「それで、リハビリ?」
 
 俺は飲み干したレモネードのコップをサイドテーブルに置いた。仲良く並んだもうひとつには、冷めたホットミルクがまだ少し残っていた。ベッドの上で膝を抱えたリリは、そんな俺の様子を自分の肩越しに眺めていた。
 ようやく止んだ雨に、どす黒い雲はほとんど姿を消しているけれど、日がすでに傾きかけているのか、外の明るさはそれほど変わらなかった。二人してぼーっといている時間が長すぎたのかもしれない。代わりに強く吹き始めた風が、木や葉に必死にしがみついている雨の残党をことごとく蹴散らしていた。
「そうです、リハビリです」
 リリは言った。
 お互いに渇いた喉を潤して、部屋の空気は仕切りなおしの様子を呈している。彼女の口ぶりからしておそらくそれが本日の主題なのだろう。気だるい体を壁に預け、俺は彼女の言葉を反芻する。リハビリ。
 単語の響きだけが頭の中で空回りする。正直言っていまの俺の知能は植物が魔力で変異しただけのマンイーターとどっこいだろうが、それでも体は五体満足で、ダンスを踊れと言われれば両手両足を適当に動かして相手を数歩引かせることくらいはできる。そんな俺にリリが求めるリハビリとは、一体どのようなものなのだろうか。
「……何の?」
 たっぷりと間を取って俺は尋ねる。するとリリはまたベッドの上を片手でぽんぽんと叩いた。どうやら座れと言われているらしい。疑念を持たないではないけれど、いちいち問答するには頭が疲れていて、俺は素直にそれに従った。ベッドの脇に腰をおろす。ぼふん。
 まだまだ元気そうなリリはまっすぐにこちらを見据えて、口を開いた。
「おにいちゃんには、わたしにキスをしてもらいます」
 何いってんだこの幼女。
 あまりに率直な感想が浮かんで、失礼、少女と頭の中で訂正する。そういうことではないのはわかっているけれど、まともに考えること自体が馬鹿馬鹿しいように思えてしまうのだ。
「リリさん?」
「キスをですね、してもらいます」
 青い瞳に確固たる決意を感じる。たとえ口内炎ができていても彼女はそれを求めるに違いない。さきほどから続く敬語は読んだ本に影響されたのだろうか、俺の主治術師にでもなったつもりかもしれない。リリ先生は慈悲深く患者から金銭を要求することはないけれど、その代わりに接吻を求めてきます。どこのヤブだ。ヘビどころの騒ぎじゃない。
「キスをですね」
「わかったわかった、ちょっと待て」
 俺は彼女の前に両手を突き出した。
 リリの表情は俺に不治の呪いを告げようかというほど真摯に見えるが、その実、していることはまるで雛鳥だ。さっきあれだけ、ごにょごにょしたというのに、この欠食児童をどうしたものか。
 俺は部屋の隅を眺めながら腕を組む。
 理由がない。
 今朝から長きに渡った冷戦はすでに雪解けを迎えていて――――――雪を溶かすにはあまりに熱量が大きかった気がするが――――――平和の訪れを象徴するように鬱屈した雨も上がり、強い風の中、小鳥たちも羽を休めて家族と暖を取るのだろう。
 損害賠償はすでに終えているのだ。これ以上、俺からリリに何かを支払う必要はない。ともすれば彼女の無茶な要求に従う必要もないのだ。
 ああ、そうだ、理由がない。
 俺は組んだ腕の上にトントンと人差し指を立てる。部屋の隅から視線を上げて、今度は天井の隅を見上げる。理由を探す。何もない。そこには部屋の角しかない。あたりまえだ。
 あれやこれやと理由をつけたが、別に俺は彼女とのソレを嫌がっているわけではない。なんなら可愛いリリの頼みであるのだからやぶさかではない。非常に、やぶさかではない。やぶさかではないのだが、いかんせん理由がない。
 何度目になるかわからないが、俺はリリとキスしたいだなどと勇者らしからぬことを考えているわけではなく、あくまでやぶさかではないのだ。何なら別に、偶発的事故であれば過失もなく比較的簡単に世の中への体裁を保てる、かもしれない、なんてことも考えなくはない。しかし懸念されるリスクがあまりに大きく、かといって切れるカードはすでに持ち合わせがなく、偶然を装うにしても、「ぶつかってこい」と言われたところにぶつければ談合と思われても仕方がない。それは明らかな八百長だ。いったい俺は何を言っているのか。
 あれだけ情熱的に求められた後のこんな要求に四苦八苦している俺も俺だが、大金を手に入れた後で道端に小銭が落ちていれば、やはり拾ってしまうのもまた人間である。
