神話を認めろというのだろうか。
「理解したなら、まずは部屋に案内するわね」
水の中ではない。
生涯にほんの数回のジェットコースターや落下系アトラクションの経験を根拠とするのは不十分ではあろうが、あの胃が持ち上がるような独特の浮遊感があるわけでもない。
ただ前に進めず、落ちることもできず、飛ぶことも、回ることも叶わず、バタ付かせた手足は空を切るばかりで、体の支えがどこにあるのかもわからない。
ただ自分が浮かんでいた。白い世界に浮かんでいた。
ひどく不安だった。
ブランコはどこへ消えた。
俺の住む団地の公園のブランコは。先ほどまで、揺れて、すぐそこにあったはずだ。風もない、音も無い夜の帰路に、そのブランコは誰も乗せていないにも関わらず揺れていたはずだ。
白い柵はどこへ消えた。
ガードレールではない、歩道を仕切るパイプ型の白い柵は。
まだ電気が点いていた、西村さんの家は。
手入れがされているのかもわからない、レンガ造りの植え込みは。
日付の変わる前の暗闇は。
通りは。
俺は。
「ここよ」
う。と。
体が、下へと引き寄せられるように感じた。
ぱ。と。
電気が点くように、それは現れた。
フローリングの床に、シックな色合いの部屋。上品な白い壁紙に、黒やこげ茶色で統一された小物、テーブル、カーテン。木の香りが漂ってくるような気がした。
「……っ」
思わず、バランスを崩しそうになる。
なにがあるわけでもない。ただの重力。けれど改めて、普段の自分が地球に引っ張られていることを強く実感する。
明晰夢。単語だけ浮かんで、俺の理性がそれを否定した。
根拠はなかった。理性のクセに頼りがいがない。
理屈で説明できないけれど、これがもし夢の端くれだとすれば、人間はもう何の努力もせずに全てを手に入れられてしまうのではないかと、そんな直感が消えて無くならない。
「いい部屋でしょう?」
卑猥なコスプレをした女がそう言った。
近頃のハロウィンの映像で見かけるような、馬鹿みたいなアレなソレだった。あんな大勢の前でセックスアピールなんてすればすぐに犯罪に巻き込まれそうなものなのに、そんな簡単なことにすら頭が回らないのであろう、残念なおつむのオンナだ。
きっとその仲間だ。と、そこまで結論したはずなのに、俺の理性がそれを否定した。
根拠はなかった。理性のクセに意気地がない。
存在感。と一言でいうのは簡単だ。言葉だけならば俺だって馬鹿にする。
なにが存在感だ。と。ただ目立っているというだけじゃないかと。目立ちたいだけならば、包丁を両手に持って裸で立体交差点を逝けば存在感があるのかと。
馬鹿馬鹿しい。
「ベッドはそこよ」
指し示した場所を俺は横目で確認して、そしてすぐに"敵"を見据える。
直感がそれを敵と認識していた。首輪のない野良犬がこちらに走ってきたら同じようなことを感じたかもしれないし、あるいは俺の昇進をどうしても認めようとしないあの糞課長と相対するときも同じようなものを感じていたように思う。
害意だ。こいつは、俺を害する者だ。
そして、おそらく人間でもない。
存在感というのはきっとコンナモノを目の当たりにしたときに使う言葉なのだろう。とすれば、今をときめく大スターも、大物俳優達も、もし直に遭遇するようなことがあれば俺は同じような感想を漏らすのだろう。こいつは人間じゃないと。
「説明はこんなところかしら。言ったとおり、これからすぐに"お仕事"をしてもらうことになるけれど、聞きたいことはある?」
「…………」
「構わないかしら。中へどうぞ。命賭けの仕事になるのだから、頑張ってね」
サキュバスを名乗るほぼ裸体の女は、道を開ける様に壁に寄りその先のドアへと俺を促そうとする。そんななんの説明にもなってない戯言をぺちゃくちゃと口にして、俺が理解したかどうかも確認せずに、自分本位な命令なんか出して本当に俺がソレに従うとおもっているのだろうか。
そう聞いてもよかっただろう。これがもし現代のVRとかいう技術を駆使した新手の誘拐であるならば、ここがどこで、お前が誰で、何が目的で、どうするつもりなのか。そういったことを洗いざらい問いただしてしかるべきなのだろう。
しかし現実はその全ての疑問は答えを与えられていて、俺がその"お仕事"とやらに向かわされるのは決定事項のようで、サキュバスを名乗る女もまた、俺がそれに従うであろうことを信じて疑わないようだ。微笑を浮かべるその口元にも、やや垂れた目尻にも、まったく動揺が見えない。
「…………」
何もしない俺に、女は何も言わずにドアの方へと振り返る。
さああ。空気を裂く音がした。
白んでいく景色と、消えていく部屋と。突然出現した長机。
尻に感触。椅子。座っている。
……は。
俺が? いつのまに?
