ロリサキュバスのリリ


 
 
 
 
 
 
「はい、もうちょっと頑張ってねー」
「まだいけるでしょう?」
「……」

 腕が痺れる。体中が痛い。はやくしてくれと文句のひとつも言いたいところだが、生憎と時間をかけて形成された俺とこの女賢者さん二人の上下関係はそれを許してはくれない。
 こんな状況で最大詠唱だとか、ふざけている。俺に話しかける暇があるなら、とっとと唱えてくれと切に願う。歯を食いしばりながら、膨れ上がった上腕二頭筋と脳の中身の無さじゃ他の魔物に追随を許さないボストロルの攻撃を受ける。そんな真昼間、ミストリエの丘。
 耳がキンキンするような咆哮、ついでにツバも飛んでくる。だいたいこういう相手はまともに相手をすること自体がおかしい。眠らせるなり目潰しなり、戦闘力を奪ってからフクロにするのがセオリーってものだ。
 ボストロルが振りかぶった腕を風切り音と共に振り下ろす。俺はコイン王にもらった剣でもって、その闘争にかける有り余った情熱を受けきる。地面に足が埋まる。ひざが折れそうだ。
 こいつも久しぶりに全力でもって棍棒を叩きつけられる相手に出会ったのだろう。目が爛々と輝いている。青春のみなぎる力ってのは、人間も魔物も変わらないらしい。大変結構なことだ。それを向ける相手が俺じゃなければ。
 ぐばあと声を上げて、もう一度棍棒を両手で構える。ひねりの加わった上半身から、横なぎの一撃が繰り出される。直感的に受けきれないと判断した俺は、半歩後ろに飛びのき、体を仰け反らせて避ける。鼻の先を力の塊が轟音と共にかすめていく。髪型がオールバックになりそうな風圧。なんとか踏ん張る。当たったら首から上が飛び散るだろう。当てるつもりの攻撃が外れ、勢いを殺せずにボストロルは尻餅をついた。ずしん。
「ちょっと!」
 茶髪というより、赤に近い賢者から批難の声が上がる。わかってはいた。
「……悪い」
「悪いじゃないわ、ふざけないでしっかり囮」
 今度は銀髪の賢者から。
 ふざけてはいない。口に出して言いたい。
「ごめん、次はしっかり受けるから、頼む」
「もう」
 攻撃が当たらないとなれば、ボストロルはその対象を変えることがある。だらか俺は受ける。受けろと言われている。
「次、避けたら承知しないからね」
 赤髪。
 ごたごた言ってないで早く唱えろよ。そんな言葉をギリギリで飲み込む。いっそのこと、この思春期の化け物をそっちに誘導してやろうか。触れるものみな傷つける多感な時期だ、きっと成果を上げてくれるだろう。
 起き上がったボストロルが睨んでくる。かわされたことにまるで裏切られたかのような表情を見せるが、そのとんでもない腕力を全部受けきったら人間の体なんて軽く壊れてしまうことを是非ご理解いただきたい。いや、当然殺すつもりだろうけど。
 こっちに向かってもうひと吼え。この分じゃ、いくら避けたところでターゲットが移ることはないだろう。
 ずし、どし、どす。数キロ先まで響きそうな足音でボストロルが向かってくる。勢いのまま突き出されたエモノを、俺はその横っ面に剣を合わせながら受け流す。一応受けてはいる。どうせ標的は変わりそうもないのだから、これぐらいは許して欲しい。
 俺の横を数歩通り過ぎたボストロルが顔だけこちらを向く。視線が合う。ぞくりとした。
 次の瞬間それは放たれ、俺が後ろに倒れ込んだ。とっさに合わせた剣は鈍い音を立てて弾き飛ばされた。持てる怪力を全て投擲につぎ込んだそれは、剛速球というにも生易しい。こいつ、棍棒を投げやがった。
 そのままボストロルは腕を振りかぶり、衝撃の痺れでまだ立てないでいる俺に迫ってくる。流石にやばい。棍棒を使おうと、そうでなかろうと、体が木っ端微塵になるか、もしくはちぎれるか程度の違いしかないだろう。
 影が迫る。やっと極上の一撃にありつける。よだれまで垂らしながら、ボストロルがその腕を振り下ろそうとする。
 が、その拳は俺に到達することはなかった。
 パキパキとヒビが入るような音と共に、その巨体が蒼く凍りついた。かと思えば、自分を含めた辺り一体に突然熱気が立ち込める。俺はかねてより準備していた瞬間移動魔法を短距離で行使した。俺とボストロルの居た辺りが青い炎で一気に焼却される。肌がひりつく。凍りついたボストロルの体が、粉々に砕けてそれぞれ蒸発していく。地面に焦げ後が残っている以外は、まるで何もなかったかのようだ。

「ふー、きもっちいい」
「終わり」
 赤髪が腰に手をやり、銀髪が首を鳴らした。さすがはあたしたちね、なんて言葉が聞こえてきそうだが、相当時間魔力を練りこまなければあんな威力は出せない。なにもここまですることもないだろう。今の半分くらいの力でも倒せたはずだ。俺はバレないようにため息を鼻から吐いた。
「経験値ごちそーさま」
 赤髪が俺に向かって調子良く手を合わせる。
「いいのよどうせドMなんだから」
「それもそーか」
 銀髪の言葉に、赤髪が乗っかる。俺を一緒くたに蒸発させようとしたことには特に弁明もないらしい。俺は「いやいや」と苦笑いを作った。引きつらない表情を維持できるくらいには、だいぶ顔面筋が鍛えられてる。
 
