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 プレイ内容(ネタバレ含む)


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