「仕事内容はこうよ」
すぐ隣から聴こえた声に、俺は椅子から転げ落ちる、ことができなかった。
まるで小学校にありそうな「正しい勉強姿勢」のポスターのように、俺は真っ直ぐ前を向いたまま微動だにできなかった。寝違えた腕が動かなくなった時のような、特有の焦りが全身に広がっていって、俺はどうしようもなく呻き声を上げた。
上げたつもりだった。口から音も出やしない。
「空気を絞り取るの。この空間を凝縮して、雫として保存する仕事よ。右手でこう、宙を掬い取るように……」
パントマイムのように、俺の右手が彼女の右手の動きをトレースする。
自分の手ではないと思った。でも、間違いなく自分の手だった。握りこんだ指と指。触れ合ったその感触は眩暈がするほどいつも通りだった。俺が動かしていない、ものを、俺が、動かしている。
強烈な"酔い"のような感覚に、胃液が登ってくるのを感じた。
ギリギリで飲み下す。喉の熱さに痛みを覚える。
「そして左手で輪を作って、そこへ通せば。ほら」
虹色に光る雫が、右手の小指の縁のあたりからぽつっと垂れた。
んもう。
まるで電子音のような太い音が広がり、左手の輪を通る。まるで商品が袋詰めされる瞬間を見たかのように、うっすらとした白色の膜に捕らわれる。ぽて、と机に落ちた雫はその場でふようよと揺らいでみせた。
「はい。これでひとつ。入れ物を用意しておくわね」
料理に使う透明なボウルのようなものが、机の左端へふわりと出現した。空中から羽のようにそっと机に触れる。ガラスのような厚さもなく、手に持つための縁の返しの部分すらない。それこそ、左手で作られた白い膜をそのまま器にしたようなものだった。
「説明はこれだけ。わかったかしら? もしわからなかったら呼びなさい。仕事への質問以外は受け付けないわ。それと、もし基準の数を満たせないようであれば……」
唐突に、腹部の痛み。
痺れが広がるようにそれは肺へと膨らみ、呼吸と共に全身を駆け巡る。ずんとした重みのようだったそれはじわじわと腸を嬲り、肺をぎゅうとねじ上げ、脈動するように強くなっていく。
全身の脂汗。閉じたい目が閉じられない。動かない体が床に転がることもできない。
のたうつことすら叶わない。血管にどす黒いマグマを流し込まれていくのを、ただひたすらに耐えさせられているかのような。
喉の奥が悲鳴を上げる。死にたい、殺してくれと叫ぶ。
音にもならない激痛に、もがくこともできない。
お腹なんていらない。肺なんていらない。内臓なんて、痛覚なんて脳なんて。失くして、亡くせ、早く、はやくはやく、いますぐ殺して、いますぐ、俺を。
狂って、しま、えば。あああああああああああああ。
「はい」
夢から覚める。
否。未だ夢の中。
上着のスーツすら全て変色させてしまいそうだった汗の量は、全て何事もなかったように引いていた。俺のお腹はまだそこに付いていて、呼吸ができるということは、おそらくはまだ、肺もある。
俺が居て。五体満足の、健康体の自分が。ここに。
「わかるわね? わたしたちがあなたを殺してしまうのはとても簡単なことなのよ。家に帰りたいのであれば頑張ることね。こちらが満足するだけの仕事をこなすことができれば考えてあげるわ。それじゃあね。
まずは一時間だけ。
そう言って、女は白い世界に薄くなって消えた。
すとん。と、やはりどこかに落ちた感覚がして、作業部屋の外壁が出現した。まるで小さな女の子がおままごとで使うような人形の家を、上からすっぽりと被されたような気分だった。
窓もない。白い壁紙と、茶色い床と、未だ席に座ったままの革靴の自分。
動く腕。両の手のひらで自分の顔を塗りたくる。
何もない。
いつもの凹凸の少ない自分の顔だ。自分の頭だ。髪だ。何かしらの機器を着けられているわけでは当然ない。わかってはいたけれど、やっぱり違う。
あれは現実で、ここも現実。サキュバスなんて、神話の生き物ではなかったのか。人間の創造が生み出した創作物ではないのか。そうでないならばサキュバスが元々から存在していたことになる。そのときも、やはりそいつがサキュバスを名乗ったということになる。
ああ、どうでもいい。
自らの頬に触れる手が、小刻みに震えているのがわかる。じわりじわりと乾いたはずの汗がまた滲んできているのがわかる。
死ぬと思った。いっそ死にたいと思ってしまった。
まだ生きている。ただそれだけだ。手のひらを走る見慣れた筋の形も、手首のほくろも。動悸のする胸も足のつま先も、こうして呼吸が出来ることさえも、震えるほどに愛おしい。
何もないことに、ただの安心に、奥歯が音を立てた。
……言われた仕事を、どうにかしなければ。
俺は恐ろしさに震える手で空気を掴もうとする。
何の感触もない。そこには酸素と窒素とその他諸々の何かがあるだけだ。
落ち着け。落ち着くんだ。
俺は目を閉じて荒い息を吐き出す。震える呼吸に、自分自身がやはり怖がっていることを知る。それを自覚することが大事だ。大丈夫。いつも通りに激情を鎮めるだけ。大丈夫。
先ほどの出来事。勝手に動いた自分の手の感覚を思い出そうとして、本能的に一瞬嫌がり、けれどそんな自分を説得して、なんとか記憶を引きずり出す。
こんな感じで、こうで、そう、違うな。こう。……そう。
こんな感じ。
ぽちょん。と、雫が机に弾けた。
やけに撥水性のある机の表面に、虹色の粒が細かく散らばる。みるみるうちにその色合いが淡くなり、空気に溶けていく。水滴の消えた机の上を手で撫でるけれど、やはりそこには乾いた机があるだけだった。
……できた。
だきた。できるのか。そうか。
そうか。
よし、よし。よしよしよしよしよし。良し!