「気の合う仲間と最良のコンディションで!」をモットーに掲げた協会の方針からすれば、普通なら俺がこの二人とのチームを解消しても文句は出ないはずだ。チームはどんどん入れ替わる。自分の力が役に立つ、認められる、居場所になるチームを探して、個人が10や20のチームを渡り歩くこともザラなのだ。認められるチームとしてのカタチは1〜4人だから、俺の知る超人気イケメン勇者がマスターのチームなんて、毎回男一に女三の割合になり、色恋沙汰で内部分裂を起こしては再編成を繰り返している。ご苦労なことだ。
「いじられるの好きだもんねー?」
「だめだよあんまり言ったら、また喜んじゃう」
「いや、ドMじゃないよ」
 クスクス笑う女子共に、冗談を、と俺は笑ってみせる。飛ばされた剣を拾い、なんとか会話を切ろうとするが、顔を上げればニヤニヤした二つの顔がこっちを見ている。
「ほら喜んでんじゃん」
「そーだよ、だってこの前だってほら」
「あー! あれねー」
「……」
 またか。俺は何度目かもわからない話に辟易としていた。その話は……、と困った表情を作ってみれば、嬉々として話を盛り上げようとする。めんどくさがって無反応だとどうせ逆ギレしだすので、これも仕方が無い。
「あれねー、絶対わざとだよねー」
「絶対そうだよ」
「わざとなワケないだろう」
 俺の突っ込みに、「怒った怒ったー」とケタケタ笑い声を上げる。頭の悪い欲しがりさんを喜ばせるコツは、一に相手の発言にやられてあげること、二に絶対に本気では怒らないことだ。
 そもそも、こういった対人関係がわずらわしくて一人旅をしていたのだ。申請があろうと全部突っぱねていた。世の中様には申し訳ないが俺は一人で旅がしたかっただけだ。世界平和だの魔王討伐だのと、さして興味はない。協会に登録してあるのは、街に寄った時にいろいろと有利な特典があるからだ。街は勇者に優しい。
 襲ってきた魔物は倒したし、世話になった宿主の依頼もこなした。その内容にはボス級モンスターの討伐も含まれていたが、頼まれては仕方が無い。
 そしてぼっちチームであるのにも関わらず、いつのまにか毎月協会で発表されるチームランキングに名前が載るようになってしまってからは、ひっきりなしに申請が来た。もちろん一度も受理しなかった。
「ほんといじられるの好きだよねー」
「オイシイからでしょう」
 好き勝手言いながら二人が笑いあう。俺の内心を理解しているつもりになっているのかもしれないが、もし明日からいっさいの罵声暴言誹謗中傷を吐かないと誓ってくれるなら10万出してもいい。ついでにチームを解消できるなら全財産出してもいい。金なんてまた溜まる。
 協会から異例の指示を受けたのは一年前だ。
 賢者を二人よろしく頼むと言い渡された。よろしく頼むってなんだ。そんな文句を言う暇もなく、この女賢者二人が俺のチームとして正式登録された。胃が痛かった。
 仕方なく腹をくくった俺の前に、この二人は現れた。最初こそしおらしくしていたものの、相手を緊張させるのが嫌いな俺が相好を崩すと、途端に調子付き始めた。かくして今に至る。
「気持ち悪いよねえ」
「ほんと」
 さて、俺に関してはチームマスターであるにも関わらず、この二人を除名することができない。仕返し等が恐いわけでも、メンバーによる裏リストに載るのが嫌なわけでもなく、権限を持たないのだ。物理的に無理なのだ。ルールの根源たる協会が作った特例であれば、是非もない。
 げらげらげら。
 馬鹿にした笑いをこちらに向ける二人へ、俺は迷惑そうな顔を向ける。いっそう馬鹿笑いが大きくなる。何度も言うが無視はいけない。本気で怒っていると感じさせてもいけない。
 確かに実力はある。潜在魔力は相当のものだろう。協会も魔王討伐を悲願としていれば、多少の人間性には目をつぶってもこの二人の戦力は惜しいのだろう。だからって俺に押し付けるか。俺は育て屋さんじゃない。
「一旦戻る? 街」
「もう一回くらいやってこうよ」
 俺を放置したまま話は進む。二人の修行と称されたこの魔物狩りは、もっぱら俺が壁役となり、その間に二人が呪文を唱えて倒すということが繰り返されている。荒ぶる情熱と唾液を全身に受けた俺としては、はやく宿へ戻って熱い湯を浴びたい。
「……」
 と思ったけれど、どうもそうはいかないらしい。
 俺が無言で振り向いた方向へ、賢者二人も遅れて意識を向けた。魔物だ。ここら一体は地盤の隆起と沈下が酷く、丘と名のつく他の場所と比べるとあまり見晴らしが良いとは言えない。俺が二三の気配を感じたのも少し先の崖の下だ。
 先に崖の真上付近に座標を見積もって飛ぶ。さほど距離があるわけじゃなかったが、足音が鳴るのを嫌ったのと、女賢者二人より早く標的を確認しておきたかった。見下ろす。白く逆立つ尻尾が揺らめいている。
 ウルフ二匹と、……ウルフ二匹と?
 なんだ、これ。
「どう?」
 追いついてきた赤髪が小声で話しかけてくる。
「ちょっと待て」
 言ってから、しまったと思った。赤髪がむっとする。状況が未だに整理できない緊張で、口調を柔らかくするだけの余裕がなかった。
「ちょっとどいて!」
「おい!」
 赤髪が身を乗り出す。張り上げた声に気付き、二匹のウルフと『もう一人』がこちらを見上げた。振り向いた瞬間に、短いツーサイドアップの金髪がぴょこっと跳ねた。
「なんだウルフとか雑、魚……?」
 赤髪もその存在に気付き、声を失った。
「どうかしたの?」
 遅れて銀髪が追いついてくる。崖の下では、まさに臨戦態勢のウルフが逆立った毛を爆発させるように尖らせ、唸り声をあげている。しかしその近くに佇んでいた謎の少女は、見つかったことに慌て、あたふたとしている。なんだあれは。
「……まあいいわ、どうせ魔物の類でしょう!」
 先手必勝とばかりに、赤髪が魔力を練りだす。考えなし、という訳ではない。相手の態勢の整わないうちに勝負を決めてしまうのは良策だ。なにより、少女とウルフが一緒にいる。これがおかしい。魔物使いになるにはもっと成熟していなければならないし、仮にあの子にその素養があったとしても、ウルフは人間には絶対になつかない。そこまでは賢者も理解しての行動だろう。しかし。
「ちょ」
 俺は少女の様子を確認しながら、なんとか赤髪を制止にかかる。赤髪がそれを振り切る。魔物達の周辺に、光の球がぼうぼうと出現する。少女が頭を抱えて座り込む。爆発魔法だ。発動すれば止まらない。
 俺は思考を巡らす。胸につかえた違和感が消えない。何かされる前に倒したほうがいい。それは間違いない。本当に?
 俺は即席の座標を二箇所指定した。ウルフは確かに弱い。最近は戦ってもいない。そもそも“この丘には出現しない”はずだ。
 光が収縮して、一気に散る。つんざく爆音。崖の一部が崩壊して、岩の瓦礫が落下していく。土煙の立ち込める中、全身が黒く焦げたウルフの姿があった。白い毛並みは面影もない。もちろん死んでいる。
 そして俺は、少女を腕に抱きかかえながら、少し離れた場所でそれを眺めていた。爆発の直前、俺は少女の元へ飛び、ここへ飛んだ。腕の中の少女が、ひしと俺の服を掴んでいた。とりあえず戦意はなさそうだ。
 ため息を吐き、小さな頭にぽんと手を置く。掌に固いものを感じた。
「何してんのよ」
 赤髪が風の魔法で降りてくる。それに続いて銀髪、こちらは重力魔法。
「いや……」
 しっかりと見定めてから、決めろ。俺が大好きだった近所のじーさんのセリフだ。この子が害のある存在だとして、それならばそう判明した時点で退治すればいい。うやむやのままに物事が進んでしまうのがいやだった。
 そして見定めた結果、残念ながらやはりこの子は魔物の類だということがわかった。角だ。おまけに視界の端でゆらゆらしているのは尻尾だろう。魔物どころか、ここまで綺麗な人型であるということは、かなり上位の魔獣か、下手したら悪魔か、少なくとも一介の魔物じゃない。勢いで助けてしまったがどうしたものか。いや、本気でどうしよう。
 服を掴んだ手がぎゅうとなる。肩が震えている。触れる肌の柔らかさは、人間の女性特有のそれと変わらない。おまけに甘い匂いもする。
 見た目だけは明らかな敵勢であり、しかも高位であることは間違いないのに、この振る舞いはいったいどういうことだ。
「それ、悪魔でしょう」
「……そ、そうだな」
 背中を汗が流れる。動物やおとなしい魔物を拾ってきた子供ではないが、旗色は間違いなくこちらが悪い。なんせ敵意はないにしても、そこらのスライムとはワケが違う。魔獣ですらやっかいなのに、悪魔となれば上位のチームでやっと戦えるくらいだ。俺も数えるくらいしかやりあったことはないが、もし今から戦えと言われたら眉間に大量のシワを集めることになる。
 そんな存在が無防備にお尻を見せている。賢者からすればこれほど格好の獲物はいない。
 あまり時間をかけても仕方が無い。俺はため息を吐いた。
「……逃がそう」
「は!?」
 想像通りの反応と、想像以上にイカツイ表情が返ってきた。赤髪は女をやめるつもりか。少女、もとい悪魔がこちらを見上げた。驚きと水気を含んだ大きな瞳は、澄んだ青色をしている。人間の女の子とすれば歳は十、十一くらいに見えるが、鼻筋や頬からまだあどけなさが抜けない。その歳にしてもやや童顔と言えるだろう。
「逃がす」
「にが、は? あんた、何を」
 当然のごとく赤髪が眉を吊り上げる。
「この子に害意は見られない。だから逃がす」
 ほとんど見せたことのない強い口調に、赤髪がたじろいだ。銀髪が目を丸くする。
 悪魔であれば、倒さなければならない。きっとこの子に敵対心がなくとも、賢者二人は絶対に納得しない。必ず退治するという流れになる。そうなったとき、俺は今、腕の中で震えているこの子を見殺しにできるだろうか。いや、絶対にできない。守ろうとしてしまうだろう。多少の軋轢が生じようと強い態度でこの場を制してしまったほうがいい。
 後が、恐いが。
「……」
「……」
 赤髪と睨みあう。ここで押し切るよりほかないが、元々自分のせいで波風が立つのが大嫌いな性質だ。服の内側で温度と湿度が上がっていくのを感じる。
 意外にも、沈黙を破ったのは赤髪ではなく、ややハスキーがかった幼い声だった。
「おにい、ちゃん」
 胸元で響いた声に、俺は見下ろす。
「おにいちゃん、助けてくれる、の?」
 おにいちゃん。驚くほど流暢に口にしたが、誰だ、俺か。おう、悪魔と血縁関係を結んだ覚えは無いぞ。
「なになに、おにいちゃん? なに、ああ、知り合いなの? そう呼ばせてるの? え、キモくない? 悪魔の女の子におにいちゃんとか呼ばせてるの?」
 赤髪がここぞとばかりに唾を撒き散らす。ああ醜い。顔立ちは整っているのに、表情が汚い。俺は悪魔のおでこの上にぽんと手を乗せた。小さな悪魔が片目をつぶった。
 とりあえず、知り合いではない旨を口にしてから、「修行なら、他の魔物でもできるよな?」と、申し訳なさそうな顔を作った。
「ちゃんと囮役やるからさ、この子は見逃してやってくれないか」
 腕の中の子が蠢く。不安げな顔が、赤髪の方へと振り向いた。赤髪が鼻にしわを作った。
「へー、可愛ければ悪魔でもいいのねー、ドMの上にロリコンなのねー」
「ペドフィリアというやつね、早めに死んだほうがいいわ」
 赤髪の嫌味に、銀髪が乗っかる。見逃すどうこうに触れてこないあたり、流れ的にそれはある程度仕方ないと思ってくれているのだろうか。この場面、この空気でなんとしても殺そうというのならば、かなりの悪者になってしまう。仕方がないから、俺に不満をぶつけているのかもしれない。俺は苦笑いを浮かべて、拳を握る。我慢我慢。
「だから童貞なのよ」
「童貞は関係ないだろ」
 弱った表情を崩さないまま、一応の突っ込みは入れる。
「うわ変態がしゃべった」
 赤髪が「やだあ」とわかりやすく馬鹿にした表情を作る。俺は下唇を噛んだ。我慢我慢。
「……いいかな? 逃がしてやっても」
「勝手にすればいいじゃん、きもっち悪い」
 く、聞いたからな。逃がすからな。

