調子が上がらない。
「次にミスしたら、ほんとに殺すわよ?」
「悪い。気をつける」
俺は赤髪の顔も見ずに答えた。
どうにもモンスターの注意引きが雑になっている。力を込めすぎれば半殺しにしてしまい、それではうちのお偉い賢者様たちの経験値が減ってしまう。かといって攻撃が弱すぎればあくびが出そうなほど長い詠唱をしている彼女たちの方へモンスターが向かってしまう可能性もある。
その微妙なさじ加減が、今日はなんだかうまくいかない。
ぐばあ。
通算何体目かもわからないボストロルが礼儀の良い挨拶をした。あとは唾を飛ばさなくなればどこに出しても恥ずかしくない紳士といえるだろう。
がこぉん。
横なぎの一振りを強化した腕力と剣で受けきる。みしりと体が鳴った。
何のためになるのだろうか、なんて。今日は朝からそんなことばかりが頭を過ぎる。この狩りは彼女たちのためになっているのだろうか。そして、俺のためになっているのだろうか。
はっは、今更なにを言っているのか。
剣をコントロールし、その筋肉の塊のような顔面に致命傷にならない程度の傷を付ける。汚い体液と一緒に豪快な咆哮が響き渡る。こんなことで怒ったら紳士失格だと思う。と思ったけれど、冷静になってみれば殺されかけているのだからその怒りも当然である。悪い。
小さなリリ先生の授業が、昨日で終わってしまった。
もう大丈夫だね。そう口にしたリリは、朗らかに笑って先に眠ってしまった。それが俺のこの不調と直接的な関係があるかどうかと聞かれれば、まあ、状況証拠的には関係があるとしか言えないのだろう。
ここ十数日は日課みたいになっていた彼女の暗示のようなものと、そしてソレに伴う"行為"は毎晩繰り返されていた。行為と言ってももちろん、男性と女性のアレなソレをしてしまったという訳ではないけれど、その一歩手前というか、一般的な恋人たちが日常的にするような、薄い皮膚をくっつけ合う通称キスという行為を俺は毎晩のように悪魔と行っていたわけである。
それを昨日になって突然しなくなって。
それで今朝から不調だとか。
なんなのだろうか。リリは麻薬か何かなのだろうか。依存性のあるブツなのだろうか。最初からこれが狙いだったのだろうか。俺を、リリがいなければまともに暮らせないような体にして飼い殺すつもりなのだろうか。だとしたらモンスターとの戦いが少し面倒になっている程度では大した依存症にもなっていないように思える。
もっとこう、なんだ。
ぐっちょぐちょのねっちょねちょにされて、呼吸をするたびにリリの香りが必要になって、彼女が留守の時には身につけていた衣服を代わりに渡されて、帰ってきたらまた十二分に愛されて、愛されつくして、彼女なしではベッドから起き上がれないくらいにされているならまだしも、これではまだまだ序の口というか、薄味というか、そんなことを想像している俺もそれはそれですでに病気なのかもしれないと思わないでもない。
はたと我に返り、目標を変えそうになるボストロルをついでばかりに攻撃しておく。
ずいぶんと、欲しがりになった気がする。
といっても欲しいのはリリだけなのだけれど、もし俺に勇者という肩書きがなければ今夜にでものしかかってしまいそうな気がする。だって彼女はそれを受け入れてくれるのだから。彼女は俺のことが好きなのだから。
だったらキスしてもいいんじゃないかと思ってしまうのを、おかしいと、思わなくなった。というところだろうか。
だって気持ちがいいんだ。彼女とのキスは。愛を感じるんだ。俺を認めてくれるんだ。もし俺から何も言わずにキスなんてしてしまったら、それで彼女が笑ったりしたら、そうしたら、彼女の服は下着とローブだけで、その下には決め細やかな肌があるだけな訳で。おっぱいもなんだか、それなりに良い大きさだし。おしりとか、脚とか。あんなに小柄なくせに肉付きがいい身体だとか。ねえ。