今度は右手の下に左手を構える。人差し指と親指の先を付け、筒状に丸める。
もう一度。雫を落とす。
まるで左手の表面を覆っていたラップがさっと剥がされたような感触。へちょ。と、膜に包まれた虹色の雫が机の上に転がった。重力に負けるようにやや平たくなったそれを、俺は恐る恐るつまんで用意されたボウルのようなものに移す。
身を乗り出して覗き込む。それが空気に消えてしまわないこと願い、確認し、そして席に深く沈む。
はあ。
できた。
生き残れるかもしれない。
はたと今の時間が気になった。普段の癖でスーツの袖を引く。
腕時計が示す時間は午後十一時十二分。ここにきてまだほとんど時間が経っていないことがわかる。
ほうと息を吐く。待ち構えていたかのような仕事の疲れが脳天から一気に押し寄せてくる。頭が痛い。鼻の付け根を指でつまむ。何も分からないが、恐らく今日は帰れない。家への連絡と、携帯端末をポケットから取り出す。電池切れだろうか、画面は黒いままだ。
家は大丈夫だろうか。
妻と娘のことを思い返しながら、俺は作業に戻る。まだ右手の感覚が完璧ではないけれど、正しい力加減を見つけ出すコツがわかってきたような気がする。
へちょん。
俺が帰宅しないことに酷く慌てる二人を想像しようとして、失笑する。どうせ仕事が終わらなくて会社に泊まっているのだろうと思われるくらいだろう。別に泊まった事は一度もないけれど、これだけ馬鹿みたいに残業続きならそう思われても不思議じゃない。明日の朝になって、会社から連絡が入って、それで、どうなるか。
ほちょん。
美佳とは、もうどれくらいまともに会話をしていないだろう。中学の頃はまだそれでも、ぶすっとした顔をしながらも学校のことを少しは話してくれていたように思う。けれど、高校生になった今では顔すら合わせていない。
佳帆は、もう先に眠っている時間だろうか。今日もテーブルにスーパーの惣菜弁当を置いておいてくれているのだろう。買い出しに行く時間もない俺としては、もうそれだけで感謝するより他にない。
ちょむ。
稼ぎは俺なんだ。俺しかいないんだ。
帰らねば。
生き残らなければ。
ちゅにん。
「はい、お疲れ様。あらあら」
気付けばサキュバスは隣に立っていた。
その声と先程の激痛がリンクして、俺は意とせず身体を強張らせた。
「まだ一時間だっていうのに、こんなにたくさん。助かるわねえ。現実の仕事なんかやめてここで働けばいいのに。ふふ」
やけに上機嫌にそう言って、サキュバスは雫の溜まったボウルを手に取る。まるで別の空間へ流されていくように、ボウルは空気に薄くなって消えていった。
基準は合格。それも悪くない量らしい。
設計に配属される前の現場での手仕事を褒められていたことを、俺はなんとなく思い返していた。
一時間。そう聞いて腕時計を見る。
午後十一時十二分。
午後十一時十二分?
短針が。
「今日はここまででいいわ。十分よ。食事はすぐに。寝室はその後ろのドアからさっきの部屋に戻れるわ。お風呂場も部屋から繋がっていて、着替えも用意しておくから、もし汗が気になるようだったら入っておくことね。それじゃあまた明日」
疲れた脳にマシンガンのように言葉を叩き込まれて、俺はげんなりする。しかしあまり危険そうな単語を耳にした覚えはないから、おそらく当面の危機は乗り越えたのだろう。
そんな俺の安堵を見透かすように、サキュバスは「もし仕事がこなせなくなったら、そのときは、わかるわね?」と言い残して、また彼女自身も空間に消えた。滑らかなようで、けれど底冷えのするような声の冷たさに、俺はぶるりと震えた。
成果を上げられないものに用はないのだろう。
きっと奴は容赦しない。
あの糞課長がプリンターに容赦しないのと、きっと同じだろう。
「……っ!?」
音も無く、唐突にトレイがフェードインしてきた。飲食店で扱うようなプラスチックのトレイだった。さきほどから様々なものが空気に消えていったけれど、まるでその逆再生を見ているかのように、机の上にそれは現れた。
トレイの中。大きな皿の上には空気をたっぷり含んでいそうなキツネ色の衣。山盛りのキャベツに。茶碗にはツヤツヤの白飯、少量の漬物と、おまけにお吸い物までついている。まるでとんかつ屋で注文した品が運ばれてきたかのように、それぞれが出来立てであることを精一杯主張するがごとく白い湯気を上げていた。
ここん。遅れてソースの容器が着地し、割り箸とおしぼりがそれに続いた。
ぶふ。
あまりの馬鹿げた現象に思わず吹き出す。コメディのファンタジーでもあるまい。
はあ。と、俺は壁紙と同じ色の天井を見上げる。
空腹を感じられる程度には、俺の精神状態は回復傾向にあるらしい。
なにとなく、ソースの容器を手にとって、切り分けられたとんかつに掛けていく。芸術と呼べるほどの綺麗な衣に黒々しいタレが掛かっていく様子は、我ながら食欲をそそられる。
おてふき。わりばし。ぱきり。
俺は、これを食うのか。と、また一つ自嘲して。
そしてカツをむんずと挟んだ。
歯に衣がさくっと音を立て、柔らかい肉厚は噛み切ろうとする必要もない。
米をかっ込み、幸せをぐちゃぐちゃに混ぜて、噛み潰して、飲み込む。味噌汁を一口。
…………ふは、はは。
うんま。