「ほら」
 俺は腕を解く。これでこの子は助かって、俺は暴言を吐かれるネタがまたひとつ増える。先を思うと胃が重くなる。ああ一人になりたい。はやく宿に帰って引きこもりたい。
 ぎゅう。
「うん?」
 まんまるの蒼い双眸が俺を見上げている。ううむ、こんな妹がいたらそれはそれは可愛いだろうな。いや。
「どーした」
 小さな子供に話しかけるように、俺は声色を和らげる。
「おにいちゃん、と、一緒にいたい」
「……は?」
 俺と赤髪の声が重なった。
 いま何ていった。とんでもないことを言い出したぞこの子。
「どういうこと?」
「ついていっても、いい?」
 いやいやいやいや。
「いやあ、悪魔……だろ? えっと、えー」
 すぃー、と歯の間から息を吸い込む。唐突すぎて明確な拒絶もできない。えーっと。
 そもそも意図がわからない。悪魔だろう。悪魔だよな。人間を殺すのが生きてる目的なんじゃないのか。何のために生きてるんだ。人間なんかについていってどうする。魔物使いがモンスターを従えているのを見たことはあるが、悪魔を従えるなんて前代未聞だろう。だいたい俺は魔物使いじゃないし、この子も一介のモンスターじゃない。
「だめ? おにいちゃん」
 物悲しそうな表情で、首を傾げる。服だけでなく、体の内側までもぎゅうと掴まれるような感覚。これが保護欲というやつだろうか。
「いや、だめっていうかな、その」
「……め?」
 ぐう。消え去りそうな言葉が、今にも泣き出しそうな表情でつぶやかれる。すぐに抱きしめてやりたくなるが、それをするにはあまりに刺さる視線が痛い。
 さてどうしよう。襲ってくる魔物以外は放置していたくらいだから、元々、人間と魔物の“そういうこと”の倫理に疎い。魔物は敵とか味方とか、倒す倒さないだ、魔王だなんだって、旅だけをする分にはあまり関わってこない。
 御託を並べたが、ぶっちゃけると連れて行ってやりたい。そう思う。目的が不明だが、魔物でなくとも人それぞれ事情がある。繊細な部分に突っ込むのはあまり好きじゃない。食いブチが一人増えるくらい大したことじゃない。いや、可愛いからじゃない。決してこの子が可愛いからじゃない。心が乾き切るようなこの旅に、ほんの少しの潤いを求めたりなんかしていない。していないぞ、俺は。
 自分に言い訳をしてから、女賢者二人を見やる。問題は。
「あの」
 俺がうーんと頭を掻いていると、悪魔の女の子は察したかのように手を離し、振り向いて問いかけた。その先に立っているのは賢者の二人。そう、この二人がいかんともしがたいのだ。
「お願いします。私を連れて行ってください。決して邪魔はしません」
 口にしたのは悪魔の女の子だ。「お前敬語まで使えんじゃねえか」と言いたくなるのをグッと堪えて、俺はことの次第を見守った。なんせその行動は大正解だったからだ。『逃がす逃がさない』だけならいいが、一緒に旅をするとなればとても息の長い話になる。二人の了承が不可欠だ。そして二人には下手に出ておくのが無難だ。
 この子は思ったより、頭がいいのかもしれない。
「なにあんた本気で連れて行くつもりなの?」
 赤髪は女の子には返答せず、俺へ訝しげな顔を向けてくる。俺は仕方なく見解を述べる。
「一応邪魔はしないって言ってるぞ」
「寝首をかかれるかもしれないわよ」
「そんなことしません!」
 少女が一生懸命に意思表示する。結構だが、さっきまでの様子が様子だけに丁寧な言葉遣いに違和感を感じてしまう。赤髪がチラリと視線をやり、また俺に戻した。
「信じるんだ?」
「裏切られたとしてもそのときはそのときだろう、お前らの実力があれば簡単に対処できるだろう?」
 適度にゴマもすっておく。赤髪がフンと鼻で笑った。
「簡単にほだされちゃって、本当にロリコンなんだ、気持ち悪い」
 まだ言うか。
「お願いできませんか?」
 自分の服、胸のあたりをぎゅっと掴みながら、少女は辛抱強く頼み込む。今更気付いたが、少女の姿には非常に肌色が多い。上下の黒い下着のような布地に申し訳程度の上着を羽織る姿を見ると、いっそ露出していない面積の方が少ないのではないかと思うほど大胆だ。
 赤髪はまた少しだけ少女に視線を飛ばしてから、髪を掻いてうーんと唸る。逃げ場を求めるように銀髪を見やったが、銀髪も銀髪で視線を逸らし、我関せずといった感じだ。
 なんだこいつら、なんでそんなにこの子のことを無視するんだ。
「あんた、そんなにこの子を連れて行きたいの?」
 苦し紛れ、といってもおかしくないくらい、無理やり俺に話が飛んだ。また俺だ。
「俺の意見より、この子の言ってることに答えないのか?」
「う、うるさいわね」
 赤髪があからさまにうろたえた。俺はそうかと気付く。
 こいつら、緊張することを嫌がってる。初対面には気を遣うのだ。
「だめ、でしょうか?」
 さらなる打診。赤髪は居心地悪そうに腰に手を当てる。
 俺に好き勝手言うときのように、簡単にいかない。気を遣うことが面倒なのだ。だから少女を直接相手せずに、俺をいじってくる。俺に逃げる。それなら。
「じゃあ連れてくけど、文句はあとで俺に言ってくれればいいから」
「……ふん、変態」
 罵声は浴びるが、拒絶の言葉は無い。こうすればよかったのか。
「いいってさ」
 程良い高さにある後頭部に手を置くと、女の子は振り返り、目を輝かせた。
「別にいいとは言ってないでしょ」
 喜びを分かち合おうとしたところへ、拗ねたような声が響く。
「おう?」
 俺と女の子は、合わせて赤髪の方を見る。赤髪はこちらを見ずに続ける。
「魔物なんでしょ。流石に、本当に悪魔なのか、その正体と、目的と、なんでこんなところに居たのか、そこらへんは聞いておきたいんだけど」
 もっともだ。逆にそれさえ聞ければ仲間にしてやってもいいということだろう。
「答えられるか?」
 ちょっと過保護かな、と自分でも思う問いかけに、少女は頷いた。
「私は確かに悪魔です。名前はリリです。目的は、その、ある人を探していたのですが、転移場所がズレてしまったらしくて、迷っていたんです」
「ある人? 人間?」
 赤髪が初めてまともにリリという少女へと言葉を向けた。
「はい、人間の方です」
「で、その人を殺すつもりだったの?」
 赤髪がざっくばらんな話し方をするが、一応の敬意はあるようだ。少なくとも俺に対するよりは丁寧だ。
「いえ、その人を殺そうとか、攻撃しようとか、そういうつもりはありません」
「へえ、で、それは誰?」
「それは……」
 リリが口ごもった。ここまでの誠意をあるやり取りを見る限り、どうしても言えないことなのだろう。そんなの人間にだって一つや二つ。
「ごめんなさい」
 リリが頭をたれる。赤髪は横目にその様子を伺っていた。
「……まあいいわ、敵意はないのでしょう。」
 だから俺がそう言っただろう、と口にすればまた謂れも無く変態呼ばわりされそうだ。
 問答はこれで終わりだろうか。とすればまずは街へ向かうか。この子の探し人が見つかるまでの間ではあるが、協会でチーム登録は……まあ必要ないだろう。それこそ騒ぎになってしまう。何事もなくまともに育てられた人間であれば、悪魔を見たら逃げろと、必ず幼少の頃から教えられているのだから。
「じゃあ、飛ぶぞ」

