絶食系勇者と無愛想な淫魔
それだけはダメだ。
何があっても、近づいてはいけない。触れてはいけない。
絶対にだめだ。だめなんだ。何があっても許されない。
だって、もし、その体に触れてしまったら。きっと。
きっと。
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「それで、こんなところに入れられているワケか」
『そうなるわね!』
やれやれ。部屋に響く嬉しそうな女の声に、俺は盛大に溜め息をつく。
こうして淫魔とやり取りするのも何度目だろうか。ことあるごとに俺の下半身にタックルを仕掛けてくるような連中ではあるが、いい加減に諦めていただきたい。
ことごとく蹴散らしても、ことごとくすがり付いてくるのは俺が勇者だからか、LVが高いからか、それとも惚れられたか。魔物にモテても家庭は築けない。
「ふー……」
どうして奴らはここまで俺に固執してくるのだろうか。
フロア一杯にサキュバスの群れが待ち構えていたこともある。人に近い魔物はどうも剣を振るうには苦手な部分もあり、しかも相手はおっぱいと尻と太ももの塊りだ。レベルを吸われかねない大ピンチだった。なので丁重に淫魔の方々には昏倒してもらい、然るべき順路でダンジョンを後にした。
睡眠の罠にかけられたこともある。レベルドレインの危機を感じたので、眠りに堕ちる寸前に、自らに無敵の石化呪文を唱えておいた。呪文が解け、起きてみると近くで数匹のサキュバスがすすり泣いていた。ちょっと申し訳ないことをしたかもしれない。
なにせ個の力は大したことがないのだ。そもそもが戦闘向きじゃない。床向きだ。何千匹という淫魔が押し寄せてきても戦力的にはなんら問題はない。
しかしながら、サキュバス共がこしらえる罠はなかなかに精密なものが多い。まともな戦闘で勝てないのだから、自ずと搦め手に特化してくるのは仕方がないのかもしれない。だいたい色仕掛けで食ってる奴らに戦闘どうこうを言うのもおかしな話だろう。
「……」
さて、この広い部屋の中には長い銀髪の小さな女の子がぽつんとひとり。
さきほどの声の主ではないが、この子も淫魔だろう。部屋の隅にいる俺とは、部屋の中心から見れば点対称の位置で膝を抱えている。つまり直線距離でいえば可能な限り離れた位置に腰掛けていて、その物理的な遠さは、警戒心120%で睨みつけられていることと無関係ではないだろう。
なんて愛想のない子供だ。いやサキュバスか。
はてさて、何が起きたかといえば先ほど転移の罠を踏んでしまい、ここに飛ばされ、挙句にはそこの銀髪少女とメイクラブしなさいとのお達しが出た。部屋内に響く声はこの部屋を用意した主だろう。すぐには脱出できないように、封印には工夫が施されている。声の主は普通のサキュバスではないかもしれない。エルダーか。
『あなたはその子にレベルを吸われてしまえばいいのよ』
声の主は余裕たっぷりにそう言った。俺は鼻をほじった。
もしこの密室にサキュバスの大群がいらっしゃればそれはそれで面倒だった。封印式の解読が終るまで全員に気絶してもらう必要があるからだ。なかなかに骨だ。
転移の瞬間にそれくらいは覚悟していたのに、いるのはちっこいサキュバス一匹、それもなぜかこっちが嫌われている様子だ。これでどうやったらアダルトでスウィートな空気になるのか是非教えていただきたい。
「おーい」
「……話しかけないでください」
この調子だ。
銀髪の女の子は相も変わらず膝を抱えたままキっとした表情を俺に向けている。なぜだ。いつか君のご両親を俺が手にかけたのか。サキュバスを殺した覚えはないぞ。
豊満な体を武器に軟体動物みたいにすり寄られるのも面倒だが、こうまでサキュバスに敵意を向けられるのもそれはそれで釈然としない。男としてちょっとだけ傷つきもする。そもそも、その態度はサキュバスとしてどうなんだ。あれか、Mか。俺が変態星から来たマゾヒストマンだとでも思っているのか。それにしたってやり方がおかしいのではないか。
「おう、悪かった」
「……」
なんだろう。ここまで拒絶されるとむしろこっちから行ってみたくもなってくる。いかがわしいことでは敵なしのサキュバスが人間の男に性的に襲われている絵はかなりシュールではある。まさかそれが狙いか。いやいや。
とりあえず封印式の解析を進めよう。ぱっと見でも構造が入り組んでいるのがわかる。かなり本気で練られている。長くて一日か、あるいはもう少しかかるかもしれない。
俺から見てもなかなかに見事な封印を用意しておいて、それで役者がこんなちびっ子ではどうも締まらない。可愛いは可愛い。やや丸っこくて、アヒル口がまだ抜け切っていない風ではあるが、それでも少女として可愛いと断ずるには十分の容姿だろう。しかしちびっ子だ。ここまで用意して、刺客は小さな女の子。まるでうどんを作るために小麦粉から練り、打ち粉、三つ折り、丁寧に丁寧に切り、最後にそこらへんの魔法食品店で安く買えそうな出来合いのスープにぶち込むような雑さを感じる。
幸運と見るべきか。
何にせよ近づくべきではないだろう。そこらで摘んだタンポポの綿毛なんかをドヤ顔で自慢してきそうな年齢に見えても、そこは淫魔だ。紛れることがあってはいけない。この子にはそのまま置物になっていてもらおう。
「なに、見てるんですか」
「白のぱんつ」
幼い声に返答すると、女の子もとい小さなサキュバスは顔を真っ赤にして抱えていた膝をぺたりと床につけ、短い裾を両手で押さえた。ワンピースを着ているのだから座り方には気をつけるべきであろうが、幼くても性の意識があるのはやはりサキュバスだからか。いや、もう一度言わせてもらうがサキュバスとしてその反応はやはりどうなんだ。
「うう……」
俯いてしまった。
なんとも琴線に触れる反応をしてくれるものだ。実に可愛らしい。しかしてその実態は本音か計算か。何にせよあまり小さい子をいじめるものではないだろう。
女性に対してはとりあえず下手に出ておく。踏み込まない。機嫌を損ねたら早めに謝罪する。俺はこの3つをしっかりと守っている。というより攻められない。対女性に関しては、腰の引け具合で言えば鋼鉄のスライムさんとだって競える。
「せっかくいい眺めだったのに」
「……っ!」
おっと。
俺の軽口に、女の子は小さな体をさらに小さくする。肩がこわばっている。
いつになく強気な言葉がさくっと出てしまうのは、相手が女性である以前に魔物であることと、何においても負けるはずがないという、油断とも言える程の余裕。そしてそれ以上に、こんな罠にかかったことで少しイラついている自分がいるからであろう。そう自己分析してみる。
実に大人気ない。
「これがこうで、ああで……」
「……」
じっとりとした視線を感じながらも、封印式の解析は進んでいた。
「ああ、ほー、なるほど」
こちらも魔法式を組み始める。手元にある道具だけでなんとかなりそうだ。これとこれと、あとは、えーっと。
……うん?
袋を漁るが、目当てのものが見つからない。どこいった? まんげつ草の粉末がない。そんなはずはない。確かにこの前、港町のじっちゃんに補充してもらって、それから……、それから。
頭をかきながら、袋の中を隅から隅まで確認する。
これはあれだ、いつものやつだ。俺に言わせれば超常現象の類であり、神の見えざる手が働いた結果だ。例を挙げれば「ついさっきまでメモを取っていたはずの羽ペン」などもよく無くなる。そんなとき半径1メートルを隈なく探しても見つからないのは、神の所業といわざるを得ない。
詰まるところ、どこに入れたかを忘れた。
「なあなあ」
「……なんですか」
ぶすっとした声が返って来る。
「まんげつ草の粉、知らないか?」
手を動かしながら、適当に声をかけてみる。気分はひとりごとに近い。
「それならマントの内ポケットじゃないですか」
「だよなあ」
本当にどこいったんだろうか。こんなことで盗賊職のスキルを使うのもアホらしい。どこかに入れたはずなんだが。マントの内ポケットか。マントの。
「……え?」
「あっ」
口を手で押さえた小さなサキュバスが、不自然に目を逸らした。俺はそれを観察したまま、マントの内ポケットを探る。
……ある。袋の感触。
ああ、そうだ。じっちゃんから受け取るときに変な小芝居をしたせいだ。フードを深くかぶって「例のブツは……」、「……確かに」などと裏取引でもしているかのように、そのままマントの中へと仕舞いこんだんだ。“例のモノ”といえばマントの中だろう。これは譲れない。いや、ただのまんげつ草の粉末だが。
なんとも悔しいことだが、見つけた後にああそういえばと思い出す、なんてのはよくあることだ。超常現象というものは得てして勇者の記憶ですら混乱させるものだからだ。
「よし」
馬鹿なことは置いといて、魔法式が完成する。呪文をひとつ、ふたつ。
小さな青い魔方陣が浮かび上がり、高速で回転し始める。ここからは封印式のキーとなる暗号をこの魔方陣が探してくれる。暗号の総当りに近いのだが、方向性は示しているため酷く時間がかかるということはない。これでよし。
さて。
「よいしょ」
膝に手を付き、立ち上がる。視界の端で小さい体がビクリと震えた。
つか、つか。歩く。
「こ、こっち来ないでください!」
女の子は自分の身を守るように抱きしめ、その体を部屋の角に目一杯すり寄せている。口をぱくぱくさせているあたり、慌てっぷりが並ではない。
あと数歩というところで足を止めて、屈む。
「ああ、あ、あの!」
まだ睨みつけようと試みてはいるようだが、今はいかんせん目力がたりない。あと、膝を立てたらぱんつが見えてしまうことはもう忘れているらしい。まあそれはいい。
「なんで、知ってるの?」
「何も知らないです! 何の話ですか!?」
必死に声を張るが、まだ成熟しない丸い声にはどうにも棘というか攻撃力がない。敬語なのも謎だ。
「俺の持ち物の場所を、なんで知ってるのかな」
「し、知らないです」
「いや、知らないってことはないだろう。だってさっき」
「知らないっ、です! 向こう、行ってください!」
ううむ。
「……いや、あのね」
「知らない、です」
うううむ。
少女は両手をぎゅうと握って、胸元に寄せている。左ジャブからのワンツーを狙っているのだろうか。その態勢じゃまともなパンチはうてまい。
俺はオーガのごとく両腕を振り上げた。
「うおあああああああああ!!」
「ひゃああああああっ!!」
威嚇。勇者の雄たけび。特に理由はない。
「……っ、……!」
女の子が身を縮めたまま、両目をつぶっている。可愛いのでしばらく鑑賞しようと思う。
銀髪が揺れる。まつげが長い。ほっぺはほんのり染まっている。
うむ、と一人でうなずく。小さくても、流石はサキュバスといったところか。このまま眺めているのも悪くない。
そういえば、成熟していない固体を見るのは初めてかもしれない。
「……」
女の子が片目を薄っすらと開ける。恐る恐る状況を認識してから、もう片方も開く。瞳が水っぽく光る。思わず、悪かったと呟きそうになる。自分で驚かせておいてなんだが。
じい。見られる。
じと目になっている訳でもなく、怒っている風もない。涙目のまま、ただ見られている。とても見られている。なんだなんだ。ちょっとドキドキする。
ふう。
小さな口から吐息が漏れた。眠そうに目蓋が落ちる。
「ほんとに、最低、ですね」
口から出てきたその言葉には、まるで温度を感じなかった。
「え、あ、いや」
急激に周りの気温が低下していくように感じる。これは、あれだ。至極真面目に批難されるやつだ。
「私みたいな子を脅かして、ほんとうに」
「いやあの、……すいません、でした」