「できないでしょ?」
 理由がないもんね? と続ける彼女に、俺は思わず目を剥いた。
 おかまいなしといった様子でリリはベッドの上をもそもそと移動し、俺の腕を引いた。俺はされるがままに彼女に身を任せ、ベッドの上に陣取った。
「だからリハビリをするのです。……ほらおにいちゃん、腕を広げて」
 わーいと声が聞こえてきそうなリリの様子に倣い、俺は両腕を広げた。するが早いか、リリは俺に背中を預けて膝を抱えて丸まった。あまりの早業と収まりの良さに俺は言葉を失い、まぬけなオーガのような状態で固まった。
「そのままギュってしてください。治療を開始します」
「……先生、これは必要なことなのですか?」
「最重要事項です。早急にお願いします」
 ハグを要求する小さな先生に、俺は仕方なく腕を回した。
 小さな肩。彼女の髪がほのかに香る。
「先生、これで何が治るのですか」
「大丈夫です。おに、勇者さんは私のことが好きですので、大丈夫です」
「すっ、うん? ……あの、先生」
「なんでしょう」
「俺は、先生のことを、好き、なのですか?」
「そうですよ? 当然じゃないですか」
 当然らしい。いやいやいや。
 その前提らしき条件は俺からすると人生を揺るがしかねない大事件なのだが、そんな簡単に宣言されてしまっていいものなのだろうか。
「当然、ですか」
「当然です。あ、ただ、勇者さんが思っている程には、私のことを好きではないです」
「…………? はあ。そ、そうですか」
 会話についていける気がしないので、適当に返事をしておく。
 俺は俺が思っているほど、リリのことが好きではない、らしい。
 なんだろう、なんだろうな。この「あなたは自分が思っているほどニンジンではありません」とでも言われたような気分は。そもそも俺はニンジンとしての自覚がないし、その自覚が他人の予想を上回っているとも思っていない。周りが思っている以上に自分のことをニンジンだと思っているやつがいるとしたら、恐らくそいつは集中治療所のベッドか、あるいはまな板の上で横になっているはずだ。ついでに言えばその周りのやつらも一緒に治療所へ放り込んだ方がいい。人間を多少なりとも緑黄色野菜として見ているのであればかなり問題がある。
「ですので、そのあたりも含めてリハビリを行いたいと思います。目を閉じてください」
「あ、はい」
 俺はままごとに付き合うようなつもりで目を閉じる。
 視覚的情報というものは大きい。こうして眠るわけでもなく目を閉じていると、ほんのわずかな不安が小さな泡のようにぽつぽつと沸いてくる。その正体はひどく漠然としているけれど、それでも紛れもなく俺の感情の一部だった。
「勇者さんに質問をします。はいかいいえで答えてください」
「はい」
 暗闇の中、俺はただ彼女の言葉を待つ。これは何らかの心理ゲームだろうか。リリは俺についてわかったことがあると言っていた。それに関することかもしれない。
「勇者さんは、いま、私がキスをして、と言ったらキスをしてくれますか?」
「……いいえ」
 答えるまでに少し口ごもる。が、これで怒られることは恐らくない、と思う。
「では質問を変えます。勇者さんは、私が戦い方を教えて欲しいと何度もお願いをしたら、教えてくれますか? 敵は問いません。戦闘の仕方です」
「…………は、い」
「ありがとうございます。そう答えてくれると思いました。では、キスはダメで、戦闘方法を教えるのは良し、というのはどういった理由からだと思いますか? 二つの違いは一体何だと思いますか? これは答えなくていいので、少し考えてみてください」
 普段より抑揚の少ない声はどこか大人びて聴こえる。言葉遣いもあるかもしれないけれど、それにしては意外と違和感がない。
 キスはバツ、戦闘方法はマル。
 そんなもの考えなくなって分かる、俺自身が答えたことだ。と、言いたいところではあるのだが、よくよく考えてみると明確な理由が見つからない。
 そもそも戦闘方法を教えるということに関してもあまり乗り気ではない。リリは期待通りの答えだと言ったけれど、俺の中ではかなり揺れていた。リリが戦うとなれば魔物が相手と考えるのは難しく、自ずと人間との戦いを想定することになるのだ。できればそんな事態に陥ることは避けたいけれど、もしリリと兵士が戦って兵士が勝ちそうになれば俺はリリを助けてしまうに違いない。そう考えるのであればリリ自身に戦闘能力を持たせることにそこまで億劫ではない。
 