ねえ、ってなんだ。知らんわ。
「ち、ちょっと、あんた!!」
「お、あ」
気付けば紳士が地面に伏せている。
片足がない。奴隷の子供を救うために馬車の前に飛び出して脚を犠牲にしたのだろうか。最近のボストロルは人情に厚いらしい。
俺が剣を軽く振ると、その体液がびしゃりと地面に跳ねた。
どうやら俺がやったことのようだ。あちゃあ。
「何考えてんの!? やりすぎでしょう!?」
「……動けないならいいんじゃないか」
「はあ? あんた誰に向かって口聞いてんの?」
「このまま殺してやってくれ。次は気をつける」
「……っ! ……あのさぁ?」
赤髪に胸倉をつかまれて、俺は四肢から力を抜いた。
別に言い訳をするつもりもない。
「次に! ミスしたらって言ったよねえ!?」
「うん」
「う、ん、じゃ、ないんだけどぉ!?」
「次は気をつけ――――」
言い終える前に、土の匂いが鼻に広がった。
俺は突き飛ばされたのだと遅れて気が付き、口にはいった大陸の一部をペッと大陸に返した。全てモノは土に還る
「あんたさ、なんなの、さいきん」
「ん? ん、つ」
捕まれた髪が数本抜けた音がした。
太陽の逆光のなか、赤髪の歪んだ顔が俺を見下ろしている。魔王の城にいけば銅像が作られるくらい美しいのだろうな。人間の街にはいらないけれど。
「馬鹿みたいな声だして、ナメてんの? ねえ」
「――――――っ!」
「え、やっ!?」
世にも珍しい銀髪の大声が聴こえたのと同時に、赤髪の影が太陽に吸い込まれていった。
違う。浮いたのだ。
もう瀕死のボストロルが片足で立ち、赤髪の体を掴み上げていた。
たぶん俺が助けるんだろうな、なんてことを、冷え切った頭がなにより先に理解した。銀髪が引きつった顔で魔法の詠唱に掛かっているけれど、聞きなれた詠唱からしてその魔法はどう考えても赤髪も巻き込むだろうと思う。
「あが、は、あ」
圧力を上げていくその隆々とした指の中で、赤髪の体が今にも潰れそうになっている。
銀髪は詠唱を止めていた。巻き込むことに気付くのも遅いし、対処も何もわかっていない。真空魔法で腕を狙って切り落とすか、最悪、腱でも切れればボストロルは赤髪を落とすだろう。あるいは弱化系の魔法をまず発動させておけば多少の時間は稼げる。
これだけ実力の出る場面でまごついている。お前らのいままでの修行とやらは一体なんだったんだ。そんなことで何が出来るんだ。この先。
「あっ……、が……」
いよいよもって酸素の足らなそうな声が聴こえる。
その恐怖に引きつった瞳が俺を見ている。この一瞬くらい、助けて、と、そう願ったりするのだろうか。
というか、俺が、これを、助けるのか。へえ。
俺が、こいつを。
そうですか。
どべん。
地面に鈍い音を立てるトロルの頭。
やけに身体強化の"乗り"が悪い。けれど頭を落とすには十分だったようだ。
どさ、と地面に伏した赤髪を見て、トロルの脳と腕がしっかり繋がっていることを知る。せっかく腕ではなく先に頭を狙ったというのに、その程度ですぐに離してしまうとは情けない。魔物としての気概はないのだろうか。
片足に次いで頭を失くした巨体がぐらあと傾き、地響きを立てた。
地面に俯いた赤髪は自らの体を抱きしめるようにして呻き声を上げ、俺は剣の血を払い、銀髪はこちらへと走り寄ってくる。銀髪はすぐに癒しの呪文を唱え、二、三声を掛けたあとでこちらにも目を向けた。いつもは涼しげな表情が酷く歪んでいる。
ぱん。と、頬が弾け、景色が横へ飛んだ。耳がキンと鳴く。
なんでもビンタは人類最速の攻撃手段だとかなんとか。
避けれなかったわけではなかった。避ける気が起きなかった。頬にひりつくようなジンジンとした痛みに、俺は僅かに、けれど確かに、救われたように感じた。