謝らざるを得ない。そんな空気が漂う。
「そっち行ってください。はやく」
「はい」
少しヘコんだ。ヘコんだので素直に戻る。
背を壁に預ける。座る。はあ、ふう。
予想外だった。もっとこう、「なんなんですか!」だとか、顔を真っ赤にして怒るだろうと思っていた。そうしたら、もう少しからかって笑おうと思ってたのに。
……因果応報か。
もやもやするが、相手を怒らせておいてこっちが逆ギレ、なんてのは論外なのでしない。いたずらや、先に悪口を言った側が怒り出すなんてのは愚の骨頂だ。怒らせた俺が怒るなんて理屈はない。みっともない。みっともないが、ヘコんだのでしばらく黙ろうと思う。
そう、俺は逆ギレなんかしない。ちょっと傷ついてナイーブになったりなんかしていないし、怒ってもいない。ただ黙るだけ。俺が悪かったよ。ふん。
……ああ、粉のこと聞きそびれた。
『あら、その魔法式……、早いわねえ』
部屋に聞き覚えのある声が響く。この部屋の主様だろう。どこからか遠眼鏡系の魔法で監視しているに違いないが、しばらく席を外していたのだろうか。
「なかなか手が込んでる封印式だったよ。お前のか?」
俺は空中に話しかける。
『ええ、そうよ。それでにしてもこんなに早く対策を打ってくるだなんて』
「賢者やってた時期が長かったからな」
あらそうなの、と部屋の主はくすくす笑う。手塩にかけたであろう封印があと数日もせずに破られるというのに、この余裕はなんだろうか。
『それはそうと、進展はあったのかしら?』
進展? ああ。
「そりゃあもう」
なあ、と声をかけようとして、女の子の鋭い視線に黙殺される。そうだ、黙るんだった。いけない、いけない。
『そりゃあもう?』
「……まあ、例えるとすれば、まるで勇者とサキュバスみたいな関係にはなったんじゃないか?」
『進展がないのねえ』
分かりきっているだろうに、心から残念そうな声を出す。そんな小芝居をするくらいだ。声色からまったく焦りを感じられない。
あと一日かそこらで、ここから脱出できてしまう。それくらいなら飲まず食わずでもいけてしまうが、あいにくと水と食料まで持ち合わせている。女の子もまったく動く気配もない。これなら寝て待っていても脱出できてしまうだろう。
それでも、この部屋の主には余裕がある。ということは、この数時間の間に俺がこの女の子にレベルを献上してしまうと本気で思っているということだ。それとも、自分の封印がもっと長い間もつだろうと誤解しているのか。封印式の主ならこちらの魔法式の進行具合も感知できるはずだが。
ううむ。よくわからない。
『そうそう、魔法式といえば、その子にも魔法式のようなものが備わっているわ』
「なに」
座りながら、少し身構える。魔法式は単発ではなく、効力をその場に展開し持続させる高等技術だ。この子に? まさか。
女の子の様子を伺う。なぜかきょとんとしている。ハッタリなのか? それともまだ知らされていないのか。
『式とは少し違うのだけれどね、サキュバスにはあるのよ、種族にだけ使える契約魔法が』
「契約魔法?」
『サキュバスと契りを交わした男は、その魅力に取り憑かれる。なんて話しを聞いたことがあるでしょう? あれは魔法の一種なのよ』
「ああ、その話なら確かに」
聞いたことがある。要はサキュバスとヤってしまったやつは、もうサキュバスとしかできない体になってしまうんだとか。単に意思の弱い男が性欲に溺れてしまうのだろうと思っていた。
なるほど、確かにそれが魔法の一種であるのならば、抗うのは難しいのかもしれない。この子に近づくのは本当に危険らしい。この子というより、サキュバスに、か。
『さらにさらに』
声の主は楽しそうに続ける。
『その子のは特別でね、その契約魔法を逆位相で発動させてあるのよ』
「……!?」
声には出さなかったが、さすがに驚いた。
逆位相。賢者の修士課程で、最も困難な習得技術の一つとされている。正直その単語を聞くだけで眉間にしわが寄る。
実際にどうなるのかは名前の通りで、逆位相で発動された魔法は、その“逆”の効果を得る。それだけなら簡単そうに聞こえるが、その魔法の構造、因果や詠唱に至るまで、すべての“逆”を計算し、発動させるのは容易ではない。
そしてそれ以上にこの技術が嫌われている部分は、その有用性のなさにある。意味があまりないのだ。基本的に、すべての魔法は“なにかしらの効果を上げる”ために開発されている。その逆を取るということはどうなるか。
例えば、基本的な防御低下の魔法がある。敵に対して放つものだ。これの逆位相を長い時間かけて計算し、詠唱し、発動したとする。
成功すれば、敵の防御力は上がる。上げて、どうする。
まったく努力に見合わない結果、そしてその難しさから修士課程の人たちはこぞって言う。
「こんなの勉強しても将来使わないじゃないか」と。
「……」
サキュバス。その種族だけの専用魔術だからこそ、その逆位相なんて離れ業もできるのだろうか。小さな火の玉を出す魔法ですら、逆位相は難しいというのに。
『すごいでしょう。とても時間がかかったのよ』
部屋の主は自慢げだ。
確かにすごい。俺をここにおびき寄せるまでに相当の準備期間があったに違いない。
いやしかし、ということは、だ。
一度してしまえば、いくらレベルドレインをされることがわかっていても、そのサキュバスの体しか受け入れられなくなってしまう。そんな契約魔法の、逆。
それは、つまり……、どうなるんだ?
「なあ、それってどうなるんだ?」
すでに充分強力な契約魔法に聞こえるのに、その逆となると?
『その子はね、初めてした人間以外からは、吸精ができなくなるのよ』
言葉の内容をすぐに理解できなくて、考える。
冷静に考える。よく考える。いや、ちょっと待てよ。
「……それって、サキュバスとしては劣化してないか?」
『そうね』
おい、とツッコミを入れたくなる。
明らかに不利になっている。だれそれ構わず襲い掛かって精をむさぼるのがサキュバスだろう。それが、一人の男としかできないのであれば、それはサキュバスが生きていく上で相当の不利になるだろう。
女の子を見る。
口を閉じたままこちらの会話を伺っているようだが、その瞳には困惑の色が見られる。まるで知らされていなかった事実を、今初めて知ったかのように。
なんなんだ。こいつらは仲間同士じゃないのか?
「お前らさ、頭おかしいんじゃないか?」
『そんなことないわよ』
ふふ、と声の主は笑う。この余裕が気がかりで仕方ない。何かあるはずなんだ。
この女の子が吸精できるのは一人だけ。たった一人。限定されている。
一人に集中するからこその、何か。
「……わかった」
俺はその答えを口にしてみる。
「一人にしかレベルドレインできない代わりに、すげえ吸えるんだろ、一回で」
『そんなことないわよ?』
あれ?
キメ顔で言い切った俺は、今、間違いなくアホ面になっているだろう。
「じゃあお前、え? だって、どうすんだよそれで」
『別にドレインのパワーが変わったりはしてないわ。並よ。ただ一人としかできないだけで』
理解に苦しむ。頭が痛い。
意味がわからない。これだけ手が込んだ罠を仕掛けられて、肝心のサキュバスはドレイン未経験の成熟もしていない女の子で? おまけに、なぜか俺のことが嫌いで? 挙句にはその能力も普通より限定されている?
何がしたいんだ。俺は封印が解け次第ここを出て行くぞ。それで終わりだ。
押してダメなら引いてみろってことなのか。相手が引くならこっちも引けばいいやってのがイマドキの男子なんだが。
『それじゃあね、勇者さん』
上機嫌に語尾を上げて、部屋の主は気配を消した。
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近い。あまりに近い。
眠りからまだ覚醒しきっていない頭が、みるみる研ぎ澄まされていく。それでも目の前は真っ暗だ。なぜなら目を瞑っているからだ。
起床。自分が起きたという認識はだいたい目蓋が開いて視界が確保されることと同時に起こるもので、目を閉じたまま「ああ、いま自分は起きたな」なんてのはそうそうない。ましてやそれを狙ってやるのであればなおさらだ。
「……」
「……」
しかしてそれを実現できているのは、眠りがまだ浅い段階だったからか、それとも修行の成果か。野宿をするときにぐっすり眠ってしまうようでは論外なのだが、何にせよ何もない時間に飽きて昼寝を決め込んだ俺が、小さな気配を察知し、そのせいで意識が起こされ、今に至る。
目蓋の外側では魔法による光が今もこうこうと焚かれている。部屋の中がずっと明るいせいで時間の感覚が曖昧だ。眠いときに眠ればきっと夜だ。勇者の俺が言うんだから間違いない。
さてさて、この気配は誰だろう。
目を閉じ、あぐらをかき、腕を組んだ姿勢のまま俺は考える。いや、わかってはいる。間違いなくあの子だろう。ちっこい淫魔だ。
でも、だとすれば、あれだけ俺を煙たがっていた子が自分から近づいてきたということになる。そんなことがありえるだろうか。
小さな呼吸音を耳が捉える。声帯を通る空気がかすれ、小さく高い音を残す。女性、それもまだ幼い。どうやらありえるらしい。
魔法の明かりの中で、目の前だけがほんのり暗い。閉じたままでもそれがわかる。距離は恐らく1メートルもないだろう。あぐらを伸ばせば届く程度。これだけ近ければ、別に俺じゃなくとも気配には気付けてしまうだろう。
問題は、俺に何をするつもりなのかだ。
「んん」
わざと身をよじる。
ひっ。悲鳴が出そうになるのを、ギリギリで息ごと押し殺したような声がかすかに聴こえた。目蓋の外に明るさが戻って、気配が遠くなる。思わず笑いそうになるのを、肺のあたりで食い止める。
いかんいかん。何のために寝たふりを続けているんだ。目的を探らねば。
すう。すー。規則正しい呼吸を再開する。
このように私はいま眠り続けておりますので、酸素の消費も少なく、万物に対して優しく無害な状態となっております故、再度の接近を試みては如何かと存知たてまつり候。
呼吸を繰り返す。丁寧に丁寧に深い眠りを演出する。
しばらくして、衣擦れの音が近づいてくる。思わずニヤけそうになる。
「……」
小さな吐息がさきほどよりも鮮明に感じ取れる。動揺で少しだけ呼吸が大きくなったか。位置が低くなる。目の前に座り込んだのだろう。
サキュバスに接近を許すのは危険ではあるのだが、ここからどんな束縛魔法がきても指一本で返せる。実戦に役立つ反射魔法の詠唱破棄は死ぬほど練習した。
さあどうする。何をする。なんのつもりで近づいてきた。
この部屋の主があれだけの余裕を見せるのだ。盛大な仕掛けがあるのだろう。最後の最後でひっくり返すような、何かが用意されているに違いない。
と、見せかけて、嫌っているフリで油断させてからシンプルに寝込みを襲いにきたか。
なんでもいい、来い。全部対応してやる。
意気込む。眠った姿勢のままで、指の先まで神経を張り巡らす。気配に集中する。女の子のわずかな上体の揺れ、体重のかかり方から、腕から手にかけて、指先の位置、吸う息、吐く息。
わかる。空気の振動から、緊張の度合いまで伝わってくる。こんなに静かな戦場はない。目を閉じながら戦うなんてこともほとんどない。だから気付く。はじめて知る。いつのまにかこんなことまで出来るようになっていたらしい。
少女が首を傾けた。来るか。
……こない。
来るか。こない。今、こない。あっ、……こない。花占いじゃねえんだぞ。
なんなんだ、何をしているんだこの子は。いつまでたっても動きがない。よーいドン、のドンがいつまでも来ないかけっこみたいだ。このままじゃ、前につんのめってしまいそうな。