 なら、キスをするのが億劫な理由はなんだ?
 
 それが明るみになったとき、周りに怒られるから? いや、本来は敵対関係にあるはずの悪魔に戦闘方法を教えるほうがよほど怒られることではないだろうか。
「……では別の質問をします。勇者さんは私のことが好きですが、私が愛を囁いて欲しいと言ったら、素敵な言葉をくれますか?」
「い、いいえ」
 だから、その前提はいったい何なんだ。
 どうでもいい赤の他人が俺とリリの関係をからかってくるのであれば鼻で笑い飛ばしてやるが、いま、それを口にしているのは俺の深層心理にやけに詳しいリリ本人なのだ。俺の気持ちをことごとく見破る彼女が「私のことを好き」と断言しているのだ。何なら、リリが「勇者さんは、実は心の底ではアスパラが大好きです」と言われてしまえば俺はアスパラが食べられるようになってしまう予感すらしている。
「もうひとつの質問です。私が勇者さんの使っている剣を良く見たいので、是非とも一日貸して欲しいと言ったら貸してくれますか?」
「はい」
 これはあまり悩まない。
 コイン王にもらった貴重な剣ではあるけれど、検分したいのいうのであればかまわない。もし万が一リリがどこかに持ち去ってしまったとしても他の剣で代用すればいい。戦いは武器の強さで決まるものじゃない。
「わかりました。では、愛の言葉はダメで、剣を貸すのはいい、というのはどういった違いがあると思いますか?」
「違い……」
 やはりここに戻る。
 愛の言葉が嫌なのは、勇者と悪魔という道徳的観点とはまったく関係なく、ただ単に恥ずかしいからだ。そんなこっぱずかしい真似ができるはずがない。そもそもリリが喜ぶようなセリフを用意できる自信もない。
 今持っている剣を無くしたらどうだろうか。別にこれがなくとも冒険は続けられる自信がある。それ以上にリリがいなくなってしまうことの方が悲しいけれど。
 であれば違いは何だろう。リリを喜ばせる自信はなくて、この剣がなくなっても魔物と戦える自信はある。その違いは。
 ……自信?
「違いは」とリリが口を開く。「勇者さんに、自信があるかないかです」
 不確かな足取りでたどり着いた場所に突如光が差し、俺はわずかに寒気を覚えた。
「勇者さんは人に対して、主に女性への自信がなさ過ぎるのです。逆に、戦うことには絶対的な自信を持ってます。生き物がやりたいと思っていることは、裏打ちされるような経験の有無に関わらず、何より、自信を持っていることなのです。それをしたことがなくても、根拠のない自信があればやってみたいと思えるのです。逆に、やりたくないと思ってしまうのは、自信がないことです。……目を開けてください」
 ぼやっとした視界、俺は腕を離す。目の前で、俺の良く知る少女が腰を捻るようにしてこちらを見上げていた。自慢げに胸を張る様子に、俺はひっそりと息を吐いた。
「……リリ?」
「うん? なあに、おにいちゃん」
 彼女の名前を呼ぶ。
 冗談でも、いまこの瞬間は「先生」だなんて呼び方はしたくなかった。明確な理由があったわけではないし、根拠があるわけでもないけれど、ただなんとなく、なんとなく彼女を先生と呼んでしまったら、目の前のリリが俺の知らない何者かに姿を変えてしまいそうな気がしたのだ。
 リリは不思議そうに俺を見上げ、しばらくしてからまた口を開いた。
「……続けても大丈夫?」
「ん、あ、ああ、うん」
「わかった。じゃあ、ほら、おにいちゃん」
「あい」
 前へ向き直った彼女を確認して、俺は目を閉じる。
 さきほどまでと同じ、静かな部屋。彼女の言葉を待つ。柔らかい腰がぐにぐにと動いて、次第にその動きがせわしなくなってくる。やけに落ち着きのない動きに、なぜか彼女の頭がぽんぽんと胸のあたりにぶつかって。
「おにいちゃん?」
「え?」
 呼ばれて、俺は思わず目を開けた。リリの頬が少しだけ膨らんでいるのが見えた。
「ぎゅ」
「……ぎゅ?」
「ぎゅ」
「……ああ」
 俺は慌てて彼女の肩に腕を回す。出どころのわからない小さな不安に俺がさっきより強く抱き寄せると、大きな猫はふすーと満足そうに息を吐いた。目を閉じる。
 