はっは。変態かおのれは。
俺を叩いた銀髪はもう一度赤髪に寄り添い、重力の魔法で飛び去った。二人のいなくなった地面には薄黒い染みが残っていた。血ではなかった。
無理もない。
これだけ戦場で甘やかされてきたんだ。本当に命の危機を感じたのは初めてなのかもしれない。だったら無理もない。
無理もないなあ。ああ。
ああ。
剣を、放り投げようする、のを抑える腕が、震えた。
ぽつんと伏したトロルから視線を揺らす。地面を見る。ただどこかの地面を見る。
体中の血液が喉へと逆流してくるような気分だった。
* * *
「おかえりなさい。お風呂入ってきたの?」
今日も降ろしたままの綺麗な金色の髪を見て、俺は部屋の入り口で足を止めた。
さっぱりしたのは、体だけか。そうか。
「ふふ、おかえりなさーい」
リリの笑顔が咲く。俺は奥歯を噛み締める。
何も言わない俺は、やはり、何も言えない。
今すぐ部屋を出るべきだと思った。それが正解なことぐらい俺にだってわかる。風呂に入っても変わらない。リリの笑顔を見ても変わらない。それなら、いますぐ冷たい川にでも潜って、溺死しない程度に息を止めていたほうが何倍もマシなのだろう。それが正解だ。少なくとも間違いは犯さない。
はは。だったらなんだ。
間違うことの、何が悪い。
「うん?」
小首を傾げるリリ、を見ていられなくて、俺は床に目を向ける。
なぜ、こんな所にいやがるのだろう。このちびっ子は。なぜ当たり前みたいな顔をして笑うのだろう。何が分かる。何を知ってる。お前は俺の何だって言うんだ。
そもそもだ。サキュバスが俺に何の用だ。何のつもりだ。俺に何をした。なあ、リリ。お前はいったい俺に何をした。
ふう。ふう。
大きく吐いた息は、けれど感情を吐ききることも出来ずに、荒さに変わる。
「どうしたのー?」
彼女の声に反応したのは手の指先だった。
丸まって、硬くなって、拳になろうとしているのがわかった。
何が、どうしたの、だ。
ふざけやがって。
俺はそんなに滑稽か? 面白いか? 見てて。
「大丈夫?」
「あ?」
変わらぬ微笑みに、景色が歪んでいく。
「何かあったの?」
「黙れよ」
煮えたぎる脳みそが、そのまま口からが流れ出したようだった。
ぱたん。リリが本を閉じて脇に置く。両手を膝の上に戻し、まっすぐこっちを見て。
笑う。まだ笑う。その顔に。
俺は、言いたくもないことが、言いたくてたまらない。
「出てけよ」
「……、やーだ」
「出て行けよ。なんだそれ、なんだ? 真面目に話を聞きますって? 好きに読んでろよ。本全部担いでどっか行けよ。なんなんだお前」
「やだ、行かない」
「は?」
「おにいちゃんが、傷つくから」
破くほどのつもりで掴んだローブは、けれど触り心地に反してやけに頑丈で、びくともしない。胸倉を捕まれたリリが苦しげに顔を歪める。
肺が熱い。まつげが燃えそうに。
「大丈夫、だよ」
俺は彼女をベッドに叩きつける。馬乗りのまま、そのアゴを押さえつける。
もう喋るな。口を開いてくれるな。
「あい、じょーぶ」
「黙れ!!」
早く怖がれ。
俺を嫌がれ。
心底軽蔑したと。なぜ突然こんなことをするんだと。なあ。言ってみろ。
言え。言え。いえ。
「ハァ……、ハァ……」
同じだろ。もう。
俺は、やり返した。反撃したんだ。
赤髪が死ぬところだった。死んでもいいと思った。少しでも長く苦しめばいいと思った。アレを助けられるのは俺だけで、それを俺は、わざと渋った。
なあ、同じだろう。リリ。
俺はやり返したんだ。争いだ。俺はあんな奴らと同レベルだってことだ。あんな、人の気持ちをまったく考えずに、傲慢と、勘違いと、侮蔑を撒き散らすような奴らと。
俺は。同じなんだろ?
同じ程度のイキモノなんだろ?