焦れる。焦れる。じれったい。ああ。
もう耐えられない。
目を開く。ピントの合わない視界の中に、少女のまるい双眸が大きく見開かれる。同時。右手をその細い肩にかける。口の中で唱えた呪が発動する。左手を腰に回して、思い切り引き寄せる。
「つかまえたー!」
腕の中にすっぽり収まってしまった小さなサキュバスが、顔を埋めたまま、喉の底から奇怪な音を発した。何かを狙っていたところを申し訳ないが、大勢は決した。封の呪で無力化された淫魔の捕獲に成功した。別に今じゃなくても力ずくで出来たことではあるが。
あごの下に触れる、さらさらの銀髪がくすぐったい。体に密着する小さな体は俺より温かく、なんだかぐにゃぐにゃしていて、骨が入っているのか疑いそうになる。女の子の体、というより女性の体にあまり慣れていないせいか。非常にやわっこい。
「本当に寝てると思ったか?」
笑いながら言う。いや、気配に起きただけで寝ていたのは本当であるが。
小さなサキュバスは状況整理が追いつかないのか、体を硬直させたまま、はふはふとこちらの胸元に荒い呼吸を繰り返している。
「ほら、何しようとしたんだ?」
目の前の可愛らしいつむじを右手で覆う。そのまま軽く撫でてみると、硬い突起のようなものを掌に感じた。うめき声が聴こえた。無視して指でその場所を確かめてみる。
角だ。まだ見ただけじゃわからないほどだが、確かにサキュバスとしての第二次性徴(?)がそこにある。
ということは。
俺は頭に置いた手を小さな背中に滑らせる。横っ腹が痛い。右だけ痛い。何も笑いすぎたわけじゃない。物理的に痛い。俺のおなかの両脇、服を女の子の両手で掴まれている。これでもかというほどに強く掴まれている。意識的にか、それとも無意識か。おそらく女の子の全力であろう力だ。右の腹に至っては服の中の肉まで掴まれて、というより抓られる感じで痛いのだ。まあ我慢できるが。
かまわず背中をさする。少女はまた短く息を吐いて、体を震わせる。
やはりあった。翼だ。こちらもまだ形には成りきっていない。成熟すればそれは見事な漆黒の羽になるのだろう。ふむ。よし、満足した。
「……ほら、言ってみな。人の寝てる間に何をしようとしたのか」
思い出したように訊ねる。返ってくるのは、はあ、ふうという呼吸音だけだ。
「おいおい、どうした?」
あんまり時間をかけていると封の呪が切れてしまう。式にしてしまえばずっと封じていることもできるが、魔法式はすでに封印の解読に使っている。自分の式を二つ展開すると因果関係がごちゃごちゃになってしまうのだ。それではまともに発動しない。
「おーい」
つむじに呼びかけるが、返事はない。
「おいって」
肩に手をかけ、少し離す。表情が見えるところまで。
「なん……」
なんなんだよ。言おうとして、言えなかった。。
発声を忘れる。息を、忘れる。何かを後悔した。絶句、思考停止。
女の子は、俺を見上げていた。いや、何も見えていないのかもしれなかった。俺はこの表情を知らない。こんな顔をされたことがない。見たことがない。わからない。理解できない。
まばたきなのか、開くのか、細めるのか。俺を見つめるのか、目を逸らすのか。そのどれにも当てはまらない。どこにも落ち着かない。
口を開くのか、閉じるのか、何かを言うつもりなのか。どれにも行き着かない。
どこか困っているように見える。どこか惑っているように見える。それなのに、その頬が燃えるような赤に染まっている。
度し難い感情の量。溢れ、雫になって瞳に溜まっていく。
違う。怒りじゃない。困惑じゃない。たった一つの感情が、留める術もなく溢れる。流れ出す。押し寄せてくる。
知らない。覚えがない。解析できない。それなのに、わかってしまう。理屈じゃないその想いを、俺は直感してしまう。それほどの。
「離し、て、ください」
泣き声だった。小さくて、すぐに潰れてしまいそうな声。言ってすぐに、口をぎゅうと結んだ。唇が震えている。何かを耐えている。痛いほどに伝わってくる。何を耐えているのかはわからない。ただ、とてつもない程の気持ちが、そこに渦巻いている。
「離して、ください」
決死とすら取れる言葉に、俺はそっと肩を離す。女の子が目を閉じ、大きく息を吸って、そして、吐いた。薄く、その目蓋を開く。
「あ……」
蚊の鳴くような声を上げて、小さなサキュバスが固まる。
眉を寄せる。もう一度ぎゅっと目を閉じる。
「私の、手を、離させて、ください」
苦々しく、そう言った。
すぐには、何を言ったのかがわからなかった。この子の感情だけ、ただひたすらに追っていた。
私の手を、離す。私の手?
俺の服を掴んだままの手。これを離したいのだろうか。
なら、自分で離せばいいだろう。単純にそう口にできないほどの何かが、今、俺とこの子の間にあった。全てを覚悟した上で、この子は俺に言葉を発している。そんな気がしてならなかった。
「お願い、します……!」
ついに、泣いてしまった。そう感じた。言葉が泣いていた。声が泣いていた。恥じらいか、別の何かか、顔を真っ赤にしながら、懇願していた。雫がぽろぽろとこぼれた。
こんなに小さな子が、していい表情じゃなかった。
「ん」
掴んでいた手は、不思議と指に力は入っていなかった。俺が手首を掴んで持ち上げるだけで、小さな両手はすんなりと離れてくれた。そのままその手を女の子に返す。
「……っ!」
口を一文字に結び、女の子は振り返る。俺から離れていく。反対側の隅まで、小走りに去っていく。
動悸がおさまらなかった。部屋はしんと静まり返っているのに、どくん、どくんという音が体の中から主張していた。
見てはいけないものを見てしまった。触れてはいけない部分に触れてしまった。漠然として、それでいて確固たる感覚。俺は、きっと彼女に触れるべきではなかった。良い悪いの話ではなく、それによって、この場に隠された一部、その何かが、大きく動き出してしまったように思えたから。
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『ねえ』
虚空を見つめていた。
体もだらしなく弛緩させて、ただぼうっと時間の流れを感じていた。
『ねえったら』
不意に思い出してしまう、どうしようもないほどの、赤い顔。それに端を発する、彼女の気持ち。想い。
そんなはずが、ないのに。
『お耳がないのかしら?』
「おー……?」
やる気のない返事をする。無視していても諦めてはくれないみたいだ。
『あらあら、そんなにだらしなくしちゃって、私の見ていない間に何かあったんでしょう』
「何か、ねえ」
何か。確かに、あったにはあった。そのお相手に目を向けると、小さく丸めた背中が目に入る。いったい、何時間あのままなのだろう。俺のおぼろげな記憶をたどっても、ああして座り込んでから体勢を変えた様子もない。体が痛くなったりしないのだろうか。
気になって仕方がないのは、すでに思うツボなのかもしれない。サキュバス共のすることは、どこまでいっても罠である危険性が抜けきらない。険しい道すがらスタイルのいい女が足をくじいて座り込んでいたら、問答無用で斬りかかっておけば間違いないとさえ言われている。
半分は冗談であろうが、半分は間違っていない。
『何があったのかしら? ねえねえ』
ねっとりと笑う部屋主の声が、どうにも癪にさわる。
女性は苦手だ。それはサキュバスだけの話じゃない。そもそも恋愛というものにそこまで頓着がない。感情論の塊りを相手にするのは本当にしんどいことだ。ここがこうだから間違っている、じゃなくて、「私が嫌だったからそっちが間違っている」というとんでもない理屈を武器に、彼女達は本気で戦おうとする。頭が痛くなる。
だからこそ、怒らせてはいけない。甘えた顔を見せられても踏み込むのはご法度。サボテンの魔物と戦うときのように、トゲを飛ばされない距離を保ちながら、適当にやりとりしていればいいのだ。
ずっとそんな調子だった。仲のいい酒屋の兄さんには「お前は孤独死する」と言われた。まんざらでもなかった。
「……はずなんだけどなあ」
『何の話よ』
目を閉じて、息を吐く。
「いや、……世界樹の雫とか正直いらないよなって」
『……あら、どうして? すごい効力があるって聞いてるわよ?』
「どうせ危なくなっても使わないんだよ」
『それはあなたが貧乏性なだけじゃないかしら?』
「まさしく」
適当な話題でお茶を濁しておく。
なんとなく、悟られたくはなかった。サキュバスであるのに、そっけない態度の理由とか、俺の持ち物を知っていたのはどうしてだとか、数時間前のあれは何だったのだろうとか、そういえば柔らかかったなとか、なんかいい匂いがしたな、とか。そんなことばかりが頭をぐるぐる回っているなんて。
やばいのか? やばいのか。やばいんだろうな、きっと。
健康な成人男性としてはだいぶ鈍い色に染まった脳では、対処法がわからない。特定の女性のことをこんなに考えるなんて経験にないのだ。だいたい世の中の女子にも、サキュバスにも、あんな表情を向けられた覚えは一度もない。
あんなに余裕がなくて、あんなに狂おしいほどの。
「ふー……」
もやもやしたものを肺の中にイメージして、一度に吐き出す。頭をクリアにしよう。
袋から小さな薬瓶を二つ取り出して、片方を真上に放った。もう片方を右手に持ち、落下点を予測する。
「ほっ」
落ちてきた瓶は手元の瓶に触れる直前で止まり、トランポリンのようにまた跳ね上がる。
『あら、お上手』
基本の斥力の魔法の訓練だ。要は魔法を使ったお手玉のようなものだが、俺はこの練習方法を気に入っていた。瞬間瞬間に集中し、計算し、発動する。力のかかり具合によってはすぐに回転が加わって難易度が上がってしまったり、天井にぶつかってしまったり、明後日の方向に飛んでいったりもする。
集中力が必要になるのだ。そう、他のことを考えていられないくらいに。
「よっ」
再度落ちてきた瓶に、わざと偏った斥力を与える。錐揉み状の回転が加えられ、舞い上がる。本来ならもはや失敗といえるが、俺はここからが本番。
「いち」
すひゅ。
独特の音をたてて、瓶がまた飛び上がる。回転はさらに加速して、ひゅるると空気を鳴らす。
『あらあら』
その声には素直な感嘆が含まれていた。
落ちてくる度に回転数を増やしていき、それを何回継続できるか。普通のやり方では落とさなくなってしまった俺流のアレンジだ。
二度三度、瓶は跳ね上がる。回っている時点で力の与え方が難しくなるし、真上に飛ばすのも困難なので着地点もズレまくる。座ったままで手の伸ばせる距離ならオーケーだ。
『見事だけれど、どうしたの?』
「……頭をリセット、したいだけだ」
『ルーティーンのようなもの、なのかしら?』
「じゅーに、……そうだな」
ぶううううううううううううん。瓶はもはや異音とも取れる音を発している。
『なんだか邪魔したくなるわね』
してみろよ、と意識の端で思った。
『あなたってロリコンなの?』
着地点がごくわずかにズレた。が、セーフ。
確かにあの子のことを可愛いとは思うが、それまでだ。子供を見て可愛いことがロリコンであるならば娘さんのいる世間のお父様方は漏れなくロリコンであり、そもそもロリコンの定義なんてのは。
「ぁっぶ、さんじゅーなな」
『あ、動揺した』
「違うわ」
反論するのに意識が割かれてしまった。危ない危ない。
空気を裂きながら上昇していく瓶は、今や真空魔法のような風切り音だ。
『絶対動揺したわ。ロリコンよロリコン。いやあね、この少女趣味』
「よんじゅー」
無心。水の心を得るんだ。