「それじゃあ、リハビリを始めます」
 
 まだ始まってなかったのか、と声に出しそうになって、俺は口をつぐんだ。なぜだろうか、今は彼女の言葉を聴くことがなによりも自然なことであるように感じる。それは俺自身のことを彼女に言い当てられたからか、それともその先を聞いてみたくなったからか。いずれにしろ、いまはあまり無粋なことをしないほうがいいのだろう、というのが第一感だった。
「勇者さんは」と、リリは語りだす。「異性に対する自信がありません。しかし人間は、小さいころには――――それこそ赤ん坊から物心がつく頃までは、あらゆることに根拠のない自信を持っています。勇者さんの小さい頃に何があったかはわかりませんが、これは勇者さんも同じことです。勇者さんも自信たっぷりでハイハイをして、見つけたものを口にいれていた時期があったはずです。何があるかわからない場所へ駆けて行ったり、知らない人にぶつかっても平気な顔をしていたり、無自覚に無鉄砲に、でも自信を持って生きていた幼少期があるはずです。これは歳をとった今でも同じです。女性と当たり前のように接し、口説き、愛し合える男性というのは、女性に対してあまり不安を抱いていないのです。小さい子も同じ、不安を抱かない、自信を持っている人に共通すること、それは他人の目が気にならないということです」
 そこで一度言葉を区切ると、リリは腕の中で大きく息を吸った。
「いまから勇者さんには、そんな、『他人の目が気にならない幼少期のような感覚』を思い出してもらいます。今日すぐに出来るとは思ってないので、じっくり頑張りましょう」
 すっきりと言い終えたリリが身を捩る。合わせて回した腕から力を抜くと、彼女は向き合うようにして俺の背中に手を回した。抱き合うような格好になる。
「えへ、わかった? おにいちゃん」
 リリが語調を戻すと空気が一気に緩む。どこか褒められるのを待っているような声色に、俺は片目ずつ順に開けて目の前の彼女を見る。むんとした満足げな表情に気が抜けて、俺は苦笑しながら口を開く。
「わかった」
「ほんと? それじゃあ」
「わかった、わかったけど、ちょっと待て、ちょっと待とう。いや、俺もさ、聞こうか聞くまいか迷ったんだけど、この際だから聞いてしまうことにしようかと思ってさ」
「なあに?」
「誰?」
 言った瞬間に、グッという何かを堪えたような音がリリの喉で鳴り、彼女は口を結んで顔を逸らした。
 果たして、決着はついた。胸の中の微妙な位置でふわふわと浮かんでいたものが、ストンと落ちて定位置にはまった。言葉による説明はもはや必要なかった。
 おすましな表情を作り上げたリリが、もう一度俺に向き直った。それを見て、俺も軽く歯を食いしばる。すでに問答は終えたようなものだけれど、どうやら“ヤル気”らしい。
 リリが静かに口を開く。
「……なにが?」
「誰」