ばかか。本当に。
* * *
朝日を意識したのはいつ以来だろう。
頭の痛くない寝起きも、いつ以来だろう。
落ち着いた色のカーテンは風に揺れて、日の光が部屋に揺らめいていた。不思議と自分の部屋と勘違いすることもなかったし、仕事だ、と寝ぼけることもなかった。またこの部屋に起きるべくして起きたような、そんな感じだった。
上半身を起こす。頭上をふわふわとカーテンがたゆたう。春の昼間のような暖かい風。窓から外を眺める。相変わらずの真っ白な世界。どうやら日光ではないらしい。
なにもないことに、しばし放心する。何もないのだ。本当に、何も。
急いで顔を洗う必要も、歯磨きも髭剃りも。着替えながら必要なものを思い出し、ネクタイを締めて、財布と携帯端末を探す。そんないつものルーティーンが、何もない。
必要がない。
朝だ。
朝だなあ。
激務の後、こんな世界に飛ばされ、その上で一時間も作業をした身体は思いのほかスッキリしていて、ベッドから降りようと思うまでに時間もかからなかった。思ってから実行も早かった。
風呂場の隣にあった洗面所で顔を洗う。用意されていたスウェットの袖が少し濡れた。
歯ブラシもシェーバーも家のものと同じものが置いてあった。おかげで迷わずに使用することができた。もう一度顔を洗って部屋に戻る。
いつのまにか脇のテーブルの上で朝食らしきものが湯気を立てている。見慣れたメーカーの納豆パックまで置いてあるのを見て、先に歯磨きをしてしまったことを少し悔やんだ。
白飯、焼き鮭、きゅうりの漬物と、溶き卵の入ったお吸い物。ひじきと万能ネギもある。旅館の朝食、というにはバリエーションがやや少なめだろうか。普段から朝食を抜いている俺からすれば豪華なんてレベルではないけれど。
へちょん。
ほちゅ。
もうコツは十分に掴んだ。
朝食と支度を終えた俺は自然とまたこの部屋に来ていた。スウェットに裸足のままで仕事場(仮)に入ると、ご丁寧にスリッパが用意されていた。床には何の汚れもないのだから、別に必要もないだろうけれど。
ちゅにん。
リューターとターボラップでひたすら製品を磨いていたあの頃が懐かしい。
メガネレンチも知らない俺に、全てを叩き込んでくれた現場のおっさん達は誰も彼も優しかった。大して使い物にはならなかっただろうけれど、それでも単純作業は褒めてもらえることが多かった。むしろ若干引かれていたのかもしれない、なぜ飽きないのかと。
つぬ。
俺は現場にいるべきだったのかもしれない。
設計なんて、名前こそ技術的な部署に見えるけれど、やっていることはひっきりなしに掛かってくる電話の対応だ。連絡と、打ち合わせと、その暇にパソコンのCAD画面と睨めっこしながら、後ろめたい気持ちで現場を見回って、また相談と、連絡と、打ち合わせと、たまに会議をして。
何も考えずに、誰とも関わらず、ただ丁寧に仕上げる。
こういった作業の方が、俺にはきっと向いているのだろう。
「はい、お疲れ様」
「おつかれさまあ、おじさん」
半分は聞き覚えのある声だったが故に。もう半分は聞き覚えのない声だったが故に、俺は身を硬くした。座ったまま声のほうへと振り向く。そこにはやはり見覚えのあるサキュバスと、見覚えのないサキュバスが立っていた。
最初に出会った方のサキュバスがスタイルの良い長身であるせいだろう。その隣に立っている見覚えのないちびっ子は、その半分ほどの背丈に見えた。なぜ少女がこんなところにいるのだろう、と思ったけれど、その格好を見てなんとなく合点がいった。きっとこの子も"そちら側"の存在なのだろう。
「わあ! すごいっ! おじさんすごいねえ!」
「ねえ、言ったでしょう?」
少女の目線はギリギリ机を越える程度のもので、ボウルの中を良く見ようとするように、ぴょこぴょこと背伸びを繰り返していた。
「こんなにたくさん! すごーい! ねえねえおじさんおじさん、エブリはやめてわたしにしない? わたしがタントーしてあげるから、こっちでいっぱい作って! ね?」
「ちょっと、ルィウ?」
「いいでしょう? ねえねえ」
俺は上目遣いの少女を見下ろす。
何の話だろう。担当とはどういう意味だろうか。
「ほら、困っているでしょう?」
「そんなことないよう! わたしのほーが、こわいコトしないもん。かわいいし」
そういうと、少女はその場でくるっと回って、小さな女の子らしくポーズを決めて見せた。その無邪気な姿に美佳の小さな頃をなんとなく思い出した。にひーと笑う少女。俺は長身の方のサキュバスへ疑問の視線を向ける。長身のサキュバスは小さくため息を吐いた。
「担当というのは、私とあなたのような関係を言うのよ。何人の男の人を担当しても構わないのだけれど、仕事をこなせるという前提ならあなた側にも担当を変える権利があるの。そういう決まりになっているのよ。あなたが私ではなくルィウを担当に選ぶというなら、それはそれで構わないわ。どうしたい?」
突然の選択を突きつけられて、俺は二の句が継げないでいた。
担当。このサキュバスは俺の担当だったということなのか。ペットの餌やり担当みたいなものだろうか。だとすればあの部屋や料理を用意したのも彼女ということになる。
「ね? おじさんも痛いこととかないほうがいいよね? ね?」