『そうよね、私達がいくら誘惑しても乗って来ないんだもの、変態なのよ』
落ちてくるのは回転する瓶、俺はそれを斥力の魔法でまた飛ばす。落ちてくるのは回転する瓶、俺はそれを斥力の魔法でまた飛ばす。落ちて来るのは瓶。
『……ところで、あの子の体は柔らかかった?』
「っ!?」
なぜそれを。思ったときには、瓶が未開の地を求め前方へと飛び立った後だった。
まてまてまてまて。
「やっ」
やばい。そう口にする間に、床に触れた瓶がチッと音を立ててほんの少し弾んだ。回転が速すぎるせいで床の面を滑ったのだ。これが摩擦の力をしっかりと掴んだら。
俺の目の前と部屋の反対側、女の子の辺りにも目測をつけて囲うように壁魔法を展開する。まともに詠唱している時間は無い。
ガッ。
回転が、床を捉えた。あとは予想通りだった。
いつか戦闘に応用しようか。そんなことを、幾度とない衝突に削られていく即席の壁の内側で、怯えながら考えていた。
さすがは魔法商店で厳選した強化瓶。部屋中に無数の焦げ跡のようなものを残したにも関わらず、中のものをしっかりと保持し、今はあの子のすぐ側で大人しくしている。
「ふー……」
事態はなんとか収束した。
いつもなら打ち上げる回数は軽く100を超える。50回すら折り返すことができなかったのは久し振りだ。おかげで対応が遅れてしまった。しかしこれだけの大惨事の中でも、背中を向けたまま完全無視を決め込んだ少女には痛く感心してしまう。そこまでして無反応を貫きたいのか。少しは驚いて振り向いたりしないのか。怒って瓶を投げ返してくれたりはしないのだろうか。
『はあーあ、おっかしい』
耳障りなバカ笑いがようやく止み、部屋の主がけほけほと咳払いをする。面識はないが、楽しそうに顔を歪めながら涙を拭っている姿が想像に難くない。先ほどの言葉から察するに俺と少女の出来事も知られているのだろう。俺は笑えない。
『見てない時間もちゃんと記録しておいてよかったわあ』
ふふふ。嬉しそうに笑う。俺があの子を腕に抱いていたことも、それを暴かれて動揺したことも、部屋の主からしたらさぞ愉快な出来事だろう。
「ふん」
また腕を組み、昼寝の体勢に戻る。
何にせよ気分転換にはなった。そう思うことにしよう。
『あの瓶は拾わなくていいのかしら?』
「……別に」
『あらあら、格好が付かなかったからって、拗ねるのは大人げないんじゃないかしら?』
「大人とは何か」
『哲学する気はないわよ。いいの?』
「それほど大したモンは入ってない」
『ふーん』
「……」
薄目で、瓶と女の子を見る。
嫌われたのだろうか。いやいや、最初から嫌われていた。それだけだ。
『どうせ、変に緊張するから近づきたくないんでしょう』
苦虫を噛み潰す。ああそうだよ。そうだけど、本人もいる場所でそういうことを口にするのはやめていただけないだろうか。いかに無反応であろうと、気まずいのを共通認識にされてしまうとさらにやりづらいのだが。
『怖いんだー、弱虫ー』
「はいはい、よわむしけむしー」
雑に吐き捨てる。しっかりとイライラさせてくれるあたり、見事な精神攻撃だ。
『ナイーブなのねえ、そんなにびくびくしちゃって。たかだか成熟していないサキュバスひとりになんて様かしら、これが勇者? ずいぶんと勇ましいお姿ねえ。きっと素敵なご趣味をお持ちなんでしょうねえ。あらやだ、ロリコン? 小さな女の子が好きなの? まあなんて勇ましいご趣味かしら。勇ましいわ、勇ましい。ロリコンのくせに小さな子を相手に怖がっているだなんて勇ましすぎるわ。ああ、きっと幼い子に本気だからこそ、嫌われるのが怖いのねえ』
俺は無言で立ち上がった。歯軋りしたくなる。
拾ってくればいいんだろ、拾えば。
『あら勇ましい。ねえ聞いて聞いて、勇者くんが言いたいことがあるんだってー。ほら勇者くん。言いたいことがあるんでしょう?』
床を陥没させる勢いでガスガス歩く。願わくはこの部屋ごと木っ端微塵に吹き飛ばしてしまえたら。
「……」
目の前で立ち止まる。やっぱり女の子に反応はない。別にそれでいい。
腰をかがめて、瓶を手に取る。ちょっとだけ、ほんの一瞬、女の子の横顔に目をむけてからすぐに踵を返す。
そして、ほんの二三歩で、戻る足を止めてしまった。
何か、見てはいけないものを見てしまった気がした。それが気になってはいけない気もした。立ち止まったり、考えたりするべきではないと感じていた。でも、頭が考えることをやめてはくれなかった。
振り返る。彼女の背中を見やる。静かに座り、肩を壁に預けている。とても大人しい。すごく静かだ。俺が近づいたとて、何の反応も見られなかった。
その小さな背中は、動かない。まったく動こうとしない。それはまるで生命活動に必要なはずの呼吸すらも止めてしまっているかのような。
「おい」
慌てて近づいて、その顔を覗き込む。
目はかたく閉ざされている。白くて綺麗な肌は、どこまでも白い。通り越して青白い。生気が感じられない。肩に手を置く。まるで反応がない。少し揺する。起きない。
「おい、おい」
両肩に手を置き、こちらを向かせる。膝の上にあった腕がだらんと落ちて、首がぐらりと傾く。支えるべく、その頬に触れる。ひどく冷たい。これは。
「おい!」
両手で頬を包む。銀の髪が手の甲を撫でる。長いまつげ。薄く化粧を施され、棺の中に眠る人に触れたときのことを思い出す。
「……?」
ぽつ、と灯りがともるように、色がさす。俺の手が触れている部分から、まだ低い鼻、つんと出た口、耳、おでこ。肌色が広がっていく。次第に体にも広がって、腕から指の先、足。生きる力が供給されていく。それは鮮やかなほど劇的な変化。
サキュバスのドレインが頭をかすめ、思わず両手を離しそうになる。が、何かを吸われている様子はない。なんだ、これは。
……っふ、すー、ふー。
急な肺の活動の再開に一度体を震わせ、徐々に呼吸が始まる。生き返った。そう表現するより他に言葉が見つからない。生き返ったんだ。
なら、死んでいたんだ。
「……おい、聞こえてるよな」
部屋に放たれた自分の声は、信じられないほど低く響いた。
『なあに?』
対照的に明るい部屋主の声。なぜだろうか、今すぐにでも本気で殴り飛ばしてやりたくなるのは。
「これは、どういうことだ」
『その子の仮死状態のことかしらー?』
「……へえ、これ仮死なんだ」
かすれ出た声に熱はない。胃のあたりが煮えたぎっているのに。
『それについては、あなたは聞かないほうがいいと思うけどー?』
「別に話したらいいんじゃないか」
どうでもいいから早く話せ殺すぞ。そう口にしたつもりだった。喉のあたりで優しさフィルターを通っただけだ。
なぜ俺はこんなにも怒っているのだろうか。
『ふふ、わかってないわねえ』
「何がだ」
『例えばあなたが一泊した宿で、朝、倉庫の中に死んでいる子猫を偶然見つけてしまったとするでしょう?」
「何の話だよ」
『例えばの話よ。そのときどんなことを感じるのか想像してみて』
声の主は飄々と続ける。
子猫が死んでいた? なら、それ以上でも以下でもないだろう。かわいそうだとは思うが、仕方がないことだ。多少は宿主かほかの宿泊客を疑ったりはするかもしれないが、特になにをすることもないだろう。それがどうした。
『想像できた? じゃあ今度は、もうひとつの場合。泊る前に倉庫から猫の声がするの、にゃあにゃあって。倉庫の戸をかりかりしているの。あなたはカウンターで宿主に訊ねるの。そうすると宿主も答えるのよ、「野良猫なんですがね、きっとほっといても悪さをするかもしれないから、捕まえて閉じ込めてるんですよ。もうすぐ餓死するとは思うんですけどね、まあ気にしないでください」ってね』
「……」
『それを聞いた後で、あなたはぐっすり眠れるかしら。もし眠れたとして、朝起きて、倉庫の中で横たわる猫ちゃんを見て、同じ気持ちになるかしら。たとえば、ああ、猫が死んでいる、かわいそう。だなんて、素朴な感想が出てくるかしら』
「……何が言いたいんだよ」
『知らないか、知っているかの違いよ。あなたは知らない方がいいわ。これは忠告よー?』
知っているか、そうでないかの違い。
知らなかったなら、無関係だ。俺には何もできなかっただろう。
でももし、その猫が閉じ込められているのを知ってしまったら。助けるだけの力と手段を持ち合わせながら、それを放棄したのであれば、それは。
ここまで言われたら、だいたいの察しはつく。それでも、聞いた上で、俺は決断してやる。
「いいよ、話せばいい」
早計だったかもしれない。半分は勢いだったかもしれない。
きっと聞かずに眠ってしまった方がいいのだろう。何も知らないまま、朝になって、その頃には封印も解除されていて、脱出する。それが正しい。
理屈ではわかっている。聞かないほうがいい。でも、聞きたい。聞かないことにはたまらない。だから聞く。それはまるで、俺が大嫌いな感情論のような。
『なら、映してあげるわ』
部屋の真ん中に、透明な水晶が浮かび上がった。
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この部屋にいた。
気付けば息をしていた。ここにわたしは生まれた。
部屋には声が響いた。せんせい、という名前らしかった。そう呼びなさいと言われたからそうした。そして、あなたは「人間」という種族だと教えられた。わたしは「にんげん」という名前なのか、と思ったらそれはちょっと違うとも言われた。
部屋には何もなかった。部屋の真ん中に、透明で丸い球が浮かんでいた。綺麗だった。でもそれしかなかった。
せんせいは、その水晶玉に何かの景色を映してくれた。退屈そうなひとりの男の人が映っていた。せんせいはその人を「ゆーしゃさま」と呼んだ。そして、あなたはいずれこの人のお嫁さんになるのだと教えられた。
縁結び、結婚。言葉の意味はよくわからなかったけれど、何もないこの部屋で、ゆーしゃさまはわたしの全てだった。
お店で小さな葉っぱを買っていた。お年寄りと楽しそうに話していた。毛むくじゃらの魔物と戦っていた。
わたしは、勇者さまを見ながら、人間について学んでいった。
木々の生い茂った森林、清らかな川、人々がたくさん暮らしている街。わたしの部屋にはひとつもない。せんせいは、「人間といっても生活の様子は人それぞれなのよ」と教えてくれた。わたしみたいに一人の子もきっとたくさんいるんだろうと思った。
見ているうちに、だんだんとわかってきた。世界がわかってきた。
勇者さまは悪い魔王を倒すべく旅をしていること。そしてそれは世界にとってこの上なく良いことで、同時にとてつもなく大変なこと。街の人がそう話していた。
きっとすごい人なんだ。わたしはいつかこの人のお嫁さんになるんだ。そう思うだけで心がいっぱいに満たされた。街の人が勇者さまに期待をかけるのも、褒めてくれるのも、まるでわたしのことのように誇らしかった。
わたしは少し大きくなった。大きくなったとせんせいに言われた。
勇者さまはご飯というものを食べていたけれど、わたしは食べたことがなかった。食べないと大きくなれないよ。そんな言葉もいつか聞いたのに、わたしは大きくなってる。
人間にもいろいろあるのよ。せんせいにはそう教えられた。いろいろあるんだ。
大きくなったから、好きな時間に勇者様を見ていいと言われた。魔力をたくさん使うから一日に見られる時間は変わらないけれど、その時間を好きに割り振っていいということだった。その日の分の魔力は水晶に込めてもらえるから、あとはそのオン、オフを切り替えられるように魔法の訓練をしてもらった。ちょっとお姉さんになった。
朝の勇者様。寝顔をずっと見ていると、すぐに時間がなくなってしまう。