 俺はすかさず追い討ちをかける。彼女の口元が波打つ。答えがすぐ返ってこないあたりがなんとも、なんとも愛おしい。
「……誰って?」と彼女は俺に尋ねる。
「だから、誰よ、いまの」と俺は再び問いただす。
「先生」
「何の」
「何の? ……先生だよ」
「だから、何の先生だ」
「先生は先生だよ、おにいちゃんの、先生」
「俺の先生?」
「そう、おにいちゃんの先生」
「俺の何の先生だ」
「なんか、こう、先生」
 リリは目の前で、両手を動かして必死にジェスチャーをする。しかしその動きで作られる有象無象は明らかに現実に存在しているモノには見えず、俺は必死で耐える。
「だからなに、なんだその、その先生は何だ一体」
「だからあ、先生だよ」
「正体が掴めない」
「んっ」
 リリが顔を伏せる。
 くそう、寸前で踏みとどまりやがった。
「だ、だからあ、先生なんだってば」
「先生なの?」
「そう、先生」
「あー、うん、まあそう、いいよじゃあ、先生な。でもさ、先生にもいろいろいるからさ。武術とか剣術の先生だったり、魔法の先生だったり、調合の先生だったり。さっきのは、何の先生なの」
「……さっきのはだから、なんか、そういう、そういうなんか、ひと」
「んふ」
「ふふっ」
 俺は思わず下を向き、彼女も顔を赤くして片手で口元を覆った。
 本題そっちのけで突如として始まった第一回にらめっこ大会は、俺の敗北という形で幕を閉じた。
 
 
 彼女の作り上げた雑すぎる先生像はひとまず置くとして、リハビリとやらに取り掛かる。
 あれだけ流暢に人間のことを語ってみせる彼女が、果たして魔王城ではどういった立場にあるのか、あるいは悪魔としてどのような生い立ちをしているのか。そういったことを俺から聞いてしまえば、恐らくリリは全て話してくれるだろう。自分がサキュバスであることを標的である俺に教えてしまうような彼女だ。だからこそ、深く問いただす気にはならなかった。まるで長年連れ添った仲間に、お前は俺の仲間か、と聞くような、なんともいえない無粋さをそこに感じてしまうのだ。
 ましてや彼女は、俺が「誰」と訊ねたとき、笑いを堪えたのだ。顔を青くするでもなく、真顔になるでもなく、ただ笑いを堪えていたのだ。ならもう、それでいいじゃないかと、俺は思うわけだ。
「いい?」
「うん」
 深呼吸をしたあとで、短いやり取りを交わす。
 目を閉じた暗闇の中はそれでも彼女の体温が温かく、緊張と安堵の間で俺はじっと言葉を待つ。窓の外の風は相変わらずだけれど、一通り雨粒の掃除が済んだのか、葉と葉の擦れる音はいくらか乾いて聞こえる。遠くに、階段を上る足音がわずかに聴こえた。まだ夕方ではあるけれど、早めに宿を押さえておくのは上策だ。
 タイミングを計るかのように沈黙が続く。リリの幼い息遣いが耳に心地いい。こうして彼女と抱き合っている様子は、傍から見たらどう映るだろうか。
 