コスプレ少女、もとい小さなサキュバスが俺の手を取る。女が男に言い寄るというよりも、娘が父親に何かをねだる仕草に近いなと感じた。
何をもって俺の担当になんてなりたがるのだろう。
それだけ俺の仕事ぶりは役に立つということなのだろうか。
「どうするのかしら?」
「いいでしょー? ねー?」
確かに威圧感はない。なにせ少女だ。小学生に例えるならまだ入りたてといったくらいか。
痛みや恐怖と直結するような雰囲気は何もない。そこにはあるのは甘えるように俺を見上げている、あどけない顔立ちだけだ。昨日のアレのような、凄惨なことをするような子にも見えないし、そんな力があるようにも思えない。
俺は息を吸った。
○ ○ ○
「十八番。要否を」
「ぜんぜん精液出なくなっちゃったんでー、もういいでーす。必要ないでーす」
「了解した。現世への手続きをしておく。十九番、要否を」
「まだまだ愉しませていただかなくてはなりませんので、要ということで」
「了解した。二十番」
転移させられた空間はまるで円形の会議場のような場所だった。あるいは昔の外国映画で見たことがあるような、アウトローな趣味の闘技場のような場所にも見えた。
姿は見えないが、鉄格子のようなものの中心にいるのがサキュバスのリーダーだろうか。それを取り囲むようにあらゆるサキュバスが集まってきているらしい。薄い靄に包まれたこの場所では自分たち以外の様子は確認できないけれど、職場の毎朝の朝礼に少し似ているなと感じた。
会話の内容からして、定例報告会、といった感じだろうか。
「五十三番、要否を」
「はい」
隣のサキュバスが返事をしたことに、俺は思わずびくりとした。
結局のところ、俺は小さなサキュバスの申し出を断った。いま隣にいる長身のサキュバスには命こそ脅されはしたものの、理不尽な判断を下すような性格にも思えなかったからだ。いまの俺の仕事量に彼女は満足している様子だし、俺もあの類の仕事であればいくらでもこなせるだろうと思う。であれば、あまり変化を求めないほうが安全だろう。
「彼は素晴らしい働きをしてくれています。今しばらくは継続という形でお願いします」
「了解した。五十四番、要否を」
彼女は俺の必要性をさらりと口にする。
やはり帰れはしないか。という落胆と共に、いままでの仕事ではもらえるはずもなかった評価に、なぜかむず痒さを感じた。最後に仕事場で褒められたのはいつのことだろう。最後に家族に感謝されたのはいつのことだろう。
気を逸らすように腕時計を見る。十一時十二分。やっぱり動いていない。この空間では現実との時間の流れ方が違うのかもしれない。
「報告は済んだわ。いきましょう」
俺の返事を待たずに、さあ、と景色は移り変わり、俺は元の作業部屋へと戻ってくる。
テーブルの上には何もない。いままでの仕事に照らし合わせるならばまだ午前中が終わった程度のものだろうけれど、彼女達の口ぶりからして今日の作業は終わりらしい。
「食事が済んだら寝室に来ること。いいわね?」
サキュバスは珍しくドアを利用して寝室へと入っていった。
俺はテーブルの上に出現した昼食らしきものを見て、素直に席に座った。かなり大き目の皿だ。鶏肉が和えられたケチャップライスの上には、色むらがまったくない黄色い塊が乗っている。テレビで見たことがあるアレなソレだ。
もしやと思い、手元のナイフで真っ直ぐ横向きに切り込みを入れる。ぷるりとしたオムは弾力をそのままに、覆うようにはらりと広がり、中から半熟の黄身がとろっと流れ出した。
用意されたデミグラスソースらしきものをかけて、スプーンを握る。
寝室に戻ると、見知らぬ女性がそこにいた。
否。それはさきほどと同じサキュバスだった。
いつのまにか出現しているダークブラウンのソファ。そこに腰掛ける彼女は俺を見るなり、隣に座りなさいと言わんばかりにぽんぽんと手のひらを弾ませた。
真っ白というにはややベージュがかったニットのワンピース。その短すぎる裾から組みかえられた太ももの境界線に、奪われそうになった目の操作権を取り戻す。適当に床を見ながら座ると、ソファの柔らかさに腰が深く沈んだ。
チラリと盗み見る彼女には角も翼も尻尾もない。ハーフアップにまとめられた暗めのブロンドの髪と露出されたうなじに、出所のわからない緊張が走った。装いを変えるだけでここまで身近な印象になるとは思わなかったけれど、それでも人間離れした存在感だけは相変わらずだ。
彼女は不意に立ち上がる。もはや精巧なボディペイントなのではないかと思うほどぴっちりとしたニットは酷く目に毒で、女性らしいにもほどがあるボディラインから目を逸らすと、鼻先を甘い香りが掠めた。圧し掛かる重さに思わず脚を開く。彼女のお尻が俺の太ももを撫でて、すっぽりとそこに収まってしまう。無遠慮に押し付けられた髪があまりに近くて、漂う甘い香りの正体を知った。
「もうひとつのお仕事。私を気持ちよーくすること」
俺の手の甲を、彼女の手が撫でる。鳥肌が立った。
セクハラを恐れた俺の対女性のパーソナルスペースは、その潔癖ゆえに想像以上にデリケートになっていたらしく、おかまいなしにぬるりと入ってきた異物に思わず忌避感が込み上げる。