昼の勇者様。この日は魔物と戦っていた。サキュバスという魔物だった。わたしも少しずつ知識が増えてきたようだった。
わたしはこのサキュバスという魔物がなにより嫌いだった。人間の女の人と姿はすごく似ているけれど、魔物だ。勇者様を誘惑しようとしたり、抱きつこうとしたりする。それがたまらなく嫌だった。わたしの勇者様に近づかないで欲しかった。
勇者様がサキュバスを殺さないのもなんだか嫌だった。他の魔物みたいにヤっちゃえばいいのにと思った。でも、本当に必要なときしか勇者様は命を奪わないんだ。それはサキュバスに限ったことじゃなかった。勇者様は優しいんだ。
夜の勇者様。わたしはこのときだけ、いけない子になる。
ときどき、夜に勇者様はソレをする。初めて見たときも、なぜだかドキドキが止まらなかった。きっと見ちゃいけない場面だった。でも、止まらなかった。
勇者様が切なそうな顔をしていた。体の奥がざわついて仕方がなかった。小刻みに揺れる体。吐息が漏れていた。見ていると頭がぼーっとした。口も半開きのまま。呼吸が乱れる。水晶の中の勇者様と同じように、それはどんどん早くなって、高まって。そして。
……その日から、いつも夜になると、それを期待している自分がいた。きっといけないこと。でも止められないこと。
勉強もしてないのに、わたしはそれがどんな行為なのかを理解していた。本能的に知っていた。早く会いたかった。早く会って、わたしがソレをしてあげたかった。
髪が伸びた。わたしはまた少しお姉さんになった。
勇者様はちょくちょく魔物の棲む森や洞窟で戦っていた。街での依頼をこなしているようにも見えたけれど、どうもおかしかった。報酬をもらっているところを見たことがないんだ。そういえば勇者様が、困っている人、その本人と話をするなんてほとんどなかった。
勇者様は勝手に解決して、勝手に去っていた。
「そういえば、あそこで悪さをしていた魔物が誰かに退治されたらしい」
悪い魔物を倒したあとに、知らぬ顔でそんな噂を少しだけ広めて、ただの旅人に扮した勇者さまは姿を消す。街にいる戦士か誰かが確認してみれば、それが本当のことだとわかる。自分で解決したのに。勇者様が頑張ったのに。街の人は「あら、いなくなったの? よかったわねえ」とか、「あの魔物も引越しかな」とか、のんきに話すんだ。
違うのに。本当は、本当は。
わたしはなんだか悔しかった。今すぐそこに行って、勇者様が倒してくれたんだよって、すごかったんだよって言いたかった。でも、きっと勇者様がそれを望まないこともわかっていた。
本当のやさしさは、誰にも気付かれない。
勇者様がわたしに教えてくれたことだ。多分、すごく難しいことだ。
わたしはもっとお姉さんになろう。言葉遣いも気をつけよう。練習練習。それで、言ってあげるんだ。勇者様は誰より偉いって、すごいんだって、わたしの口から言ってあげるんだ。
『本当はね、あなたはサキュバスなのよ』
昨日の出来事だった。やけに体が重かった。
信じられなかった。信じたくなかった。
明日ね、やっと勇者様に会えるかもしれないわよ、なんて言われて、舞い上がって、どうしよう、何を話そうなんて、前髪を整えながら浮かれていたわたしを、いとも簡単にどん底へ叩き落した。
なんでそんなこと言うの、って問い詰めた。何度も何度も聞いた。嘘だって。そんなのは間違いだって。
せんせいの言葉が、ひとつずつ、ひとつずつ、心にのしかかっていった。
体にはもう、サキュバスとしての特徴が出始めている。あの大嫌いな魔物と同じ場所に、角と翼。こんなのがある人間の女の子なんて、ひとりもいなかった。食事をしない人間も見たことがなかった。子供達はみんな、ボールを使って遊んだり、かけっこをしてるのに、わたしが一番楽しみにしていることといえば、夜の勇者様の。
したい、したい、したい。見る度に、欲求はどんどん膨れ上がっていた。その体に触れたかった。手でしてあげて、お口でしてあげて、最後は。吸いたい。吸いたい。勇者様が欲しい。そんな濃い感情。
現実が、本当のことがひとつずつ、ひとつずつ、形を成してハマっていく。納得できなくても、理解してしまう。
心の端から端まで、ちょっとずつ固くなって石になって、最後には全部石化しちゃったのかもしれない。何も考えたくなかった。何も想いたくなかった。ただ涙がでた。ただひたすらに声を上げて泣いた。泣き方なんて知らなかったのに。
わたしって、サキュバスなんだ。
勇者様のお嫁さんには、なれないんだ。
泣きはらしたのは昨日。
決意したのは今日。
勇者さまが現れた。いきなりだった。
ぼさぼさの髪、ちょっと汚れたマント。少し垂れ気味の優しい目。わたしの知っている勇者様だった。大好きな勇者様がそこにいた。
わたしは頭の中が真っ白だった。勇者様は何気なく周りを見回していた、と思う。何かしらの攻撃に備えて体を緊張させていた、ような気もする。
いま思い返しても定かではない。だってよく覚えていないから。そんなはずじゃなかったのに。
こんにちは、から始まって、にっこり笑って自己紹介をして、悠々と語り合う自分。何度も何度も想像した。何回も何回も練習した。なのに、そのうちの何一つ、わたしには出来なかった。だって勇者様なんだ。そこにいるのは、わたしがずっと眺めていた勇者様なんだ。ずっと会いたかった勇者さまが目の前にいるんだ。
一通りの確認を終えた勇者さまがわたしを見た。目が合った。
それだけ、たったそれだけで、ほかに何もなくなった。勇者様しかいなかった。この世界には、あなただけが。
「んん?」
勇者様が首をかしげた。はっとした。
挨拶。そう、挨拶をしなければ。大事な大事なファーストコンタクト。初めての会話。ここで失敗しては女が廃る。
そう思って、口を開いた。そしてまた、ゆっくりと口を閉じた。
違う。そうじゃない。わたしがしなければならないのは、決意したのは、挨拶でもないし、走りよって抱きつくことでもない。
ただ嫌われればいい。大好きな人に、嫌われればいいんだ。
座り込んだわたしは、勇者さまを見ていた。ちがう、睨んでいた。
睨んでいるように見えて欲しかった。
頭が重い。体も。たまに息苦しくなるのは最近になってからだ。少しずつ悪化していることも気付いていた。
それが、サキュバスの成長期にあたることを、昨日初めて知った。知りたくもなかったけれど、教えられた。
サキュバスが成長期に入ると、男の人の精液が必要になるらしい。それも実際に交わる必要がある。未発達な体では戦闘はおろか誘惑活動も難しいから、だいたいの場合は先輩に助けてもらうそうだ。
わたしは、吸精が必要になっているのに時間が経ちすぎている。そう言われた。酷く体が重いのもそのせいだ。たまに意識が途切れることさえあった。
末期の症状。もう長くはないらしい。もってあと二日。たった二日。昨日、泣き喚くわたしに、トドメとばかりにそう告げられた。打ちのめされた心には、そんな事実もすんなりと入ってきた。勇者さまの隣にいられないなら同じことだ。
あなたも勇者さまから精液を奪えばいいのよ。そんなことを言われた。冗談じゃなかった。
わたしは知っていた。サキュバスが精を奪うということはどういうことか。それは、相手の力を奪い取るということだ。
勇者さまは魔王を倒す人だ。そんな人から力を奪ったらどうなる。勇者さまの世界はどうなる。
わたしは守ってみせる。勇者さまの世界を守ってみせる。勇者さまのお嫁さんにはなれなくても、たとえわたし自身がいなくなろうとも、勇者さまのために出来ることがある。
最後の一日、今日を迎えた。
距離をとって睨み続けるのも、なかなか難しいことだった。
勇者さまを見ていると、どうしても顔が緩んでしまうんだ。だってそこにいるんだ。あの勇者さまが。
どこか眠そうな顔、剣や杖を振り続けてタコだらけの手。全部が愛おしい。好き、こんなにも好き。
勇者さまが話しかけてくれる。その声が、低く響いてくる。大好き。話せる。勇者さまとお話ができる。同じ空間にいられる。わたしが勇者さまの世界にいる。一緒にいる。
だめ。
気を張りなおす。決めたんだから、最後までやらなくちゃ。
悟られちゃだめ。気付かれたらそれはもう、やさしさじゃない。わたしは死ぬの。辛いことも、苦しんでいることも隠し通して、勇者さまがここから出られるまで。
「それならマントの内ポケットじゃないですか」
痛恨だった。やっちゃった。
だって印象的だったから。勇者さまと、港町のおじいちゃんのやりとりが。二人とも楽しそうで、わたしも一緒になって笑ってしまったのを覚えている。
不審がられた。当然だ。勇者さまとおじいちゃんしか知らないはずのことを知っていたんだから。
勇者さまが近づいてきた。あわあわした。肩を捕まれて、怖い顔で脅されるかもしれない。剣を突きつけられて、喋れと言われるかもしれない。計らずとも感じる接触の予感が、細胞を沸き立たせた。
怖いことは何もなかった。だって勇者さまは優しいから、酷いことは絶対にしない。
そうじゃなくて、触れられてしまうかもしれない。この体に、勇者さまの手が。そうしたら、わたしはもう、どうしてしまうかわからない。どうなってしまうかわからない。
それは期待だった。体を縮めて、わたしは予感に打ち震えていた。自分からは近づかない、けど勇者さまから来られたらそれは仕方がない。そんな風に感じている自分がどこかにいた。
言い訳だった。わたしは勇者さまに触れたかった。触れ合いたかった。
そしてそれは、叶わなかった。叶わなくてよかった。
だって、もしその体に触れてしまったら。きっと。
勇者さまは、何もしなかった。無理に聞くこともしなかった。優しすぎて、いやになってしまう。期待しちゃったカラダが、収まりつかないよ。もっと、強引に。
違う。
わたしは小さく深呼吸をして、冷たい言葉を吐いた。
口を開くたびに謝った。心の中で謝った。本心でない罵倒を謝った。ごめんなさい、ごめんなさい。
せんせいが言った。わたしは一人の男の人からしかドレインが出来ないという。
きっとわたしが生まれるときに、意識が目覚める前、体にそんな細工をされたのかもしれない。でもよくわからなかった。そんなことして、どうするんだろう。
どうせわたしは、もうすぐ死んでしまうのに。そういうことをしたい相手なんて、勇者さま以外に考えられないのに。
わたしの心の痛みは無駄じゃなかった。ついに勇者さまがわたしに話しかけることをしなくなった。これでいい。これでよかった。だって、勇者さまはやさしいから。もし、わたしが死んでしまうことを知ってしまったら……。
勇者さまが眠ってしまった。いま、勇者さまは夢の中。わたしのことを忘れている。もうなにも起こらない。
二日。わたしの残っていた命は、昨日と、今日だけ。残りは、あと少しだけ。それで終わる。
良かった。達成した。このまま眠り続けてくれたら、きっと起きた頃にはわたしはもうこの世にいない。そして勇者さまはそんなことお構いなしに、この部屋を出て行って、世界を平和にして。
みんなが幸せな世の中で、わたしのことなんか、これっぽっちも思い出さなくて。
それで。
「……っ」
辛い、辛い、辛い。こんなにも痛い。
大丈夫なんかじゃない。もうダメだ。もう無理だ。また泣いてしまう。
なんで一緒にいられないの。なんで勇者さまの隣にいるのがわたしじゃないの。こんなに痛くて痛くて苦しくて、それでもきっと勇者さまは世界を救える。
でもその先にわたしはいない。わたしなんかいない世界で、勇者さまはきっと、可愛い奥さんができて。わたしのことなんか、わたしのことなんか、忘れて。何も知らなくて。