「わたしに、キスをして、おにいちゃん」
 
 ふいに、空気に放たれる。
 再三再四と繰り返されたその願いは、俺の耳には要求というより何か別の記号のように聴こえた。
「できそうになったら、目を開けていいよ」
 わずかに閉じた目蓋に力を込める。いざ、と問題に取り掛かろうとして。
 取り掛かろうとして。
 そして俺は、すぐさま、途方に暮れた。
 何を思えばいいかもわからなかった。どう考えれば改善するのかがわからなかった。彼女の真摯な思いに応えたいとは思うけれど、それは、俺が、彼女に、自発的にキスをしたくならなければならないということだ。
 真っ暗な世界で右も左もわからない。道具すらない。目的地は知らされど、向かい方がわからない。学び方も知らない。何も、何一つ、示されていない。
 今、俺は、どう思わなければいけないのだろうか。どう感じて、どう思考するのが回復へ向かう方向なのだろうか。こんなことで、彼女に呆れられるのではないだろうか。
「難しく考えなくていいよ。おにいちゃんはただ、真剣に、わたしにキスをしようとすればいいだけ。ただそれだけだよ」
 キスをすれば合格。ただそれだけの、簡単なこと。
 本当に?
 恐らく、違う。
 ただ、目を開けて、彼女の唇を見据えて、そこに合わせる。ただそれだけのことをしろと言われれば、確かにそれは、きっと、できる。先ほどだって一度はしたことだ。
 でも、そうじゃない。きっと、彼女の言っていることは違う。言葉の裏は。理由がなければ何もできない俺が、理由がなくてもソレをできるようにならなければいけない。このリハビリをどうしても成功させなければいけないというのを理由に、キスしてしまうことは、おそらく、できる。できるけれど、おそらく、そう、では、ない。
 もう何秒たった。あとどれくらい待っていてくれる。俺はこんなことを、いつまでも悩んでいていいのだろうか。
 