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「あなたも気をつけなさいね、こいついじられるの大好きなドMだから」
 街の外郭、人通りのほとんどない場所を指定して、俺は飛んだ。さっきは転移がどうこう言っていたけれど、瞬間移動の魔法は初体験だったらしい、リリがキョロキョロしている。
「ドMじゃないって」
 赤髪の発言を聞いたリリが、こちらを振り向いた。俺は赤髪に向かっていつものように返す。もはや作業に近い。
 ちなみにリリには俺のマントを被らせている。サイズが大きいのでローブのようになっているが、小さな角や羽根や尻尾を隠すには丁度良い。
「おにいちゃん、いじられるの好きなの?」
「真に受けちゃだめだぞ」
 俺は苦い顔を作った。
「……」
 リリがじぃと見つめてくる。なんだかいたたまれない。Mじゃないぞ。
「それで、どうするの?」
 銀髪が抑揚のない声で聞く。
「とりあえず自由行動でいいんじゃないか」
「この子には、誰か付いてた方がいいでしょ?」
 と、赤髪。
「それはそうだな、俺はちょっと買い物があるんだけど、……どうする?」
「おにいちゃんと一緒に行く」
 リリに尋ねてみれば、最初から俺に同行するつもりだったようだ。
「わかった、じゃあ俺らは先にいくな、……っと!」
 ぎゅう。賢者二人に振ろうとした腕が、リリの両腕に捕らえられた。「いひひっ」といたずらっ子のように笑って、しがみついた腕ごと俺にしなだれかかってくる。勢いで頭からかぶったマントがずれ落ちそうになる。慌てて手直しして、ぽふ、とそのまま押さえつければ「んう」と声を上げた。まるでそういう生き物みたいだ。
「大人しくしような」
「はーい!」
 見上げてくる笑顔が悪魔のくせに天使だ。そして聞き分けもいい。
「あれって……」
「ああもう完全にそういうアレよ」
 わざと聴こえる音量でヒソヒソしている二人に『仕方ないだろ』と顔で語る。ゲスだのペドだの、明日の一面だのと好き勝手言っているのが聴こえるが、今日はもうこの二人から解放されると思えば耐えられる。
「いくぞ」
「うん」
 呼びかけて、素直な返事が返ってくる。たったそれだけの至極普通なことに、俺はどうしようもなく癒されていた。


「忙しくはなった?」
「いやあ、まあちょっと面倒には」
 久しぶりに知り合いのおばさんの防具屋。便宜上はお姉さんの防具屋でもある。便宜上というのは、そう呼ばなければ品物を買えないからである。
「まあそうよねえ、一位ともなれば」
「あはは」
 俺がこの街に初めてたどり着いたころからよくしてもらってた人だ。こんなしょーもない俺を気に入ってくれている。そのせいか、ここより大きな店もあるのだが、俺は毎回こちらを利用する。
 ちなみに一位というのはチームランキングのことで、当時の俺はひとりで三位にまで上がってしまっていた。そこに実力のある賢者さんが二人も入ればどうなってしまうかは、お察しといったところだ。そのせいで街中だとやたらと視線を感じるようになった。
 「気の合う仲間〜」とか掲げているんだ。協会にはチームの力に雰囲気の良さや連携力なんかも加味して頂きたいものだ。
「魔王をついに倒せる三人組ー、とかどうとか、盛大なふれこみになってるわよ。あんたそんな甲斐性ないのにねえ」
「ほんとですよ」
 二人して笑う。この人は俺のことをよく理解してくれている。
「それで?」
「はい、えーっと、フードローブ、何かいいのありますかね。この子用のやつだから小さいのがあるといいんだけど」
 俺はとなりの頭にぽんと手をのせる。ここがあなたの手の置き場ですと言わんばかりの絶妙な位置と高さだ。
「妹さんはいなかったわよね、可愛い子ねえこんにちは」
「こんにちは!」
 ぺこっとお辞儀をすれば、おば、お姉さんがあらあらと相好を崩した。
「ちょっと事情があって、預かってる子なんです」
「あんた、例のお二人さんが入った時も同じようなこと言ってなかったかしら」
「そういう星のもとに生まれたらしいです」
 お姉さんが笑いながら立ち上がり、店の奥に消えていった。店頭に並んでいるローブには大人用のものしかないため、在庫を探しにいってくれているのだろう。戦闘用の服を買うにしても、そもそも旅に出る者はほとんど成人しているので、小さいサイズが少ないのも仕方ないところではあるが。

「フードローブ?」
 リリが見上げてくる。
「うん、とりあえず俺の小汚いマントじゃ嫌だろうしな」
 何より先に買うつもりだった。どこへ行くにもある程度の身なりでなければ人の目を引いてしょうがない。要所を隠すにしても、マントでは度々ズレ落ちそうになるので気が気じゃないのだ。何より人間としてみれば年頃の子だ。綺麗なものを着せてあげたい。
「わたしは好きだけどなあ、おにいちゃんの匂いがするし」
 すん。
「やめような」
 鼻を鳴らすリリに俺は気恥ずかしさを覚える。
「他に何か気に入るものないか、見てきたらどうだ?」
「買ってくれるの?」
 大きな瞳をぱちくりさせる。
「お前お金持ってないだろ、値段は気にしなくていいから」
「うん!」
 リリが俺の元を離れ、物色を始めた。実用的なものが多いだけにあまり凝った装飾はない。そういったものは日常衣類を扱う店で探す。そちらもこの後寄る予定なので問題は無い。
「ごめんねえ、やっぱり少なくて」
 お姉さんが戻ってくる。俺は左腕にかけられた二種類の布に目をやった。
「お嬢ちゃんは?」
「今ちょっと店の中を回ってます。……茶と、白か」
「モノはいいわよ」
 品質は疑っていない。この店にはずいぶんとお世話になってきた。
「備考は?」
「こっちの茶生地の方は、そうね、いたってオーソドックスなタイプかしら。色合い落ち着いているから人を選ばないの。誰にでも合うわ。だけど、やっぱりこの白いほうがオススメかしらね、あの子には」
 真っ白なフードローブを着るリリを想像する。想像の中のリリが純白のフードから、無邪気な笑顔を覗かせる。なるほどそれは天使に違いない。悪魔にも違いない。
「教会で祈りをかけてもらった生地だから、飾り程度だけれど効果もあるわよ」
「お、どんな?」
「退魔よ」
 あちゃあ。俺は額に手をやる。よりにもよって退魔。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
 退魔。ある意味ドンピシャな効果と言えるだろう。白は間違いなく似合うだろうと思うが、悪魔のリリがこれを着るというのは、氷の精霊が炎の鎧を着るようなものだろう。効果は薄くても、下手したら肌がただれるくらいのことはあるかもしれない。
 まあ実際にまずいかどうかはわからない。リリに聞いてみよう。
「リリー?」
 その姿が消えたほうへ声をかける。返事は無い。