自分の胸元を指を食い込むほどに強く掴む。心が痛い。痛い。
本当のやさしさは、こんなに苦しい。
誰にも気付かれないことは、こんなに寂しい。
やだよ。知って欲しいよ。わたしが死んでも、わたしがこれだけ辛いことも痛いことも我慢したんだって、知ってて欲しいよ。今すぐ起こして、言いたいの。わたしこんなに頑張ってるよって。こんなに苦しいんだよって。
あなたに褒めて欲しいよ。偉いねって、よく我慢したねって。頭をなでて欲しいよ。全然大丈夫じゃないよ、死にたくないよ。ねえ、勇者さま。
ひた。
足の裏が床を捉える。わたしが勇者さまの方へ歩いていくのを、わたしが感じていた。
今だけ、ほんの少しだけ、わたしを許してあげたかった。
本当は、勇者さまが来る前に、死んじゃえばよかったんだ。それで全部済んだのに。わたしの決意なんて、そんな不完全なものだ。
勇者さまに一度でも会えることを望んでしまった、たった一日分のわがまま。でも、わがままはこれで最後。最後だから。その寝顔だけ。それだけ。
「つかまえたー!」
わたしの喉から変な音が出た。
最初に感じたのは香り。それはきっと勇者さまの匂いであり、外の世界の匂いでもあった。部屋から出たことのないわたしには何にも例えられないけれど、なんだか落ち着く香り。ずっと嗅いでいたら眠くなりそうな。
次に体。所々がごつごつしていて、わたしなんかとは全然違った。大きな体、腕。大人のひと。わたしの体がすっぽりと包まれてしまう。
最後にやっと来たのが、驚きと現実。
勇者さまに触れている。触れてしまっている。それどころじゃない。抱きしめられている。わたしが今、勇者さまに抱きしめられている。腕の中にいる。何かを話しかけられている。わからなかった。何も返せなかった。息をすることしかできなかった。その呼吸ですら、方法が曖昧だった。
体が軽くなる。痛みがなくなる。エネルギーが溢れてくる。体の器官、細胞のひとつひとつまで生きる力に満たされていく。わたしが満たされていく。これはなに。わたしはこんなの知らない。
それが勇者さまに触れたせいなのか、男の人に触れたせいなのかはわからない。でもわかる。感じてしまう。わたしは、この人に触れるために生まれてきたのだと。そうするための存在。いきもの。そうじゃなきゃおかしい。
だって、こんなにも、こんなにも。
堪らない。こんなの抑えきれない。膨らんで膨らんで、破裂してしまいそう。
ぎゅう。必死ですがりつく。わたしがわたしを保つために、狂おしいほどの気持ちに、わたしが気を失ってしまわないように。喜びを耐える。嬉しさを耐える。幸せも感動もぜんぶ。でなければ、飛ばされてしまう。
「おーい」
勇者さまの声。わたしは応じられない。そんな余裕はない。
肩に手がかかる。離される。だめ。だめだ。いま、顔を見られたら。
勇者さまがいた。勇者さまがこっちを見ている。わたしを見ている。
ああ。
真っ白な世界に、たったひとつの言葉が浮かぶ。純粋で、なにひとつ混じりけのない気持ち。増えて膨らんで、溢れていく。どんどん大きくなる。勇者さまがわたしを見ている。勇者さま。勇者さま。
すき。
あなたが好き。あなたを好き。好きです。あなただけが、勇者さまだけが好きです。好き、好き。大好き。
堰を切る。止まらない。好き。勇者さま。
口に出さないのに、きっと伝わってしまう。言葉にしなくても、聴こえてしまう。形にしなくても、見えてしまう。わたしの想いがすべてのものになって、勇者さまに届いてしまう。
ああ、好き。この人が好き。わたしは、この人の傍で、隣で、一緒に、ずっと。
「離し、て、ください」
告白したと思った。それがかろうじて告白にならなかっただけだ。好きだという代わりに、心の端の端、ギリギリで繋ぎとめていた自分を、決意を、搾り出した。いま、勇者さまが与えてくれたすべてを、その熱のすべてをわたしは捨てようとしている。
こんなことを言ったら、勇者さまは手を離してしまう。そんなの、当たり前なのに。当たり前であって欲しくない。そんな当然なんてなければいいのに。
もう戻れない。泣き付くなら今。すべてを無視して、抱きついてしまえばいい。助けてくださいって、わたしを救ってくださいって言えばいい。そうしたら、勇者さまはきっと。
言ってしまいたい。全部を、話してしまいたい。
「離して、ください」
それでも、歯を食いしばる。心が痛む。痛みに耐える。
やさしくあろうとする。これは、勇者さまが教えてくれたこと。
その手が、肩から離れる。
ああ、離れてしまう。もう終わり。これでおしまい。言えばよかったのに。抱きつけばよかったのに。
死にたくなんて、なかったのに。
大きく息を吸って、吐いた。吐く息まで震えていた。もう泣いてるのかもしれない。それでもいい。格好悪くていい。
気が変わる前に。声を上げて泣いてしまう前に、ここを離れて。
ぐ。
あれ。
いつのまにか勇者さまを掴んでいた手。それが、離れない。どうやっても離せない。それがわたしのせいなのか、サキュバスの本能なのかはわからない。でも、自分じゃどうすることもできない。
恥ずかしかった。この期に及んで、こんなにも卑しい自分がそこにいる気がして、すぐにでも離したかったのに。指が、いうことをきかなかった。それはまるで、わたしの代わりに本音を伝えようとしているみたいだった。
勇者さまの手でそれを解いてもらった。あまりに情けなかった。それでも、これでよかった。
本当に終わり。これで、終わりなんだ。
「……っ!」
声を上げかけた。下唇を噛んでなんとか抑え込んだ。
部屋の隅。勇者さまの温もりを失ったわたしの体は、またすぐに不調をきたした。ゲンキンな仕組みだなあと思った。
ゆっくり意識が遠くなっていく。このまま目を閉じたら、きっと勇者さまの姿も、この部屋も、なにもかも、わたしが目にすることはなくなるのだろう。
それでよかった。むしろ助かったんだと思う。
だって、勇者さまの温もりを知ってしまったわたしが、それを失った世界で生きていくなんて、ただ息をしているだけでも苦痛でたまらないんだから。
おやすみなさい、勇者さま。
どうか、あなたの世界が。
-----------------------------
「……まいった」
俺は口の中でつぶやいた。
水晶の中に映し出された女の子は、座り込んだままただ声を上げて泣いていた。この世が終わったかのように、天井に向けて悲痛な叫びを上げていた。
細かく場面が飛びながらも、まだ小さかったサキュバスは、ここの部屋主に人間として育てられていた。生い立ちだ。その時点で嫌な予感はしていた。
そのうちに俺が出てきた。あのアホ面は俺に違いなかった。女の子は度々、水晶に映される俺を眺めていた。ただずっと眺めていた。膝をかかえながら、俺が笑うと笑い、俺が怒ると怒っていた。
真剣そのものだった。この部屋にはおそらくそれしか暇つぶしがないとはいえ、俺がアホなことを言ったり、バカをしたりする、その一挙手一投足をじっくりと見られるというのは、大変こう、なんだ、恥ずかしい。
それでも俺を見ていた。ただずっと見ていた。
お粗末様。と頭の中で口にして、目を閉じた。右手で雑に髪をかきあげて、そのまま掴む。はあ、まいった。
この映像が、女の子が見せた表情とリンクする。強くて、切なくて、そしてどうしようもない気持ち。俺に捕まったときに見せた顔。そして、離してと訴える顔。
「んんー……」
頭をかく。酷くまいっている。それを俺は認める。
水晶の中の女の子はいつしか泣き止んでいた。泣き疲れて眠ってしまったようだ。見た目は可愛らしいのに、心の中はボロボロなのだろう。すぐにでもこの風景に飛び込んで、抱き寄せてやりたかった。俺が守ってやりたかった。
そして、その子は現実にも、いま、腕のなかにいる。
「はー……」
すーすーと寝息を立てる小さなサキュバスを眺めながら、俺は後悔していた。知ってしまったことを後悔した。同時に、知ってよかったとも思えた。
「まいったなあ……」
この子は真実の全てを伝えられた。もうすぐ死のうとしている。消えてしまいそうになっている。本人がそれを望んでいないことは、泣き顔を見れば充分わかる。俺が触れている間はまだ大丈夫そうに見えるが、それも時間の問題だろう。
こうしているだけでは、根本的な解決にはならない。
『ここまでかしらね。さあどうするの?』
「ああ、ちょっと静かにしてくれないかな」
水晶玉の光が消えるや否やかけてきた声に、俺はイライラしながら答える。
俺のことなんかで一喜一憂するこの子を、俺は救いたいと思った。なんとしても。ならどうするか。見ている間、ずっと考えていた。
やはり人間の男と性交をさせるより他にない。これだけ可愛い子だ。気はすすまないが、外にいけばちょっと少女趣味な変態野郎ならたくさんいるはずだ。しかし解析の魔法式が間に合わない。おそらくあと半日はかかってしまう。この方法は不可能だ。
ならばいっそ、この子の時間を魔法で止めてしまうか。当然それも考えた。まだ生きているうちに止め、部屋の封印を解いて脱出する。しかし、高度な時空魔法を維持させるとすれば、どうしても魔法式にする必要が出てきてしまう。魔法式を二つは扱えないから、解析の方を解除するしかない。暗号化された封印を人力で解こうとしたら、何年かかるかわからない。それこそ食料が尽きる。その前に精神力も尽きる。これも、だめ。
それならば、と。俺は苦肉の策に思い当たった。
俺がこの子と性交をする。一度でもしばらくは持つだろうとは思う。一度のドレインならば、それほどの被害にはならないだろう。そして脱出したあとで、お婿さんを探すのだ。この子を大切にしてくれる男を。そうすれば。
『その子はね、初めてした人間以外からは、吸精ができなくなるのよ』
その言葉が頭を過ぎるまでに、そう時間はかからなかった。
あの時は意味がわからなかった。サキュバスの力を劣化させただけじゃないかと。今になれば、それがどれだけ忌々しいことなのかを身をもって理解できる。
これはとんでもない罠だ。俺がこの子と致せば、もう俺が生涯面倒をみるより他にない。精液を与えるだけならいくらか方法もなくはないが、ドレインができる条件はやはり交わり、陰茎を膣に入れることで可能になるのだろう。この子を生かそうと思えば、それこそ幾度となく性交が必要になる。俺がただの村人になってしまうまで、そう時間はかからないだろう。
一通りの解決策、可能性は、頭の中で挙げてみた。あくまでこれは可能性。理屈の話だ。そして、その中のどれを選んだところで、この子が本当の意味で救われることはないのだろうと俺は感じていた。
たぶん、この子の幸せは生き延びることなんかじゃない。
この子が泣き叫んでいたのは、自分がもうすぐ死んでしまうからじゃない。
「う……」
薄く開く。長いまつげ。腕の中で小さなサキュバスが目を覚ました。
「お、おはよう」
俺は胸をなでおろすのと同時に、酷く焦った。
何も決まっていない。どうすべきなのか、どうしたいのか、その案は、方法は。俺はこの子をどうしたらいい。
選択は俺。この子の命も、下手をすればおそらくこの子の幸せでさえ、俺のさじ加減ひとつで決まるのかもしれない。猫が倉庫に閉じ込められていることを知ってしまった俺は、決めなければならない。
「……勇者、さま?」
消えそうな声。胸にすっと入って、ぎゅうと締め付ける。俺を初めて呼んだ。その響きはあまりに弱弱しく、かわいそうで、どうしようもなく愛おしかった。流れるように伸びる銀色の髪も、その瞳も、頬も口元も、あまりに儚くて、愛らしい。