 とん、とん。
 
 胸の辺りをそっと叩かれる。
「落ち着いておにいちゃん。大丈夫。わかってるから。おにいちゃんには、雑音が多すぎるんだよ」
 声が胸に染みる。暗くて何もない世界に彼女が入ってくる。
「今日だけじゃないから。これから、できれば毎日、ちょっとずつリハビリしていくんだよ。人の顔色を見て、正解を出し続けなきゃいけないような、そんな時期が、おにいちゃんにはあったのかもしれない。でもいいよ。いいの。いまは失敗してもいい。結果的に、何もできなくてもいい。いまは挑戦だけ、してみて欲しいの」
 胸に触れた手がそっと離される。遠い記憶のほんの一瞬、自分の手を包み込んでしまうほどの大きな手が、その温もりが、優しく、けれど静かに消えていくその寂しさが、すっと体の隙間を通り抜けていくのを感じた。
 なくなってしまった空気を、代わりに取り込む。部屋の匂いが俺を今に帰してくれる。
 出来なくてもいいキスに挑戦する。
 出来なくていいのであれば、しなくてもいい。しなかった挑戦は、果たして挑戦と呼ぶのだろうか。どこまでいけば、俺はそれに挑戦したことになるのだろう。
 きっと、俺の認識の問題だ。
 彼女に回した腕にわずかに力を込める。リリの体が俺に広がる。背中を、丸め、ようとする。
 やけに鋭さを増す聴覚が、音を探し回る。鋭敏になる触覚が、空気中に舞うほこりが肌に付着する瞬間を感じ取ろうとする。俺の全身が、俺を止める理由を探し回っている。
「当ててあげよっか?」
 小さなささやきに、俺はびくりとした。
「さっき、少し前だけど、階段の方で音がしたよね。みんなが宿に戻ってくる時間なら、そろそろあの人たちも帰ってきそうだね。あの人たちじゃなくても、もし扉が開いて、今の私達を見られたら、一体どんなふうに思われちゃうのかな」
 生唾を飲み込む。やけに覚えのある思考の流れに俺は絶句する。
「それが、『他人の目』。おにいちゃんが、わたしにちゅーしてくれない理由。おにいちゃんに自信がないからそうなっちゃうの。でもね、予定通りだから、いいの。他人の目が気になるなら、他人の目がどこにもない世界に行けばいいんだから」
 おにいちゃん、本番だよ。想像して。
 まるで頭の中に直接響くような声だった。耳元で語りかけられているのとも違う、俺の中に彼女がいるかのような感覚は、それでも目の前にいるリリの声に違いなく、しかしただその一説だけが木霊のように波紋を広げ、消えていった。
「見渡す限りの草原。お日様が高くて、風も気持ちいい。家がぽつんとひとつ。わたしとおにいちゃんの家。二人だけの家。家を出て草原をしばらく歩くだけで元の家にもどってきちゃうような、すごーく小さな世界。でも、他の動物もいて、おにいちゃんは畑仕事なんかしてて、のんびり暮らしてるの。……違うよ、おにいちゃん。『頑張ってイメージしなきゃ』って言葉を考えすぎ。想像、想像するの」
 俺は彼女の注意に思わず呻き声をあげた。
「『考えてる自分を考えちゃう』のがおにいちゃんの一番大きな雑音だね。いいところでもあるよ。でもいまは想像に身を任せて欲しいな。大丈夫、何回も繰り返して、そのうちおにいちゃんが疲れて、スッと入れるようになるまで見ててあげるから。信じてとは言わないけど、できれば力を抜いててね」
 リリはまるで大好きな故郷を語るように想像の世界を描写していく。何度も繰り返す。
 しんとかすれる声は耳に心地よく、次第に彼女の可愛らしい声に意識が揺れていく。声ではなく、言葉を聴かなければならないけれど、おそらく俺は“そう”なのだろう。これが俺で、こんな時にまで自分のことを考えているのも俺で、それが、俺なのだろう。今日は失敗でもいい。明日も失敗でもいい。
 思いついてしまうことを遮らない。頭に浮かぶ言葉を拒絶しない。それが俺。俺自身。それでいい。きっと彼女は俺を見てくれている。任せればいい。任せれば、それでいい。
「……だけの世界。二人しかいない世界。わたしと、おにいちゃんと、動物達だけ。他に誰もいない。あるのは草原と、二人だけの家」
 情景が浮かんでは、文字に消されていく。景色が見えては、言葉に埋まっていく。繰り返す。繰り返す。失敗でいいのだ。今日は、俺は。
 べつに。
「二人きりなの。ずっと、ずっと二人だけ。……、その世界で、こうして抱き合ってるの、仲良く抱き合ってるの。誰も見ていない、二人しかいない。それだけの世界で。わたしはおにいちゃんを見上げるの」
 俺を見上げるリリが浮かぶ。うっとりとした瞳。風に揺れる髪に触れたくなる。
「おにいちゃんを見上げて、それでね、いうの」
 
 ちゅー、して欲しい。
 
 ぞわりと体が浮いた。
 思わず目を見開いた。彼女は想像通りの表情でそこにいた。俺を見上げていた。
 動機が激しかった。酷くのどが渇いた。
 キスは、できない。それはもちろん、出来ないのだけれど。
「ほら、ちょっとだけ、思い出したでしょ?」
 にっと笑う彼女に、俺は笑顔を返せない。
 キスをしたくなったわけじゃない。いや、したくはなったのだ。それは、別に、きっと、今に始まったことじゃない。そこじゃない。
 それとは別に、ふつっと沸いた感情が。それがあまりにも。