 探しに歩くと、一番隅の一角で、展示されるようにかけられた真っ黒な布を眺めていた。材質は……、ぱっと見ではよくわからない。
「おにいちゃん、この子……」
 リリが悲しそうな顔をこちらに向ける。なぜそんな切なそうな表情をするのかがわからない。
「あら、お嬢ちゃんはお目が高いわねえ」
 後ろについて来ていたお姉さんが感心したような声を上げる。
「何なんですか?」
「あのー、何だったかな、東の湿地の、やだわもう物忘れが酷くて、真っ黒な鳥よ、それはもう大きな」
「湿地の……、え、デスアルバトロス!?」
「ああそうそう、そんな名前だったわね」
 俺は驚愕した。
「ウソでしょう、俺もだいぶ前に以来は受けたけど二週間探して一匹も見つけられなかったですよ」
 依頼主に済まなそうに報告した時、向こうにも「うん、まあ仕方ないよ」みたいな顔をされたのを覚えている。
「仲間意識というか、群れ意識がほんっとうに強いらしいのよ。警戒心も強いし。ほんとにたまたまはぐれていた一羽をなんとか倒したって聞いたわ。からっと晴れた真昼間だったらしいけど、断末魔が響いたあと、いきなり夜になったかと思うほど空が黒で埋め尽くされたらしいの」
「そいつの仲間が大群で飛んできたってことですか?」
「そう」
 お姉さんが得意げに人差し指を立てた。おっそろしい話だ。
「瞬間移動の陣はもう用意されてたらしいけど、帰って来たそのチームの面々が二十歳は老け込んで見えたって話よ」
 もう一度漆黒の生地に目をやる。リリが指を浅く沈ませる。反射光か、その箇所が光沢を放ち、鮮やかなエメラルドに輝く。思わず息をのむ。
「寂しそう」
 俺がやっと聴こえるくらいの声で、リリが呟いた。布地を撫でる指先は、慈しむように上から下へと滑っていく。
「お姉さん」
 俺は振り返った。
「なーに」
 俺の顔を見て確信しているのだろう、口元が笑っている。
「お願いできますか?」
「……値が張るわよ、モノがモノだし、羽根の一本一本を丁寧に細分化して、魔法で繊維状にしたものを編みこんでいるから、だいぶ手もかかってるし。私も無理いって譲ってもらったんだから」
 確かにこれだけのモノであれば、大手の防具屋や物好きのコレクターに買われてしまうのが普通だろう。逆にそこがこのお姉さんの人徳というか、顔が利くことをよく表している。
「着るものとして、材質はというか、適してる方ですか?」
「申し分ないわね。売り物だから試してはいないけれど、倒した人たちの話では炎や氷が酷く通りづらかったらしいから、ある程度の耐性もあるかもしれないわね。
「なるほど」
 俺はリリに向き直る。
「連れて行きたいか?」
「え?」
 リリがこちらを見る。
「その生地でローブを作ってもらおうかって、頼もうと思ってるんだけど」
「……ほんと!?」
 丸い双眸をさらに丸くした。ぱっと血色が良くなる。どんな反応がくるか少し心配だったけれど、これなら疑う余地はないだろう。
 俺は頷きを返してから、正式にお姉さんに依頼する。
「お姉さん、お願いします。いくらかかってもかまいません」
「さっすが第一位、羽振りがいいわねえ。私も売るなら納得のできる相手が良かったし。よし……それじゃあ店閉めるわね」
「へっ」
 お姉さんが出入り口まで歩いていったかと思うと、閉店の看板をよっこいしょと持ち上げた。
「ちょちょ、何してるんですか」
「そりゃあもう大仕事だから、今日はもう閉めちゃって作業に集中させてもらうわ。それに、割と急ぎなんでしょう、あの子」
 お姉さんが視線をやる。リリに被せてある俺のマントのことを言っているのだろう。
「いやあでも、なんか悪い気がしますが。お願いできますか」
「任せなさいって。ただ、雑な仕事は絶対にしたくないから、はやくて今日の日没後になっちゃうかもしれないけど」
「えっ、今日中に出来上がるんですか?」
 そういうコトに知識の無い自分としては、すごいことなんじゃないかと思ってしまう。お姉さんは高らかに笑う。
「私が魔縫具を何十年使ってると思ってるの。普通の仕上がりでよければ夕方前にでも出来るわよ。ただ、さっきも言ったようにあの生地に関しては本気も本気でやりたいから、細部まで完璧に仕上げて、そうね、はやくて日が沈むくらいかなってところね」
「なるほど」
 おばさんが測定具を取ってくる。リリの採寸をしてもらうのだ。それでもマントを脱がせるわけには行かないので、実は家の火事で一人生き残って、体に火傷が残っているという感じに説明した。少し怪しいかなとは思ったけど、お姉さんはそれで納得してくれた。
 お姉さんがリリの体に触れている最中はかなり緊張したが、各箇所の小さなでっぱりについては、マントの中の装飾品と捉えてもらえたのか、特に気にした様子はなかった。俺は事情を知っているが、そもそもここまで綺麗な人型の悪魔が街の中にいるなんて普通は考えもしないのだろう。
 お姉さんはリリに一つ二つ断りを入れながら採寸を進めた。その真剣な瞳に、職人魂というか、作り手特有の熱意を垣間見たようだった。


 普段着にはあまり意味が無い。結局のところ角も尻尾も隠せないと意味が無いのだ。ということで女性用の衣類を扱う店はむくれるリリをなんとかなだめて、お金を持たせてひとりで入らせた。心配ではあったが、本人に人間が着る下着を買って欲しいとせがまれたとあれば、致し方ないところだった。居心地が悪いのは勘弁だ。
 しかし悪魔でもやっぱり必要なのか。普段はどうしてるんだ。女の子はよくわからん。そんなことを考える、時間つぶし、夕暮れ時。
 やたらとなついてくるリリは、本当に妹ができたみたいだった。クソだのシネだの、そんな単語が鼓膜に溜まって膿んでしまいそうな最近だったが、リリと話しているだけで綺麗に洗浄されていくようだった。
 困るのは発育がいいことだ。童顔の割りに、胴から腰にかけては女性特有の柔らかいくびれラインが形成され、胸部の二つの膨らみは大きいとは言わずとも、同い年の人間の女の子と比べれば間違いなく主張している方だろう。そして俺のマントをかぶせているにも関わらずどうしてそんなことがわかるのかと言われれば、直に確かめたからだ。
 いや、確かめたと言うとしばらくはひとりの囚人として過ごすことになるかもしれない。リリがやたらとスキンシップを求めてくるのだ。腕や体に、その小さくも柔らかい肢体を押し付けられ、あのあどけない笑顔を向けられたら、心が落ち着かないのも仕方がない。と思う。俺だけだろうか。
「おにいちゃーん」
「お?」
「みてみて」
 待ちぼうけの俺が店の入り口に目を向けると、リリがこちらを向いて、両手でマントのすそを掴んでいた。たくし上げられた裾から、ぴっちりと閉じた眩しいふとももと、さらにその上、今しがた購入したのであろう、白くてイケナイ布が見えてしまっている。俺はサンダーバードのいかずちを回避するより俊敏に、その場を蹴った。
 ばふ。
「ひゃ」
 俺は無理やりマントを下ろさせた。
「やめようかー! やめようなー!? 誰かに見えちゃうかもしれないだろー?」
 言いながら、辺りを見渡す。視線の合う者や、明らかにそっぽを向いた者はいなかった。セーフだろうか。いやリリの行動はアウトだが。
「わかったか?」
「えへへへ、はいっ」
 リリがなぜか嬉しそうに笑いながら、手を額にビシっとあて、敬礼してみせる。聞き分けはいい。俺は短く息を吐いた。

 服屋をあとにしてから、リリが控えめな声で「お本読みたい」と言い出した。なんでも人間の造っている書が大好きなんだとか。ことジャンルも問わない雑食らしい。リリとの他愛ないやりとりで気を良くしていた俺は、二つ返事でこれに乗っかった。
 この街で一番大きな書店は、世界で一番大きな書店だ。もちろん書庫となると協会が管理しているところが最大ではあるのだが、一般の住人や旅人が書店として手軽に利用できるところであれば、ここへ来ればまず間違いはない。
「……これ」
「それ全部か」
 これまでになく目を輝かせて、立ち並ぶ本棚へとリリは突進していった。戻ってきたのはしばらくしてからのことだった。
「んしょ」
 両手に積み上げられた書物のせいで、リリの顔が見えない。よくもまあそんな細い腕で抱えられるもんだと一瞬思ったが、そういえば悪魔だった。
「……だめ、かな?」
「ん、いいぞ」
 下着を買ったときと比べて、態度がかなり大人しく見える。こんなに申し訳なさそうなのは、きっと下着は必需品で、書物がそうじゃないからだろう。俺は勝手に分析する。
 買わなきゃならないものなら、仕方が無い。そう思えばおねだりも強気にできるだろうが、実際には必要の無い余暇のものであればそうもいかないのだろう。
 つまりは、リリが良い子だということだ。大いに買ってやろう。