赤髪と、銀髪と――――。
――――まだ小さかった俺を、好き勝手に扱っていた、あの糞みたいな親族の家と。
俺は。
同じ。
「らい、ひょーぶ」
「……っ!」
小さなアゴを押さえつける手を、彼女の小さな手が撫でていった。
慈愛に満ちた触れ方に、俺は慌ててそれを振り払った。
火傷を負ったかのような気分だった。手の甲に鳥肌が立っている。優しくて、穏やかで、酷く気持ちの悪い感触だった。頭に上った血がざあと降りて、急な眩暈がした。
白いシーツに広がる金色の髪。黒いローブの胸元が大きく上下している。
真っ直ぐ見つめるその青い瞳に、俺は転げるようにベッドを降りた。
壁にぶつけた背中が汗に粘つく。リリが座りなおすように身を起こした。青い瞳が俺を見る。遮蔽物も、距離もない。逃げられない。
ああ。
嫌いだと。
言ってくれ。
早く。はやく、はやくはやく。
「だいじょうぶ?」
やめてくれ。
望みなんて。欠片すら。いらない。
絶望させてくれ。
「何かあったの? 聞くよ? おにいちゃん」
がり、ざり。
後ろ手にツメで壁を掻く。けれど削れない。
可能性から逃げられない。
歯が鳴る。舌が震える。
「な、にも、ねえよ」
「ほんと? だいじょうぶ?」
酷く心配するでもなく、責めるでもなく。
彼女は少し困ったように笑う。しょうがない人だね、とでも言うように俺を笑う。
「なん、なんだよ」
「うん?」
「なんなんだよ!! 最初から! なんのつもりで、なんの、どうして。なにが、したくて、お前はこんなとこにいるんだよ」
一番大切なものを。
「なんか言えよ!!」
ぶっ壊してしまいたくて、たまらない。
「なにが可笑しい!? へらへら笑いやがって。それどころじゃねえんだよ!! わかった風な顔してんじゃねえ!!」
それは明らかな異物だった。
俺の人生に、生まれてから一度も。いや、じいさんが死んでからずっと、俺のテリトリーにひとつとして存在しなかった物体だった。
全て弾いてきたんだ。俺は。
あのクソみたいな家も。協会のヤツラも。防具屋のおばさんだって。誰一人として俺の領域に踏み込ませた人間はいなかった。
お前は。リリは。どうして、なぜ、当たり前のような顔でそこにいる。
「……出てけよ」
部屋の問題じゃなく、距離の問題でもなく。
「出ていけよ! はやく!」
いつのまにか喉の奥に居座っていた異物を、セキで吐き出すように。
「……、……」
リリは膝に両手を置いたまま、微笑む。
遠くに野良猫を見つけてはしゃぐ息子を、そっと見守る母親のような。いっそ嬉しさすら感じていそうな微笑ましげな表情が、俺は、ひどく癪に障った。
お前に俺の何がわかる。
何を訳知り顔なんてしてやがる。
俺の辛さは、悲しみは。俺のいままでの人生は。出会って数日そこらのヤツに悟られるほど、生ぬるいものじゃない。
物心ついたころから、ただ生きるために人の顔色を伺う子供の気持ちがお前にわかるか。たった一人の理解者に先立たれる絶望が、お前にわかるか。ひとりの時間が一番幸せだと、そう感じるようになった人間の気持ちなんて、お前にわかるのか。
わかるはずもない。わかってたまるか。何年こうして生きてきたと思ってる。
わかりもしないくせに近づくな。入ってくるな。
俺を知らないくせに。知りもしないくせに。
俺の不幸を、ナメんな。
「出て行け、……って、言ってるだろ」
張りかけた声を抑える。尻すぼみな声が震えて消える。
リリが笑う。ただ微笑む。よかったねと、あるいは大丈夫だよと、その目で語る。
「なあ」
大丈夫じゃないよ。ずっと、大丈夫じゃなかったんだ。
なにが良かったねだ。何も良くなんかない。
ずっと耐えてきたんだ。
ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと、ひとりで。
それを、お前は。
「出て、けよ」
返事はない。
壊してしまおうと、全力で殴りかかったソレが、ヒビすら入らない。
綺麗で可憐で精巧なガラス細工のような彼女は、見た目よりもひどく頑丈で、そのくせ柔らかくて、静かだった。