あんなのを見てしまったせいだろう。もう、俺にはこの子が可愛くて仕方がない。俺なんかのことで一喜一憂して、俺なんかのために、あんなに泣いて。
「死んでないよ、大丈夫」
その髪を撫でる。
ああ、どうするんだ。こんな子を、俺は、どうしたらいい。
「あれ、え」
まだぼーっとしているように見える。それもそうだ、死にかけていたんだ。そして今もまだ、死にかけている。
幸いにも意識が回復しただけ。それだけだ。ロウソクが燃え尽きるようなものだろう。最後の最後に、自身が持つ最大の光を放って。そして、尽きる。
させたくない。そんなことになってはいけない。
だって。
「なあ」
だって、きっとこの子は。
「……めて」
震える唇が、訴える。弱弱しい目の光が、それでも意思を貫こうともがいている。
「……やめて、ください」
だってこの子は。
きっと、俺を想って、死のうとしているのだから。
「はな、して」
朦朧としているだろう。いま自分が口にしていることを理解していないかもしれない。それでも。それでも、俺を守ろうとする。俺の世界を守ろうとする。きっと、知られてしまったら、俺が助けようとしてしまうだとか、そんなことを考えていたに違いない。
だからこそ、まずい。
想いに胸をえぐられる。内臓をわしづかみにされるかのようだ。これほどの想いを隠して、それでいて死を選ぶ。これが、どれほどに辛いことか。
本当のやさしさは誰にも気付かれない。それは本当に尊くて、美しくて、苦しい。
俺も村の悩み事を勝手に片付けてきたが、それを誰にも言わないのは照れ隠しだったりもする。そんなのは大したことじゃない。
もっと身近で、もっと大切な間柄でこそ、そして自分が被る精神的苦痛が大きければ大きいほど、やさしくあろうとするのは困難を極める。それでいて、見返りはない。
ありがとうと言わせてしまったら、それはやさしさじゃない。ごめんねと言わせてしまったら、それはやさしさじゃない。
「はなして、ください」
それを、こんなにも小さい子が。しかも、俺なんかのために。俺に知られずに、死のうとしている。消えてしまおうとしている。許せるわけがない。絶対にそんなの許さない。
「だ、め」
弱く、それでも必死で腕を突き出す。俺との距離を少しでも離そうとする。
目頭が熱くなっているのは。涙を流しているのは。本当に泣いているのは。相手を強く想っているのは。どちらだろうか。
きっと、同じ。
「――――っ!」
長いまつげを近くに感じた。無理やりに抱き寄せた小さなからだが熱かった。甘くて、柔らかかった。
息が止まったのはどちらか。耳が聴こえなくなったのはどちらか。それは何秒間だっただろうか。
いったい、俺が旅をやめることによって、どれくらいの人が不幸に合うだろうか。どれだけの村人が死ぬだろうか。そんな、ことを、考える、暇もなく。
堪らなかった。抑えきれるものじゃなかった。したいと思ってしたわけじゃない。そうすることが正しいと思ったわけじゃない。
ただ塞ぐしかなかった。唇を合わせるより他になかった。そうしなければ、もうこの子も、俺も、人の形すら保てなくなるかのような、どうしようもない感覚。
小さな声が漏れた。鼓膜を揺らす。俺の口が、その柔らかさを貪る。その幼いままの唇に、感情の全てをを絡ませる。やさしくなんてできない。
甘い。とんでもなく甘い。深く味わいたいのに、脳が酸素を欲する。口が離れる。数センチ。女の子が吐き出した息をそのまま吸い込む。熱い。この子を、俺は。俺が。
頬に触れる。右手が震える。ああ、壊してしまう。だめ、ゆっくり、ゆっくり。
両手で包み込む。小さな顔。目の前。泣いている。呆けたように口を空けたまま、真っ赤な顔で荒く息を上げている。
また塞ぐ。弱りきった声が上がる。大切にしたいのに、我慢できない。容赦できない。キスの経験すらないのに、自分なんかが手を出したら嫌われるはずなのに。そんなのお構いなしに、ただ欲する。甘さを欲しがる。唇を欲しがる。この子を欲しがる。
女の子の両腕が俺の首にまわる。引き寄せられる。ぐいと吸い付いて、さらに深くなる。意思の固いこの子にとって、それは無意識の行為かもしれなかった。それでも、俺の体を熱くするのには充分すぎた。これほどまでに身勝手に求めているのに、感情に任せて襲い掛かっているのに、それを肯定されてしまう。それを求められてしまう。
俺のしたい行為が、この子のされたい行為になる。そんな圧倒的感覚。そんなのもう止まらない。止まるはずもない。
熱い口に舌を入れる。頬を抑えて逃がさない。作法なんてしらない。
ぬる。絡む。女の子の舌。男の俺が、あえぎ声のかわりに息を吐く。女の子のからだが震え、力が抜け落ちる。ただ必死でしがみついているだけ。ただ、赴くままに、俺の唇を受け入れ、舌を絡めて。
それはもうどうしようもなくて。どうしようもなく、この子自身で、この子の甘さで、この子の柔らかさで、この子のいやらしさで。
二度目の息継ぎ。ずっと繋がっていたいのに、味わいたいのに。それは俺だけでなく。
整う間もなく、求めてくる。女の子の方から咥えにくる。感情が声になって、俺の口から情けなく漏れてしまう。すがりつくように、行かないでと、離さないでと、俺を、俺自身を求めてくる。寒気なんてものじゃない。鳥肌なんてものじゃない。ごっそりもっていかれる。心をもっていかれる。ああ、もう。
抱きしめる。加減がわからない。欲しくて壊してしまう。この子が欲しい。欲しい。
鋭く声を上げる。女の子が痙攣する。小さく何度も。腕の中で。糸を引く口元と、その表情を眺める。わかっている。知識しかないけれど。キスだけだったけれど。
この子はいま。
はー、はー。
俺を見上げたまま。だらしなく口を開いたまま。女の子は荒く息を吐く。それを見ている。
汗に張り付いた前髪を撫でる。頬を撫でる。
「ゆー、は、は」
勇者さま。言葉になっていないのに、わかる。
「わは、ひ」
わたし。
「わた、……っ」
言葉は呼吸に遮られる。
溢れ出る涙を指で拭う。もういい。何も言わなくていい。頑張らなくていい。もう、取り返しなんかつかないのだから。
こんなもの、俺の負けでいいのだから。
「あっ」
俺のマントを掴んでいた、その小さな手首をまとめて掴む。掴みあげる。
もう何もさせない。我慢も抵抗も何もかも。俺がしたいようにして、それを無理やりに受け入れさせる。俺の力に敵うはずもない。だから、きみは何も悪くない。
無防備な首筋に顔を埋める。味わう。声にならないかすれた音が、高く響く。それは悲鳴であり、悦びでもあった。
香る。むせかえるほどの甘い匂い。この子の匂い。この子の味。唇で、舌で。好きなだけ貪りつくす。耳に届く切ない声が、どうしようもなく俺を行為に及ばせる。いじめたい。もっといじめたい。
髪を掻き分ける。この子の香りにおかしくなりそう。耳に触れる。そこにも唇を這わす。女の子のからだがまた跳ねる。お構いなし。耳たぶから穴まで、すべてを犯し尽くす。愛おしい。全部欲しい。
女の子の手首を掴んでいた右手を、胴に、お腹に、脇腹、肩、撫でさする。俺の体のすべてでこの子を堪能する。開放された細い腕が、首筋に埋めた俺の頭にしがみつく。
柔らかい。小さい。こんなに弱くて、繊細で、綺麗で。
その手を足に這わせる。そのまま太ももへ。ワンピースと肌の間に侵入させる。いけない場所。女の子なら守らなければならない場所へと、滑り込ませていく。
下半身が痛い。固くした場所へ、それでも血が集まっていく。酷く興奮する。たまらないほど発情している。彼女のことを考えれば、俺は変態なのかもしれない。でも知ったことじゃない。もう、欲しくて仕方がない。
声を上げ続ける小さな口を、もう一度塞ぐ。右手が止まらない。スカートの中。太ももの柔らかさといやらしさ。普段なら隠れているはずの場所を、俺が好き放題にしている。
彼女の唇が応じる。求められている。触ることも、なにもかも。俺がしたいだけなのに。俺が俺の欲望を吐き出しているだけなのに。それがこの子の欲求を叶えてしまう。
少女の肌を堪能する。手を滑らせる。指先が薄い生地に触れた。喉が鳴る。なぞりながら、その核心に迫っていく。俺の頭を抱く指が、ぎゅうと髪を掴む。
触れる。
「あ、あ」
女の子が太ももをすり寄せる。俺の手は大事な部分と太ももの肉に挟まれる。血が滾る。頭が熱い。鼻血が出そうだ。それでもその場所を、指先で優しくなぞる。
すぐにそれは、声となって、もがきとなって、反応を見せる。触れる度に、擦れるほどに、何度も何度も喘いで、鳴いて、俺にしがみつく。愛おしい。いやらしい。もっとダメにしてしまいたい。もっと。もっと。
指を押し込む。肩を抱き寄せて唇を奪う。鳴く、泣く。耳に届く切ない声がその続きをさらに欲しがる。そう思える。
この子の全てを満たしてしまいたい。だって、俺がそれを出来てしまうのだから。俺なんかが、この子の幸せに関わることができるのだから。
その身をそっと横たえる。女の子は仰向けになり、大きく口を開いたまま胸を上下させている。裾をめくる。太ももから、その先まで、ゆっくりと露になる。恐ろしいほどの背徳。上から見ればこんなに小さな女の子を、サキュバスを、俺が犯す。
短く息を吐く。からだの高まりが抑えられない。
下着。白いぽんつが目に入る。その腰にかかる部分を摘み、脱がしていく。俺が。こんな子のスカートを捲り上げて、ぱんつを脱がせて、そして。
ソコが見える。ただ待っている。愛しい相手を受け入れるために、ソレを存分に愛するために、愛されるために、佇んでいる。
ひくついて、俺に訴える。入れて。はやく。はやく。
堪らなかった。指で触れたくもあり、むしゃぶりつきたくもあった。だがそれすら比較にならないほど切迫した欲望。初めての感情。俺は下半身の装備を外していく。焦って思うようにならない手をなんとか動かして、自身を取り出す。
呼吸が荒ぶる。どんどん早くなる。挿れたい。いれたい、いれたい、いれたい。繋がってしまいたい。
呼びたかった。この子の名前を。でも知らない。ちゃんと名前があるのであれば聞く。でももう、いまは余裕がない。
あてがう。にちゅり。女の子も息を吐く。
顔を覗き込む。朦朧としながらも、俺を見る。
ただ一言、好きと、そう言われた気がした。目元が熱くなる。
決意ならしてやる。責任ならとってやる。この子の気持ちも、サキュバスとしての体も、これから起こり得るであろう面倒事も全て、全部ひっくるめて。
「……ッ!」
「ひあああっ」
入る。入っていく。奥まで。その到達するところまで。
温かさを感じる余裕も、感動に浸る暇もない。無数の突起が、最愛の相手を出迎えにくる。一本一本が、その身を陰茎に撫で付ける。促す。もっと奥まで。
入りきる。突起の怪しい蠢きは止まらない。その全てが意思を持つように、陰茎に絡みつく。アイシテル。ダイスキ。ダシテ。ダシテ。イッパイダシテ。ホシイノ。ハヤク。ネエ。
俺は涙を流して叫ぶ。あまりの快感と、溢れてしまった気持ちに流されて、ただ喘ぎ声を上げる。腰を奥に付けたまま、動かせもせずに、この子と一緒に今を感じる。
少女が伸ばしてきた手を掴む。もう耐えられない。突起はそれでも容赦なく陰茎にまとわりついて愛を語る。スキ。スキ。ダシテ。チョウダイ。
弾けてしまう。情けなくも、こんなのあと何秒も耐えられない。
女の子のからだを抱き上げる。腕の中に必死で収める。触れていたい。すべての場所を感じていたい。もういってしまうから。出してしまうから。
二人で求め合う。そのからだを擦り付けあう。
ホラ。イイヨ。ダシテ。ダシテ。
ああ、いく。ああ、あああああ。
――――――――――っ!!