 お姉さんの防具屋についたときには、辺りはもう真っ暗だった。買った書物の山はそのままリリが持っていると人の目が痛いので、体裁のために俺が運んだ。リリが終始済まなそうな顔をしていたが、それはそれで可愛かったので問題ない。お金の絡まないプライベートな時間に気を遣われるなんて、いつ以来だろうか。
「こんばんはー」
 おもての閉店看板は気にしなくていいと言われていたので、堂々と入り口から入った。当然カギは開いている。
「こんばんはー」
「こんばんはーあ」
 俺が繰り返した挨拶に、リリが乗っかった。暗い店内の奥から光が漏れている。少し間を置いてから、力尽きたような声がかろうじて聞こえた。
「できてるわよー……」
「お」
 声の方へ歩いていく。暗闇ですぐには気付かなかったが、見覚えのある光沢を携えた黒衣が吊るされている。漆黒の風体は、闇の中で大きく広がっていくようにも見える。これがデスアルバトロスのローブ。
 ぼっ。
 明かりが灯る。明るくなった店内に、お姉さんが姿を現す。昼より少し髪が乱れている。どんな作り方をしたんだろう。
「もう、先渡しなんてするから」
 半分笑いながら、半分恨んでいるようにその言葉を吐いた。その手がローブを丁寧に降ろす。
「その方が間違いはないじゃないですか、いろいろ」
「そりゃあ、ありがたいと言えばそうなんだけどねえ」
 代金はすでに払ってあった。「ちょっと、先に渡されちゃったら失敗できないじゃないの」と冗談めかしていたが、実は本当にプレッシャーになっていたのかもしれない。
「はい、どうぞ」
 お姉さんがそれを手渡す。リリが少し緊張した面持ちでそれを受け取る。この生地の主に想いを馳せているのか、それとも様々な職人の手がかかった一つの作品にただならぬものを感じるのか。もしくはその両方か。
 しばらくそれを無言で眺めてから、「……着てもいい?」とこちらを見上げた。俺とお姉さんが同時にうなずいた。

「はいこれ」
 リリが着替えに奥へと姿を消してから、お姉さんが掌サイズの黒い布のようなものを渡してきた。一瞬手ぬぐいか何かかと思ったけれど、それにしては小さい。
「何ですか?」
 差し出した掌にぽふっとそれが乗せられる。しっとりとした肌触りはそれでいて、指先で少々の圧を加えただけで柔らかく沈む。何度かその感触を確かめる。それだけで時間を潰していられそうな心地よさを感じる。
「これは?」
「余った生地で作ったのよ、ちょっとした飾りみたいなものだけれどね」
 両手で広げようと試みて、それが筒状になっていることに気付く。
「手首にね」
「手首。こうですか」
 指先をすぼめて、右手首に通してみる。おっと? これはどこかで見たことがあるな。
「あなたは右利きだったかしら?」
「右ですね」
「じゃあそれでいいわ、最近ちょっと流行っているのよ」
「?」
 確かにこのごろよく見るものではある。利き腕と関係があるのだろうか。
「一応は腕の汗が手に流れて、剣や杖のグリップが悪くなるのを防ぐためなんだけど、ファッションとしての意味合いも強いわね」
「なるほど」
 二三度腕を振ってみる。確かに邪魔にはならない。ただ、こういった洒落たものに疎いせいで、若干の気恥ずかしさもないでもない。ありがたいことに変わりは無いが。
「ありがとうございます。これ、お代は」
「いいのいいの、私が作りたかっただけだから」
 手を顔の前でぶんぶんと振る。この謙虚さというか、人の良さがこの店を続けていける理由でもあるのだろう。
「私がそうしたかっただけ。兄弟生地は惹かれあうって言うしね」
「きょーだいきじ?」
「そう、動物にしろ植物にしろ魔物にしろ、その生地の元が同じ固体だとそう呼ぶのよ。俗だけれどね」
「へえ」
 初めて聞いた。この道に精通している人の間では有名なのだろうか。つまるところリリのローブと俺のコレは兄弟生地ってことになるのだろう。
「仲間の窮地に気付いて、群れの全員が助けに飛んでくるんだもの。兄弟生地でなくてもお揃いの何かを作りたくなるわよ」
「なるほど」
 げん担ぎ、のようなものなんだろう。俺はそう理解した。
「おにーちゃん」
 弾むような声に振り返った俺は、数秒の間、言葉を失った。


「ふふふふっ」
 リリがまわっている。くるくる回転しては立ち止まり、思い出したようにへばりついてくる。闇の中でリリの動きに合わせ、黒い影が追いかけるように揺らめいている。そんな夜道、帰り道、宿への道。
「気に入ったか?」
「うん! へへ」
 ぼす。
「おっと」
 リリが正面から抱きついてくる。踏ん張った俺に顔を埋めて、甘えた声を上げる。歩き辛いが、本人からの感謝の意であればそう邪険にすることもないだろう。頭のひとつでも撫でてやりたいところではあるが、大量の本を入れた袋を両手にぶら下げているのでそれは無理だ。
「嬉しい」
「そっか」
「うん」
 よく似合っている。まだ成熟しきっていない子に真っ黒もどうかとは思ったが、悪魔だと知っている先入観からかそれほど違和感はない。むしろ周りの色が暗く抑えられて、白い肌と輝く金色の髪がよく映える。愛らしい童顔がより印象的になったように思える。
「そういえば、お店のお姉さんと最後、なに話してたんだ? なんか耳打ちされてよな」
「んん? ふふ、ひみつー」
 無邪気に笑って、また夜の闇を飛びまわる。まとめられた両側の髪がぴこぴこ跳ねる。もし闇の精ジェイドが具現化したら、こんな姿なのだろうか。いや、精霊として見るにはちょっと幼くて、可愛すぎるかもしれない。威厳がない。
 街の中といえど、夜は魔物の力が強まるため、ほとんどの住人は屋内へ入る。残っているのは外壁付近の協会の人間くらいだろう。旅人の中にも、気に入った街を見つければ、専属士に申し出る者も少なくない。専属士というのは簡単に言えば用心棒だ。その街からお金をもらう代わりに、永住と護衛を約束する。「永住」の方は正直なところ建前だったりするが、「護衛」は本気でやらなければ信用と給金に関わってくる。
 まあその街が好きであれば自ずと守りたくもなるだろうが、実際はその街で恋人ができてしまったり、または魔王討伐のプレッシャーに耐えられなくなって、旅をやめる口実だったりと、理由はそれぞれだ。どちらにせよ、その街までたどり着く実力はあるのだから、そこらの魔物から街を守るにはちょうどいい訳だ。
 そんなこんなで、「フード脱いでも大丈夫かな?」と見上げてくるリリに、俺は頷きをかえした。この暗さなら遠目に見られても角のあるなしなんてわからない。あるように見えたところで、それが角だなんて誰も思わない。