ヒザがガクリと折れそうになった。
体が重かった。
地面に、床に、あるいは彼女に、まるで何かの引力が働いているかのように。
はあ、はあ。
目尻が痛い。喉が熱い。
俺が俺になってしまう。漠然とした予感。
ヒビが入ったのは、俺の方。
ピキパキと音を鳴らして、顔から、胸を通って、おなかへ、ヒザへ、つま先へ。
支えきれない。俺がオレを形成しきれない。
なぜ笑う。
なにが可笑しい。
お前に何がわかる。
ああ。
視界が霞んだ。リリがよく見えなくなる。
それが頬を伝うのが先か。嗚咽が先か。床に崩れるのが先か。
よたよたと足が進んだ。前へと進んだ。
がくんと視点が落ちて、膝の皿を床にぶつけた。痛みが心地よかった。
ぐちゃぐちゃのまま、彼女に飛び込む。見えない場所に手を伸ばす。首を伸ばす。その細い腰を確かめる。ベッドのふちに腰掛けるリリに。俺は、埋まる。
鼻が鼻水をすすった。
しっとりとした生地が涙を弾いた。
鳴いた。
泣いた。
「――――――――嫌い、に、ならないで」
口から魂が抜け出していくような感触だった。
「リリ、俺、を」
鼻の奥が熱くて、ツンとして。
唇が震えて。
汚くて、惨めで。
「俺を、きら、い、にならないで、くれ」
逃がしたくなかった。逃げてほしくなかった。
腕をぎゅうと引く。彼女の膝にすがりつく。
「リリ、リリ」
「……うん」
「嫌いに、ならないで、くれよ、う」
「うん、わかってる」
なにもかもぐちゃぐちゃで。
どうにもならなくて。
ひ、ひ。と喉が鳴って。震えて。
止められなくて。
俺は。俺を吐き出していく。
謝った。
嫌われたくなかった。
庇護を願った。
ただただ彼女の存在を祈った。
この感触が。悪魔の少女が。リリが。いま目の前にいることを。俺の頭をなでてくれるその手が、本物であることを。
謝罪。贖罪。願い。口をついて出る。
求めてしまった。
ずっといらなかったものを。いらないと拗ねていたものを。
与えられると信じることができなかったものを。
与えられた温もりに震えて。恐怖して。疑って。放棄しようとして。
でも、それはいつまでもそこにある。
ぽんぽん、とノックをするように頭に触れられて、俺は口を閉じることも忘れたまま彼女を見上げる。リリが軽く両手を広げた。俺は俺を投げうった。
* * *
飲み込んだ唾液がしょっぱかった。
「んはっ、んん、う。んっ、すふ」
「…………ン」
まるで数ヶ月ぶりのご馳走にむしゃぶりつくがごとく、俺はリリの唇を味わう。口が震えてうまくできない。
リリが俺の首を引いて、俺はゆるりと倒れこむ。離れた口と口に透明な糸がたれ、薄く開いたまぶたから青い瞳が俺を見ている。どちらからともなく目を閉じて、息を交換する。乱雑過ぎて、それすら申し訳なくなる。
唇を合わせる。リリの指が髪を通って、ざわざわと耳の周りに触れる。俺は情けなく声をあげて、けれど暗闇の中でその感触をひたすら追い求める。
さらに沈む。ベッドの上。首だけをもたげたリリが俺の服のボタンを外し始める。手元を見る伏せ目がちの瞳があまりに綺麗で、その目がまた俺を見て、俺は圧し掛かる。
「は、はあ、はっ、……んん」
「ンァ、ン」
器用に外されたボタンからするりと彼女の両手が入ってきて、俺は思わず離しそうになる彼女の唇をなんとか唇で挟み込む。幼い吐息に眉が寄る。
離れて、合わせて、一秒でも長く繋がっていられるように顔を突き出しながら俺は服を取り去る。リリの手が今度は下半身に伸びてきて、その意図を受け取り、俺は焦るようにズボンと下着を脱いで足首から抜いていく。
一秒として、嫌われたくない。
「……は」
「……」
まだ水気のある鼻をずずりと鳴らす。塩っぽい味がした。
ここまできて、まだこの全てがリリの思惑通りではないかという疑念は抜けきらなかった。けれどそれで良かった。なんでもよかった。もうかまわない。
胸、お腹、首筋。筋肉のスジをなぞるようにリリの指が静かに這う。俺は一生懸命に声帯を閉じる。鼻息が漏れそうになってまたひとつ水音を鳴らす。一通りの検品を終えたように彼女は視線を上げ、一度じっくりと俺を見てから自らのローブの裾に手をかけた。俺は体を浮かす。