----------------------
「なー」
ベッドの上に寝ころんだ小さな背中。声をかけても反応が薄い。
「……」
「拗ねるなって」
「拗ねてないです」
否定はするが、その声色では甘えん坊が駄々をこねているようにしか聴こえない。なんとも可愛らしいことだ。
この子は生き延びた。部屋の封印は解けた。
穏やかに寝息を立てるこの子を毛布に包んで知り合いの宿に泊めてもらったまでは良かった。しかし、いざ目が覚めていると、小さなお姫様は強情を張るのだ。
「なんで、助けたんですか」
その一点張りだった。そして俺があの水晶で見た内容を伝えると、顔を真っ赤にして布団を被ってしまった。それをなんとかなだめて、ご機嫌を伺うこと数分。
布団から体を出してくれただけでも進歩だ。
「なんで、わたしなんか」
いじけている。知られてしまった。詰まるところ、ちっちゃなサキュバスさんの不満の種はそこらしい。
「まだ間に合いますよ、わたしが……」
「間に合わないよ」
言い切る前に遮った。
「間に合わない」
もう一度言って、ベッドに近づく。小さな背中が強張る。でも逃げはしない。
死なせるつもりはない。そういう意味で言ったつもりだ。しかし実際のところ、腹を空かせた子の食欲は凄まじく、いまの俺が第一線の戦場に向かうのはちょっと厳しい。あの一回だけで、それほどに吸われてしまった。
それでもドレインによって体力自体が奪われることはなく、事後の気だるい体をなんとか引きずってあの部屋を脱出したのだった。
「間に合います、もん」
「間に合わないよ、ほら、おいで」
両手を広げて見せても。女の子はぷいと向こうを向いたままだ。
「……」
仕方なくベッドに腰掛けて、体を抱き上げる。ふわりと香りが広がる。やはり抵抗はない。
うつむく女の子の髪に触れる。耳が赤くなっているのに気付く。
「もういいんだよ」
頭を撫でる。これも受け入れられる。されるがままだ。
「よくない、ですよ」
声が震えている。
この子の気持ちもわからないではない。勇者である俺が旅をやめるとすれば、それは世界的にも大きな出来事かもしれなくて、その原因が自分にあるとすれば、それは心中穏やかとはいかない。
もしくは、俺の将来にもっと煌びやかなものを見たのかもしれない。それを摘み取ってしまった自責の念は絶えないのかもしれない。
要は、この子は叱られているのだ。怒られていると感じているのだ。何かに。その罵声の相手には影も形もないけれど。
「だって、だってわたし、こんなに幸せなんです。こんなことになっちゃったのに、嬉しくて仕方がないんです」
ぽた。雫が落ちる。俺はただその髪を撫でる。
「だめな女なんです。わたしが幸せになんてなっちゃいけなかったのに。そしたら勇者さまの世界だって、どうなっちゃうかわからないのに。それなのに、それなのに」
小さな手が俺を求める。撫でるのを中断して、その手を掴んでやる。
だめな女というフレーズにはちょっと笑いそうになってしまった。こんな小さなナリで何を言う。そんな感想が出るくらいには、俺は世の中の行く末を楽観しているらしい。
それこそ。
「俺なんか世界を見捨てたんだぞ。よっぽどダメ男だと思うけどな」
「違います!」
キッとした視線が俺を見上げる。真っ赤なほっぺがとても可愛い。
「わたしがだめな女なんです!」
「いや俺がダメ男なんだって」
「違います! わたしです!」
「じゃあ仕方ないそっちはだめ女でもいいよ。そしたら俺もダメ男な」
「だめです! わたしだけです!」
「コノヤロウ」
俺は少し笑って、その頭を引き寄せる。胸元に埋まる。んぐ。
そのまま頭をぽんぽんとしていると、すぐに女の子は大人しくなってしまう。猫じゃないんだから。
「だめなん、ですよう」
弱りきった声が漏れる。すんすんと鼻を鳴らす。
どうしたもんかな。
「……あのさ、料理はできるか?」
「ふえ?」
「いや、あの部屋で料理も何もないだろうけど、なんていうかな。俺が何か食べ物を作ろうとすると、糧になった命にごめんなさいしなくちゃいけなくなるレベルでさ。その……」
まんまるな目が俺を見上げる。いたたまれなくて逸らす。
「もしよかったらさ、……っと」
言い終える前に、女の子がもそもそと腕を抜け出す。ベッドの上。俺に向かって正座をする。深く息を吸い込んだ。吐いた。
そして、三つ指をついた。一連の動きに謎の練度を感じる。
あれ。これは確か。
「家事に不得手な未熟者ではありますが、いずれも経験を積み、必ずやあなたのお役に立てるよう精進する所存でございます」
淀みない科白を流れるように口にする。俺はコレを見たことがある。覚えがある。なぜだ。
ああそうだ。
「ですから……、ですから……その」
そこで止まる。女の子が真っ赤になって頭を垂れる。俯いた顔からアヒル口がちょこんと飛び出てなんともいい味を出している。
ぶっ。
「なっ!?」
顔を赤くした女の子が俺を見上げる。
「くっ、くく」
思わず笑ってしまう。口を手で押さえる。
だって、俺は知っている。俺はすでにこれを見たことがある。それも、何度も。
「なんで笑うんですか!?」
「く、悪い。……くふっ」
ぽかぽか殴られる。殴られて当然だろう。俺はこの後の言葉まで全部知っているのだから。そしてそれがどれだけ大切な言葉なのかを知っているのだから。
「悪い悪い。ごめんって。いたいいたい」
「笑うなんて酷いです! わたしは、真剣なんですよ!?」
「そうだよな、あんだけ練習してたもんな」
「そうですよ! 何回も練習して、それで、それで……あれ」
なぜそれを。腕も顔も、完全に停止した女の子に、俺は言う。
「ちょうどそこも、見させてもらったからな」
女の子の手が布団を掴む。俺は女の子のヤドカリ化をなんとか食い止めて、抱き寄せる。
うー、うー。女の子が唸る。
「ほら、ちゃんと聞くから、最後まで」
「もういいです!」
「悪かったよ。ごめん」
お詫びとばかりに撫でる。次第に大人しくなる。俺の手で機嫌を治してくれる女の子に癒されてしまう。あまり良くないな、こういうのは。
「……いまのはちょっと、勢いでしたから。ずっと言いたかったんです」
でも、やっぱり言えないです。そう口にする。
魔物は人間とは段違いに成長が早い。生まれながらに即戦力を求められるからだ。もしかしたらサキュバスという種は精神面のそれが著しいのかもしれない。
何となく部屋の壁に目を向ける。手入れの行き届いた内装にはシミもない。
「……町を周る予定なんだ」
おもむろに切り出す。
「町や村、良くしてくれた集落も。まだ力が残っているうちにさ、戦い方とか、知識だとか、伝えられることもあるし。あとは結界にもそれなりに手助けできると思うから」
そういった部分にあまり真剣に取り組んだことはなかった。すでにそれぞれが自衛しているんだ。おせっかいに思えて仕方がない。それでも、たとえ煙たがられたとしても、俺のすべきことだと感じている。
「それが終わったら、静かに暮らそうと思ってる。まあ、新婚旅行ついでにさ」
「しん、こん……」
両頬を包む。顔を上げさせる。放心したように俺を見る。まばたきが2回。
「一緒になろう」
表情。時が止まったかのように動きを止めて、不意にぐにゃりと崩れる。
それからしばらく泣きじゃくる小さなサキュバスを、俺はただ受け止めていた。
「一緒に来てくれる?」
落ち着いたところで、もう一度確認を取っておく。もしも断られたとしても、何度だって言ってやる。聞かなかったところで、無理やり連れて行く。
「……はい」
鼻声で、それでもはっきりとした返事。なんだか泣かせてばかりいる気がする。
全ては罠なのかもしれない。そんな可能性がまったく頭にないではない。でもそれでいい。この子に騙されるのであれば、もう仕方がない。そう思える。それが、信じるってことなのかもしれない。
「……」
しかしながら、この子は俺の言うことを全部聞いてしまいそうな印象すらある。自惚れかもしれないけれど。
もっとわがままにさせてしまおう。安心して自分の意思を吐きだせるように。全て受け入れよう。ちゃんと愛を口にしよう。そしてたまには喧嘩もしたりして。
この選択が正しかったのかと聞かれれば、やはり間違っているのだろう。正しさは理論だ。正しさは理屈だ。勇者としての責務を捨てた俺は、糾弾されてしかるべきだろう。
俺が選んだのは感情論だ。ただのわがままだ。世界より、この子を助けたかった。自分の想いを優先した。そして、俺が嫌いなわがままを選んだからこそ、俺はいま幸せを感じているのだろう。正しくなくたって、嫌いだって、俺を幸せにしてくれたのは感情論だ。
みんなそうなのかもしれない。
女の子という生き物は、男よりずっと「幸せ」に敏感な生き物なのかもしれない。
「……ああそうだ、まだ聞いてなかったけど、……名前は、その、ある?」
聞き方が難しい。丸い双眸が俺を見上げて、こくんと頷いた。
「せんせいに付けてもらった名前があります」
せんせい。あの声の主のことか。
「教えてくれるか」
小さな手を胸元に寄せて、少女は一度目を閉じた。そして、開く。
緊張と期待の入り混じった顔。予感しているのかもしれない、それを伝えたすぐ先の未来で、俺にその名前を呼ばれることを。
静かに、そしてゆっくりと、小さなサキュバスが口を開いた。
それは勇者と小さなサキュバスが部屋をあとにしてすぐのこと。
「はー……」
盛大な溜め息と共に、エルダーサキュバスと呼ばれる淫魔としては上級の固体が、床に寝そべったまま自分の腕で目を覆った。
「行っちゃいましたね」
その隣に座るもう一人のサキュバスがどこか寂しそうに言う。
二人の前に置かれた水晶玉。そこに映し出された部屋には、もう誰も居ない。
「ほんと、最後まで気が抜けないんだから」
封印の魔法式は、二人の行為が終わった時点で、解析が終わる前に解除した。それについては勇者も特に言及せず、エルダーサキュバスも何も言わなかった。
「……ところで聞きたかったんですけど」
「なーあに」
「逆位相なんてほんとにやったんですか?」
「あんなの嘘に決まってるじゃない」
呆れたようにエルダーサキュバスが答える。
「そんな都合のいい契約魔法があるわけないでしょう。だいたい、サキュバスの魅了は体質であって、魔法じゃないんだから、逆位相もなにもないわよ」
「そうですよね。おかしいと思いました」
助手と思わしきサキュバスは笑う。
「あの勇者さんはお人よしではあるけれど、それでも正義感も強そうだから、まあ言い訳というか、逃げ道のようなものね」
「逃げ道、ですか?」
「そうよ。あの子が精を奪うのは別に誰が相手でもいいんだもの。それを知っている状態で、ずっと自分の力を奪わせ続けるだなんて、世の中に対する罪悪感がないはずがないもの」
「そんなこと気にしますかね?」
「しそうなのよあのカタブツは。誰が誘惑しても屁とも思わないんだもの。そんなことを気にして性交が億劫になって、最悪、不能になっちゃうかもしれないわ」
「なるほど、そしたらあの子も……」
「そう、それだけはごめんだわ」
「あの子のためなんですね」
「当たり前じゃない。それ以外のことなんてどうでもいいわ」
魔王様直属の参謀からの特別指示が出た。生まれたてのサキュバスを使った実験的作戦だった。
エルダーサキュバスはその概要を聞いて、冗談じゃないと突っぱねた。それもそうだろう。仲間を生贄にするようなものだ。下手をすれば、その幼いサキュバスはその使命すら全うすることなく死んでしまう。
それでも最終的には従うよりなかった。
生まれたサキュバスは可愛くて素直だった。それもそうだろう。穢れをまったく知らないのだから。
絶対にこの子を死なせたくはないと思った。だからこそ、与えられた作戦を幾度も手直しして、実験なんて言わせない密度で練り込んだ。
それでも五分五分だった。視察を何度も繰り返したとはいえ、あの勇者が世界への正義を手放してくれるかどうか。
「そんなに想ってるのに、いいんですか? 嫌われ役のままで」
「いいのよ、わたしとあの子が仲良くしてたら、それこそあの勇者さんは全てを疑ってかかったでしょう」
「……それはそうですけど、辛くないですか? あの子に何も知られないまま、ただ誤解されるのは」
「それが、やさしさってものなんでしょう。きっと」
エルダーサキュバスは悟ったように語る。
生まれてから今日まで、ずっとその成長を目にしてきた彼女にとって、そこに抱く感情は、人間でいう自分の子供にあたるのかもしれなかった。
「まあでもこれで、次の勇者が現れるまでは、わたしものんびりできるわ」
どこか寂しそうで、それでいて満足したように、エルダーサキュバスは息を吐いた。
「ちゃんと幸せにしてあげてね、勇者さん」
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