『別に、してもいいじゃないか』
 
 あまりにも、雑で。
 あまりにも甘えていて、酷く短絡的で。
 そして同時に、この感情が、この言葉が、正体なのだと気付いてしまった。いや、気付いたわけじゃない、それは圧倒的なほどの予感だった。
 これが俺にとっての、自信の正体だ。
「どう? 他人の目が気になるおにいちゃんに、他人がいない世界を想像してもらったんだけど……」
 ある。覚えがある。
 この感情は、言葉にする前から、きっと俺はなんらかの場面で、これを抱いたことがある。それが普段の生活かあるいは幼少期かわからないけれど、いつか、確かに、それは、あった。
 ある。あった。俺はこれを経験している。
 酷く楽観的で、ソレを舐めていて、だからこそ実行して、すぐに痛い目を見るような子供。
「えへへ、一日目で成功しちゃったね」
「え? いや、……ええ?」
 俺はリリから腕を離して額を押さえる。こんな身勝手の塊のような感情が、まさか自分の奥底に沈んでいるとは思っていなかった。
 いや、それこそ彼女が言うように、こと戦闘に関しては常日頃から思っていたのかもしれない。それがただ、女性に対しては繋がらなかったというか、生まれなかった感情なのだろう。
「毎日だからね?」
「ふえ?」
 気の抜けた喉から、気の抜けた声が飛び出した。リリが可笑しそうに笑う。
「リハビリだから、これからもしばらくは続けてもらいます!」
「あ、ああ」
 勢いに押されるようにして俺は了承する。未だ混乱が抜けきらない。
「わかりましたかー?」
「わかった、わかったけど。……誰だっけ」
「先生です」
「そっか」
 それぞれが、噴き出して笑う。リリが楽しそうに、俺は気が抜けたように。
 一気に緊張の抜けた部屋で、断続的にこみ上げる笑いを押しとどめる元気もなく、漏れるように笑い、そんな俺を見たリリがまた肩を震わせた。
 
 きっと快方に向かうのだろう、俺は。
 女性に対して自信を持てないことがどんな不利益を生むのかも俺は知らないけれど。彼女がリハビリを必要と捉えているのであれば、きっとそうなのだろう。
 やんわりと部屋が暖かく感じるのは自らの体温か、それとも気分的なものだろうか。朝からずいぶんと気疲れしそうなことが続いたように思えるけれど、ぐだっとした疲労には小さな達成感も入り混じっている。リリの笑顔も相まって、なかなかどうして、悪くない。
「はぁ、ところで、これって目的は何なんだ?」と俺は試しに聞いてみる。
「んふふ、秘密」
 いたずらに笑ったリリは、あー、楽しみだなあと続けた。俺は、さようで、と返す。とくに言及する気はない。俺が女性への自信を回復するのか、あるいはそれに順ずる何かか。暗示や洗脳、もしくは催眠なんかも可能性としてないわけではないが、それらが頭にありながら彼女に身を任せているのだからすでに手遅れなのだろう。彼女の望む何かへ、俺は向かっている。
 大した不安もない。先生はおそらく敏腕だ。
 
「そうだ! 成功のご褒美あげなきゃ!」
 
 突然リリがこちらを見上げた。キラキラした瞳のおくに、わずかな茶目っ気が見て取れて、俺はうっと息を呑んだ。
 にぃ、と笑って。彼女は俺に回していた両手を離し、きゅっと丸め、胸元に寄せた。
 ひどく、いやな予感がした。
「おにいちゃんって……、実はわたしが猫のまねするの、好きでしょ?」
「ちょっと待て」
 訂正。
 本日の彼女は手達れの精神治療師などではない。
 非常に甘えん坊で、そのくせ、いやに魅力的な、愛玩動物である。
 
 
 
 

 書いたもの

(18歳未満の方は閲覧できません)

 プレイ内容(ネタバレ含む)


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