オフショルダーの滑らかな肌。密着する背中の温度と、柔らかい肢体。
長年、清潔さを保ってきたキャンバスに、突然真っ赤な口紅を塗りたくられたような気分で、俺は途方も無く、立ち止まってしまう。
「……仕事がこなせないのであれば、わかっているでしょう? 3、2、1……」
俺は呻き声と同時に、目の前の柔肌に抱きついた。
突然だったせいか彼女は小さく悲鳴を上げて、そしてくすぐったそうに笑った。俺は寒くなる背筋をなんとか誤魔化すために、腕の中の女性を引き寄せる。
髪に顔の半分が埋まる。濃くなる匂いに視界がうっと暗く沈む。
仕事をしなければ。こなさなければ。
アレは。アレだけは。
俺は息を整え、軽く彼女の背中を押しのけて、その首元に親指を立てた。滑らか過ぎる素肌に少し指が嫌がる。けれど、恐怖から逃げるように、俺は指圧を始める。
彼女はまた、口元に手を当てて笑った。
「ふふ。サキュバスが、気持ち良くして欲しいと言っているのよ? わからないフリもあんまりクドいと、私もいろいろと悩んじゃうわねえ」
思わず手を離した俺に、彼女は続ける。
「大丈夫よ。サキュバスの身体は、オトコの人に触られたらどこでも気持ちよくなれるの。これ以上は甘やかさないから、お願いね」
彼女はそういって、また俺に体重を預ける。
もちろん、わかっていた。わかっていたんだ。それがたとえ神話であろうと、何を意味するのかは当然理解しているつもりだった。サキュバスと、オトコだ。誰だってわかる。
わかるけれど、それは、でも。はあ。
あらゆる反論を飲み込んで、俺は彼女の腰に手を回す。すべすべしたニットの感触。彼女が小さく身じろぎをして、その肉付きの良さに、目の前にいるのが自分の妻でないことを強く認識する。手が滑る。登る。精一杯の言い訳を担いで、そのお腹を登っていく。
親指の付け根が、ソレに触れる。
浮気、不倫、オトナの秘め事。ルージュに赤く汚されたキャンバスに、さらに不純な色がぐちゃり、ぶちゃりと付着する。油のようなどろりとした色は簡単に落ちそうにはない。
目を閉じ、息を吐きながら、そこを手のひらで包む。
指が動く。間髪も入れず。揉んでしまう。そのニットの中で最も張りの強い、主張し続けるソコを、俺は揉みしだいていく。小さな声が近くで聴こえて、室温が上がった気がした。
妻ではない。これは、佳帆ではない。
ベツのオンナの、乳房。
ああ。
漏れるような艶やかな声が酷く耳ざわりで、聴きたくなくて、俺は耳を澄ます。
指が動く。手のひらが圧す。薄い布地の中の、はちきれんばかりのソレを、俺の手が堪能していく。感謝、を覚えた自分を、全力で問いただす。何に、誰に。なぜ、どうして。
こんな状況で、俺は一体何を、何に、在り難さを感じているのか。
こんな、状況だからこそ。
そう。状況。
俺は下手すれば、状況に、感謝を。
ああ。
んふ。んんう。
やん。あは。
うふふ。……ふ、あっ。
あっ、あ。あふ。
熱い。声に熱い。
指先が熱い。彼女の肌が熱い。
全身が熱い。暑い。あつい。
ああ、俺の、ソコが。
なにより。
「ねえ……、こっちも……」
導かれた右手は、太ももと、ワンピースの縁へ。
ひ。と喉が鳴いた。決め細やかな生脚の肌触り。
は。ひ。息を吐く。
仕事、に俺は突き動かされる、振りを、して。
その短い裾の中に、手を滑り込ませる。
「あ、やあん」
彼女が大きく腰を引いて、そのお尻が布越しのソコをぞるりとなぞった。
彼女以上に声を上げてしまったのは、きっと俺。右手を、その奥地まで辿り着かせてしまったのも、俺。
左手にぷくりと感触。思わずニットの上からそれをつまむ。また彼女が声を上げて、背中が擦れる。ニットのスカートの奥、絹のような布地。その上から、右手がその秘部をなぞる。熱い。
指でなぞる。指でつまむ。
彼女が。オンナが。サキュバスが。
恋人でも妻でもない誰かが、俺に手に悦んでいく。俺の手が悦んでいく。悦びを絡み合わせて、加熱して、さらに赤くなっていく。ぐしゃぐしゃになっていく。穢れていく、ことに、全身の細胞が歓喜している。
もっと穢れて、もっと背いて。正しさなんか、清らかさなんか。
この、乳房と、秘部の熱さの前では。
ああ、ああ。
「んふ」
彼女が身体を反転させる。
垂れた目尻が、長いまつげが。
熱い口の中。ぐちゃり、むちゃり。
ここまでの全ての行いを、焼き付けるかのように。
俺に記憶させるかのように。保存させるかのように。
舌が絡む。唇が溶け合う。
首に絡みついた腕が俺を放さない。もっと絞まる。もっと深く。熱く。熱く、あつく。
ココロが浮ついていく。ふわっと浮かんで、彼女へ飛んでいきそうになる。
にゅるり。飛んでいった心が、そのにゅるにゅるの舌に絡め取られる。もって行かれる。言い訳も許されずに、俺が無様に差し出した心を見逃してくれるはずもなく、確保される。もらわれる。愛されて。溶かされていく。
口と、口。
それは愛の営み――――。
「今日はここまででいいわ。もう眠たいでしょうけれど、もし娯楽が必要であれば何でも言いなさい。眠って起きたら、朝になるから。それじゃ、また明日」
意識の淵に、そんな言葉を聞いた。
見えるのは天井。柔らかいソファの上。汗のかいた背中。