「ねえねえおにいちゃん」
 くい、くい。
「うん?」
 俺の周りをぐるぐるしていたリリが、後ろからマントを引っ張った。
「私、本当に嬉しい」
「よかったな」
 頬を染めるリリを見て、俺は買ってやったことが間違いじゃなかったと再確認する。ここまで喜んでもらえれば、冥利に尽きるってものだ。
「この子達とはね、よく遊んでたんだ」
 言いながら、自分の襟元を引き上げて、顔を埋めた。
「この子って、デスアルバトロスのことか」
「うん、背中にも乗せてもらったし、一緒にお昼寝もした。優しくてね、すごく家族想いなの」
 へえ、と俺は思った。感慨のようなものとは別だった。
 人間同士でも仲の良し悪しがあるように、魔物同士でも種族によってはソリが合わないこともあるという。この魔鳥は警戒心が強くて、人前にはほとんど姿を見せない。同じ魔物だとしても、同じ種族ではないリリの前に姿を表して、その上、戯れるなんてことはそうあることなのだろうか。
 店でも言った「この子」という呼び方にしてもそうだ。どの程度のチームが事に当たったのかは知らないが、それを一匹で十分に苦戦させるほどの力を持った魔物。魔鳥。それを子ども扱いできるとなると、リリの格式は相当のものだろう。やはり悪魔か。
「……」
 リリが目を伏せる。俺は、喜びとは別に、もう一方の感情を読み取る。
「恨んでるか?」
「え?」
 リリがもう一度顔を上げる。眉に切なさが漂う。
「そいつを殺した人間を、そのチームを恨んでるか?」
「……ううん」
 リリが首を振った。
「仕方ないのかなって、そう思う。うちだって、人間が言うところの魔物だって、旅人さん達を殺してるわけなんだから」
 以外にも達観したことを言う。だけどその表情を見る限り、口ほどには納得できていないようにも見える。
「魔王城で倒れた旅人さん、勇者、賢者、盗賊、みんなむごい殺され方をするの。わざと生かされて拷問される人もいる。その逆に、魔物を捕まえて遊ぶ人間だっている。闘技場に連れて行かれて、仲間同士で殺し合いをさせられて、それで賭け事をしてる。でもそれって敵なら、仕方がないことだから。仕方がないの。ただ、寂しいなって、そう思うの」
 薄情かな? なんて最後に笑ってみせる。その姿は弱弱しい。
 仲間を作らなかった俺は、幸か不幸かその死を見ることはなかった。見るにしても別のチームだったり、名前も知らないような旅人だったりと、深い関係に合った者を魔物に殺されたことはない。でもリリは、俺とは比べ物にならないくらいその死を見てきたのかもしれない。その死ひとつひとつに絶望していたら、生きていけないほどに。
「この子が死んじゃった時にね、痛かったかなって、辛かったかなって。みんなとはぐれて、一人ぼっちで戦って。みんなのところへ戻るために一生懸命戦って、それでも負けちゃって。自分が殺されることに怒ったかな、それとも残される家族を心配したかな。寂しかっただろうなって、帰りたかった、だろうなあ、って」
 リリの声が震えた。
 相手を恨んでいるんじゃない。いや、もしかしたら恨んでいるかもしれない。ただそれ以上に、死んでしまった命を悲しんでいる。亡くした仲間を想っている。何が薄情だろうか。
「……」
 俺にそれほどの痛みは無い。魔物に食われた人間がいようと、その人に想いを馳せたことなんかない。小さい頃に近所のじーさんが死んだときくらいだ。思えばあの時から、一度も泣いた記憶が無い。
「だからね!」
 ぎゅう。
「おう」
 思い切り抱きついてきたリリに、俺は両腕を少し広げた。布越しに柔らかい肢体が密着してくる。
「だから、嬉しいの」
 頬をぴたりとつけて、リリは続ける。
「何も知らない人の手に渡っちゃうなんて、いやだったから。私が一緒に居てあげられることが嬉しい。すごく嬉しいの」
「そうか」
 魔王城なんて単語が出たことにも驚いたが、こうした様子だけなら、優しいひとりの少女にしか見えない。
「おにいちゃんはやさしいね。大好き」
 愛らしい笑顔が見上げてくる。
「いや、俺は別に、って」
「ふふふ」
 照れ隠しする間もなく、リリが体を浮かせて首に抱きついてくる。おい翼はどうした。
「おにいちゃん」
「お、おう」
 俺を呼ぶ声は今までになく穏やかだ。リリが軽く首をかしげ、目を細めた。それだけのことなのに、息が詰まる。蒼い瞳が、暗闇の中で怪しく光を発した。
「お礼」
「おれ、い?」
「うん、やさしいおにいちゃんに、お礼するね」
 光がなくなる。闇の中で、閉じた瞳が近づく。両手には本の山。対処を頭が思いつく前に、あむりと恐ろしく柔らかい感触が俺の唇を襲う。抗議するための口が塞がれ、行き場を失った熱い息が鼻から漏れる。あむ。味わうような二度目。痺れ。リリの香りが甘い。
 あむ、んむ。三度、四度と触れ方を変え、小さな唇に挟まれる。気持ちよさを押し付けられる。甘くて柔らかい。思考が感触に負ける。はむ。
「っは」
 やっと離れた唇に、口が酸素を求める。吐息のかかる距離、リリの瞳が俺を見ている。頬が上気している。声を出すより早く、リリが回した細い腕をぎゅうと引き寄せる。吸い寄せられる。ぷるぷるの唇が、また俺の唇を優しく捕らえる。はむ、はむりと咥えられる。思考を貪られる。
 あむ、ちう。
 両手が塞がっている。だから抵抗のしようがない。
 ちゅ、んむ。
 これはリリからのお礼。だから受けなければならない。
 やめさせようと思うところへ、ふつりと浮かんでは消えていく。都合よく作られた理由が、俺の動きを止める。何をしているんだ。必要な思考がリリの唇で溶けてしまう。
「んっ」
「……っ!」
 リリの幼い嬌声が鼓膜から全身へ痺れを走らせる。下半身が痛い。リリの舌が唇をにゅるりと舐め上げてきて、俺は情けなく声をあげ、口を開いてしまう。こんな年下の相手に、欲望の象徴を勃起させている自分がいる。
 空いた隙間に、リリの吐息と舌が侵入する。途方もなく甘い。甘さが蹂躙する。俺のモノが節操無く肥大していく。ダメだ。そんなのはダメだ。ダメだダメだダメだダメだ。
「……はっ、も、やめ!」
 搾り出したような拒絶を言葉にする。最後に勝ったのは羞恥心だった。
 顔を背け、本を落としてでも振り払おうとする直前、リリは腕を放してひらりと俺の横へ舞い降りた。何としてもやめさせようとした俺は、勢いを削がれてしまった。当のリリは火照った顔を隠そうとすらしないで、姿勢を正し、気をつけをする。
「えへへえ、はーい!」
 右手を額に当て、びし、と効果音が付きそうな敬礼。聞き分けはいい。いやそうではなくて。
「お、おい、リリ」
「んふふ、私からのお礼でしたー」
 まったく悪びれない様子に、ふらっとする。力が抜ける。
「おま、お礼ってこんな」
「お礼はお礼だよ? おにいちゃん喜んでくれたかな?」
 にひひと笑う。いたずらな笑顔に喜んでたまるかと言いたいところだが、股間でテントを張りながら口にする馬鹿もいない。俺は出来る限りさりげなく体の角度を変え、腰に手を当てた。納得できない、という態度を建前に、勃起を隠しているだけだ。はやく鎮まれよ。
「もー、お礼なんて本人のしたいようにするものでしょ?」
「いや、そんなことはない、んじゃないか?」
 適当に反論しようとしたが、なんとなく的を射ているようで強く否定できない。
「相手が何を望んでるかって考えることはあるかもしれないけど、その人じゃないんだからわからないんだよ。だから結局自分の納得いくことでお礼をするの。私はおにいちゃんにしてあげたい方法でお礼をするの。おにいちゃんはそれを受けてくれればいいの」
「そ、いや、そうなのか?」
「そうだよー?」
 妙に納得してしまった。いやおかしい。おかしいはずなんだ。おかしくないとおかしいのに、おかしさが見当たらない。くそう。明らかに自分より年下である相手にやり込められるのはかなり悔しい。
「……そうか」
「うん」
 まあいいさ。俺はそう自分を納得させる。
 こうして話している間にもテントが骨組みをなくしたようにしぼんいく。やっと寝静まったようだ。こっちのほうがよほど大きな問題だ。
「えへへ、かえろ、おにいちゃん」
「お」
 体を浮かせながら、リリが左腕にしがみついてくる。
「いや、本、落とすかもしれないからさ」
「いいでしょー?」
 歳の割りに豊かな双丘が、ローブの中で腕にまとわり付くように形を変える。「やれやれ」と帰宅していく血液が、「おっと?」と足を止め、にわかに股間へ流れ始める。いらんことをするな。息子を起こすな。そもそもこんな年下に反応しちゃいけない。
 無理に引き剥がすこともできず、宿に着くまでの間、魔法を構成する魔素記号で覚えているものを片っ端から頭の中で羅列することになった。