視線を動かす力も残っていない俺は、爛れたまどろみの中に、静かに意識を手放した。
* * *
へちょん。
今日も今日とて雫を集める。
こんな俺向きの作業をしているだけで褒められるのだから、楽な仕事だ。なぜこんな簡単なことが他の人にはできないのだろう、と感じるのは才能があるからだとどこかで聞いたことがある気がする。であれば、恐らく俺は、この雫を集める才能があるのだろう。逆に言えば、俺にはあの部署で働く才能がなかったのかもしれない。
なぜ俺はあれほどに残業をしていたのだろうか。
別に、したくてしていたわけじゃない。皆が残っていて帰るに帰られないから、ただ残っていただけだ。その方が波風は立たないし、いい顔をされる。そんなことをしているうちに係長が倒れた。
企業なんて、会社なんてそんなものなのだろう。
運がいいか、悪いかだけだ。体調が悪いから帰るといえば白い目で見られるし、病院で鬱病だと診断されれば、なぜそんなになるまで何も言わなかったのだと言われる。弱音を吐けば怒られるし、倒れたらなぜ弱音を吐かなかったのかと怒られる。それでも泳がなければならない。飛び込み台から二十五メートルを潜水で泳ぎきり、息も絶え絶えに辿り着いたその場所もまた、飛び込み台なのだ。
そんなことをしていたらいずれ溺れてしまうことなんて目に見えているのに、それでも見ない振りをして潜水を続ける。運が良ければ泳ぎきれるし、運が悪ければ溺れる。ただそれだけの話だ。
あの糞営業どもも、糞課長も、バカみたいに仕事を振ってきて。
ああ、イライラする。
ほちゅん。
なぜ係長が倒れなければならなかったのか。
入りたてのあの新人も賢い子だったのだろう。すぐに辞めてしまったけれど、俺はそれを批難する気にはまったくならない。今の子はドライだ。それが正しいとすら思える。糞課長を含めた馬鹿共も、あと五十年もすれば全員この世から居なくなる。その先を作り上げるのは今の若い子達だ。接待なんていう馬鹿げた行事も一部を残したら、ほとんどが廃れていくだろう。
なぜ俺は、あれほどに残業をさせられていたのだろう。
考えれば考えるほど胃が落ち着かなくなる。
一度大きく息を吐いて、指先で机を叩く。
設計があんな状態になっていた時点で、現場の作業がどれほど大変なことになっているのかは想像に難くない。行程の遅れの全ては現場にツケが回る。結局のところ納期までに製品を仕上げなければならないのは現場だからだ。いくらエース級の作業者とベテランが揃っているとはいっても限界はある。現場に甘えすぎだ。
「はい、お疲れ様。……今日もまた、すごい量ねえ」
姿を現したサキュバスは呆れるように言った。
どれだけ別のことを考えていても、品質は落とさないことには自信がある。おそらく作業に割り振る脳内ストレージだけを分離しているのだろう。自らの単純作業を解析するのであれば多分そんなところだ。
腕時計は十一時十二分。やはりちっとも動かない。
現実ではどれくらいの時間が経っているのだろう。昔見たアニメのように、こちらと時間の流れが違うのだとしたら今頃一ヶ月くらい経っていたりするのかもしれない。とんだ浦島太郎だ。はは。
「お昼をとったら、寝室にね」
寝室。という言葉に、俺は身を硬くした。
「力を抜いてね」
うも。と声が漏れた。
ニットが頬を包む。否、ニットの向こう側のソコが俺の顔を覆った。
「上手にお射精、できるかしらねー」
自分の鼻息に蒸される。
ベッドの上。まるで子供をあやすような体勢で、彼女は俺の顔にその乳房を乗せる。思わず動かしたくなる腕を、脚を、俺はなんとか抑える。抵抗しようとしたらその時は、と脅されているのだから仕方がない。脅されているのだから、仕方がない。
仕方がない。けれど。これは。
「あらあら。もうおっきくできたのねえ。えらいわねえ」
ん。んふ。
スウェット越しに、彼女の手が俺の股間を撫でる。弱くも無く、けれど強すぎない、酷くいやらしい手付き。
いい子、いい子。その声色に侮蔑の色を感じるのはきっと気のせいじゃない。けれど頭を撫でるその手付きはやけに優しくて、俺は力を抜いてしまいそうになる。
ぐりん。一際大きく股間を撫で上げられて、俺は彼女の胸の中に吐息を漏らす。同時に頭を大きく撫でられて、傍と知る。別に、いやらしい触り方なんてされてはいない。きっと、嘲りの感情もない。俺を撫でる手付きと、オレを撫でる手付きはまったく同じだ。けれど、ただそれを、俺が、オレが、いやらしいと感じてしまっただけの。
ただ、それだけの。
――――いい子。いい子ね。
まるで勃起していることを褒められているかのような感覚に、頭に血が上る。隣に寄り添うサキュバスが、にゅっと身体を押し付けてくる。顔に広がる乳房が、苦しくて、苦しくて、どうしようもなく息苦しくて。
俺は眉から力を抜いた。
「うふふ」
素肌の感触に身震いする。しっとりとした感触が太ももを襲う。彼女の手がスウェットの中に入ってきたことを知る。その指先はオレ自身、ではなく、睾丸へと伸びてくる。俺の遺伝子の保存場所がやんわりと揉み込まれる。
あ、は。声が空気に漏れてしまうのは、乳房が無くなったから。
開ける視界に、ぼうと上を眺める。寄り添う彼女が淡い光に包まれて、そして収まる。