----------------
 
「遅い!」
「お、おう、悪い」

 いつものように先に寝てくれればいいのに、と口にするには、赤髪の釣り上がった眉が尋常じゃない角度だ。
 宿主に話しかける前に、フロアのテーブルに腰掛ける赤髪と銀髪の姿を見つけた。腕を組み足を組み、人差し指を小刻みに上下させている様子から嫌な雰囲気は十分に漂っていた。
「……」
 批難がましい視線をじっとりと俺に向けた後、次はそれをリリに向ける。ささっと上から下まで見やったあと、また俺を睨んでくる。
「買ってあげたの?」
 声が低い。
「うん、まあ、マントじゃうまく隠しきれないしな」
「ふーん」
 居心地が悪い。俺自信のお金で払ったわけだから文句を言われる筋合いはないが、額はかなりのものだ。無駄遣いを親に叱られる子供っていうのは、こんな感覚なのだろうか。俺は有意義だと思っているが、赤髪の目が「またそんなもの買って」と言っている様で、落ち着かない。
「そっちの、それは」
 赤髪が顎で両手の袋を示す。悪いことはしていないのにギクリとする。
「……こ、れは本だな」
「それ全部?」
「まあ、そうだ」
「買ってあげたんだ」
「そ、そうなるな、……いやまあ、俺も読みたかったし」
「ふーん」
 なんだこの雰囲気は、汗が止まらない。
「あんたさあ、あく、その子連れてる自覚あんの?」
 赤髪が悪魔といいかけて人目を気にした。自覚。リリを連れる自覚ってなんだろうか。
「自覚、っていうと……?」
「そんなの自分で考えなさいよ」
 突き放される。ガンとした態度に空気が凍る。リリと二人の暖かい雰囲気は見る影も無い。ああ、これは知ってる。俺はよく知っている。
「すー、その、一応は、周りに気付かれないようにとかさ? マントが落ちないようにー、とか、いろいろ気をつけてたつもり、なんだけど」
「そういうこと言ってんじゃないのよ」
「はい」
 俺は視線と声のトーンを落とした。
「あんた本当にわかってないのね」
「はい、えー、すいません」
「謝ればいいってもんでもないけどね」
 よく知っている。よーく知っている。これはアレだ。端的に言うのであれば一番面倒なやつだ。
「こんな時間まで外にいて、万が一その子が誰かに見つかっちゃったらどうするの。外にいる時間が長ければ長いほど、その危険性が増すのよ。それがわからないの?」
 赤髪が組んだ右腕を離し、俺に何度も人差し指を向ける。
 危険性が増す。確かにそれはそうだが、それを言うなら俺が「周りには気をつけた」と言った時に「そういうことじゃない」と返したのはどういうことだ。なんて、そんな反論は当然しない。なぜかといえば、すでに理屈じゃないからだ。
「もしものときは、わたし達にまで迷惑がかかるんだからね。それくらいで済めばの話だけど」
「はい」
 俺は反省している風を装い、返事をする。
 原因があって、それに怒れたから、直して欲しくて叱る。これが正しい流れだ。だがこういう人種の奴らは違う。怒りたいから、怒る。怒れれば内容なんかどうでもいいのだ。とりあえず相手をやり込めそうな言葉を選んでいるだけだ。怒りたいから、怒るために後付の理由を適当に付ける。「自覚」なんて適当な言葉はさぞ便利だろう。
「ほんといい加減にしてよ」
「はい」
 ちょっとは具体的にここがこう悪いって言ってみろよ。言わずに噛み締める。こっちもイライラして仕方が無いが、毎度我慢していることでもある。誰だ自由行動の間にこいつを怒らせた奴は。
「せーざ」
「え?」
「せ、い、ざ」
 俺はその単語に半分キレそうになり、半分安心した。やっと終わる。もう少し。
「いや、でも」
「はやく、せーざ」
「はい」
 まだフロワにはまばらに旅人も居る中、俺は床に膝を着ける。好奇の視線を向けられているのがわかるが、致し方ない。
「……それで、あんたナニザなの」
「……え?」
「えじゃなくて、何座か聞いてるの、あるでしょうおひつじ座とかうお座とか」
「いや、え? えっと、天秤座、です」
「ああそう。で、なにあんた正座してんの」
「はっ!?」
 俺は立ち上がり、どういうことだと両手を前に出す。赤髪と銀髪がくすくす笑っている。
「いや、だからほしの星座を聞いたのよ。なに床に正座してるの」
「え、ちょ」
 笑い声が大きくなる。俺の胃がもう少し耐えてくれることを祈る。くっだらない。何が楽しい。こんなクソほどにも面白くない冗談に付き合うのも、これで三回目だ。純粋に騙された振りをするのは、当然二回目だ。まったく変わらない流れに心の底から辟易する。少しは捻ってはどうだろうか。
「おかしいだろ!」
 虚しい気持ちを奮い立たせ、精一杯抗議する、振りをする。赤髪が声を上げて笑う。
「馬鹿じゃないの、誰がそんなこと言ったの」
「いや、だって、そう思うだろう普通!」
 馬鹿にされて悔しいなあ、ああ悔しいなあ。これで満足か。
「あはははは。……その子の件はいいよ、まあ、あんたも気をつけてたみたいだし」
 幾分か満ち足りたようで、発言がやっとまともになる。最後にフォローを入れとけば印象が良くなるとか思ってるならはやく気付いたほうがいい。
 どうせここまでして「いじってあげてる」とか考えているのだろう。俺はため息を吐き、その怒りをふて腐れた表情で隠した。
 さらに続く二三の“寛大な”言葉を、俺は耳から反対の耳へと素通りさせた。


「あんたは、どうするの、今日」
 先ほどから黙っていたリリへ、赤髪が話しかける。どうするというのは今日の宿に関してだと、リリは理解しているようだった。
「はい、私は外にいます」
「そと?」
 すぐ反応した俺に、リリが「うん」と頷いた。確かに、どうしようかなとは考えていた。俺はリリをある程度信頼してしまっているが、俺とリリが一緒の部屋というのは賢者の方々から何を言われるかわからない。かと言って賢者二人の部屋で寝てもらうには、現状を見る限り気を遣うだろうし、なにより赤髪が嫌がるだろう。寝首がどうだって言っていたくらいだ。ならもう一つ部屋を借りるか? 基本的にチームは他のチームに気を遣って一つの部屋に泊まるのが暗黙になっているこのご時勢に? 部屋数にだって限りがある。
「私は魔物に襲われる心配もありませんし、むしろ外の方が安全とも言えますから」
 確かにそうかもしれないが、しかしそのニュアンスでいくと。
「外は外でも、外壁の外まで出る気か」
 俺の問いにリリが頷いた。
「止められちゃうかな?」
 俺の顔を見ながらリリが聞いてくる。門でのことだろう。
「いやまあ、夜のうちに出る人も結構いるから、特に話しかけられたりはしないと思うけど……、ほんとに外いくのか?」
「うん」
 再度頷く。すっきりした表情に、決意のようなものが見られる。街は入ってくる者にはある程度の注意を払うが、出て行く者に興味はない。
「あらそ、じゃあね、私達は寝るから」
「お、おい」
 はい話は終わりとばかりに、少しの荷物を持って賢者二人が二階へ向かう。流石に怒りを禁じえない。外にいる時間が長いほど危険が増すっつってた奴はどいつだ。さほど心配でもないんじゃねえか。
 結局のところ、本当に怒りたかっただけなのだ。酷いもんだ。


「ごめんね、本だけ」
「わかった、ほんとに大丈夫か?」
 荷物はとりあえず俺の部屋へ運び込んだ。
 後で何と言われても、今追加でお金を払って俺の部屋に泊めてしまおうとも考えた。しかしリリは最初から外で一夜を過ごすつもりだったようだ。必要以上にこちらに迷惑をかけたくないらしい。まああまり気を遣われるのも逆効果というのは自分でも経験しているので、強くも言えない。
「それじゃ気をつけてな、ほんと」
「大丈夫だよう。おやすみなさい」
 ぺこっとお辞儀してリリが宿をあとにする。
 人間と間違われて魔物に襲われないだろうか。本、一冊も持ってかなくて良かったのだろうか。夜でも目が利いて読めるとか、そういうこともないのだろうか。それより明日、ちゃんと会えるのだろうか。
 悪魔に過保護になるのもおかしいと、頬を二度両手ではたく。見た目以上にしっかりしている子だ。大丈夫。俺は言い聞かせて、風呂へと向かった。

----------------

 夢を見ていた。懐かしい夢だった。近所のじーさんの夢だ。
「……ん」
 柔らかいベッドの上。目を開ける。予期せぬ覚醒。空気がなんだか冷たい。なぜだろう。
 白いカーテンが風にそよぎ、青白い月明かりが差し込む。静かだ。嫌いじゃない。今夜の月は丸かった。
 仰向けから、窓の方へ寝返り。布団からはみ出した足を入れなおす。なぜこんなにも部屋がひんやりしているのだろう。
 ふわ。カーテンが揺らぐ。光が揺らぐ。ああそうか、窓が開いているんだ。
 もぞ。
 あれ、窓閉めなかったっけ。
 もぞもぞ、くす。
 窓を眺める目の前に黒い影が現れ、心臓が止まりそうになる。布団の中に、俺以外の何者かがいる。
 なんだ、なに、蒼い、眼が蒼くて、あれ?
「しー…」
 小さな悪魔が、口元に指を立てた。
 
 
 
 
 
 

 書いたもの

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 プレイ内容(ネタバレ含む)


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