しゅるり。擦れる身体とカラダに、俺は眉をひそめた。
一糸纏わぬオンナとオトコ。恋人ではない、妻ではない、身に覚えのないその吸い付くような肌。股間で馬鹿みたいに主張するもう一人のオレと、そこに忍び寄るオンナと、また、ぱつぱつのニットから解放された、眼前に揺れる二房のオンナ。
合わさる。
鼻の下から、目元のくぼみまで、みっちりとオンナに埋まる。
オレのソコにヘビのように絡みついたオンナが、その身を上下させる。
体験したことのない、ひたすらに、女性。オンナ。つがいとなるべき存在。出会いに打ち震える肌と、感極まるような息の詰まり。乳房が流れる。水のように。谷間に入った鼻が熱され過ぎた空気を吸い込む。
「お仕事、上手にできそうかしら?」
オンナに扱かれ、暴れそうになる腰を、俺は投げ出す。
動かないことが仕事。勃起ができたことが評価。このまま、このまま、身を委ねることが仕事。仕事だから。仕方が、ない。
優しさと柔らかさ。そして淫らさ。全てを内包したオンナのナカで、俺は下半身の代わりに鳴き声を上げる。何かを希求するように、産声のように。熱さに蒸れた谷間の中で、何もしない、をしていく。履行する。
従わなければ、痛いのだから、仕方がない。
痛いのは、嫌だから。
だから。
「浮気相手のおてては、そんなに気持ちがいい?」
黒い感情をぞふっと飲み込まされる。媚薬のような背徳感が下半身を敏感にしていく。
違う、ちがう。
これは、生きるためだから。
顔が涼しくなって、またそれは降りてくる。
唇をノックする小さな突起。薄い肌がさざめく。なぞられていく。上唇、下唇。そしてその隙間に、桃色の突起。ああ。
「やあん」
唇が音を立てた。
その音に悟る。全身を回る。安心感と、どうにもならない情けなさと。
敗北。絶望的な敗北。勝てない相手。守ってくれる相手。俺と言うイキモノの保護者。あなたの庇護下に入りますと、宣言するような行為。くすぐったい笑い声に、勝手に意味を見出した下半身が、ぞっとするほどに猛りだす。
「そう。上手ねえ。いい子、いい子」
およそ成人男性に求められない行為が、推奨されていく。
扱く手が早まる。どうしようもなく口を窄める。吸う。吸いきる。何も出なくても構わない。吸って、舐めて、鳴いて。庇護を請う。生まれたての赤子のように、ただ受止めてくれる海原のような存在に、俺を投げ出す。オレを扱いてもらう。
任せる。委任する。無責任に。俺を放る。
唇の中の感触が俺を守ってくれるに決まっているのだから。
「でも、本当はイヤよね? 愛してもいないオンナに、こーんなことされて、嬉しいはずがないわよね? だから、もう動いていいのよ?」
言葉と同時に、彼女の体重が振ってくる。顔に平たくなるほどの乳房。
全身が痙攣する。顔を覆う愛に満たされて、溢れて、打ち震える。
イヤだ。そんなこと言わないで。
「どれだけ抵抗してもいいのよ? ほら、ほら」
乳房に埋まる意識の中。下半身の愛撫がさらに速さを増す。
ああ、ああイく。イくのに。
「どうして動けないのかしら? 腕はどうしたの? 足は? うふふふ」
違う。違う。違う。
ああ。違う、仕事だから。痛いのがイヤだから。
だから俺は動かない。理由が俺を動けなくしている。だけ。の。はずで。
ああ、あ、あっ。ああ。
「このままオシゴトが上手にできるなら、私は褒めてあげるけれど。ねえ? いいのかしら。いいのかしらね。うふふふふ」
乳房の中で首を振る。イヤだ。
動かし、たく、ない、のは。動きたくない、のは。
違う。
違うんだ。
「いいのよねえ? 動きたくないのよね? 続けて欲しいのよね? ね?」
続けて、欲しい。
暴れたくなんか、ない。
褒めて欲しい。このまま、このまま。
俺は。
黒い背徳が下半身で暴れまわる。乳房の中で歯を食いしばる。
腕が動き、たくない。足が動き、たくない。
動きたくない。動きたくない。
シてほしい。この、コレを。これを。このまま。
このまま、このままっ、あっ、ああ。
イく。イきたい。いき、あい。あい。あう。あああ。
「はあい、お上手」
――――――――――ッ!
黒を吐き出す。白が出て行く。
妻への贖罪が、背徳への快感が。溢れるほどに与えられてしまった愛が。
混ざって、溶けて、流れ出す。
「うふふふふふ。イケナイひとね」
言葉にぞわっと滲む。黒に滲む。
乳房の中で、涙腺を痛めながら、俺は歓喜の罪を吐き出していく。
あっ、ああ、ああ。
びゅくり。びくり。
びる。
敗北の証。庇護下の証。
まるでそれは、俺が護られる契約の証。
まだ動かない。動けない。動くつもりもない。ただ扱かれる下半身を、ただ暴れさせ、ただ吐き出していく。俺はソコにしかいない。俺はソレ。俺が俺を放っていく。
醜悪というにもおぞましい、黒というにも似つかない、誰もが忌避する俺の塊を、彼女がもらっていく。もらわれていく。
ああ、ああ。
「上手。上手よ」
褒められる。
仕事を評価されていく。
何もしないことを、知らないオンナに精を撒き散らすだけの俺を。
彼女に認められていく。
「……うふふふ。可愛い子」
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