しっとりとした生地がこすれていく音だけで彼女の肌の質感が伝わってくるかのようだった。首から抜き去られた漆黒のローブがベッドわきにふぁさっと放られる。白い下着一枚のリリが俺を見上げて、うっとりとまぶたを揺らした。
シーツの上に綺麗な金色の髪が広がる。上向きの形の良い乳房がゆわんと揺れる。
伸びてきた彼女の腕がまた首に伸びてきて、それは先ほどと同じ感触であるはずなのに、それもまた彼女の素肌の一部であることがひどくいやらしく感じられた。しゅるりとしなやかに巻きつかれて捕らわれる。
「…………は、……ああ」
「……」
肌が合わさる。
抱き合う。
細胞のひとつひとつまでみっちりと埋まるように。隙間なく、リリの小さな、けれどやけに女性的な肢体が俺に吸い付く。キスをするでもなく、男女の営みを行うでもなく、ただ互いの境界線を混ぜ合わせる。
あごに、リリのおでこ。ひたり。
金色の髪からふわりと甘い匂いが香った。
「……おふとん、かぶろ?」
胸元に響いた言葉は肌をくすぐる。俺はすぐにそれに従う。
掛け布団を足元から引っ張る。入れ替わるようにリリがその隙間に忍び込み、俺は仰向けになってそれを迎える。
「……ん、あ、ああ」
「ふふ」
それは図らずとも、出会った日の夜と同じ体勢だった。
「はぁ」
幼い吐息を残して、リリがゆっくりと動き始める。
すり。しゅり。身体がこすれあう。俺の身体にその肌の質感を溶け込ませるかのように、リリが自身を俺にすりつける。
「……あっ、あ」
乳房や突起が、胸板の上で変形していくのを、味わう余裕もない。
ぷにぷにのお腹。細くてもしっとりとした二の腕。腰。太もも。足の指先まで。
至るところが。至るリリが。すべての彼女が、すべての俺に、まんべんなく浸透していく。塗り替えられていく。リリ自身を塗りたくられて、幼い肌に染められていく。
「んふ」
ちゅむり、と鎖骨に小さな唇が吸い付く。
たまらず抱きとめる腕に力を込める。圧を増す肌はけれど滑らかにすべり、腕の中をするりと抜けていく。えもいわれぬ柔肌。眉間が白く消える。力が入らない。リリの舌が鎖骨の筋をちろちろとなぞっていく。息しか吐けない。
ああ……。
また天井が歪んで、鼻の奥がぎゅっとなる。
リリがいる。
リリがそれをしてくれる。
俺を受け止めて、俺を受け入れて、すべて理解してくれる彼女が、まだそこにいてくれる。
「んっ、ん、……ふ」
「……、ぁー……」
またグズりだすノド。まるで子供の悪事を見つけたかのようにリリが悪戯な笑みを浮かべた。頬をその両手に挟まれて、青い瞳が迫る。
めじり、めもと。まゆの間。はなすじ。
視界がにちゃにちゃと音を立てる。生暖かい唇と舌が、俺の目から溢れてしまったものを掬い取っていく。
ちゅ。にちゅ。ぬる。
忌避感に強張った体がその温かさに溶かされていく。ひどく安心する。赤子のようなぐずり声を上げて、俺はまた目から感情を垂れ流していく。それさえ舐めとられ、吸われて、あやされていく。リリの唾液にひんやりする肌が、またその上から温かさを二度塗りされる。不足したところから補われていく。
あったかい。リリの口が、あったかい。
そっと顔が離れる。リリが俺を見下ろす。垂れた金色の髪が頬をくすぐる。俺はなにをするでもなく、ただなすがままに、次の彼女の行動を待っている。
その青い瞳だけが俺の頼り。すがるように、俺は視線をつなぎとめ続ける。
また降りてくる。
唇と唇。薄い皮膚の交わりにぶるっと震える。
過敏になる唇の上を、何かを探し回るように小さな舌先が舐っていく。俺は声と一緒に鼻息を漏らして、入り口へと誘うように口を開く。
間髪いれぬ侵入に、頭の芯がかっと熱を放った。リリが身をよじる。乳房も、お腹も、太ももから足の先まで。彼女の肌が強く擦れる。存在するはずの摩擦はやけに滑らかに、あまりにも余分な、目もくらむような感触だけを残していく。
「ン……ンゥ、フ……」
「ん、んっ、んっ、んんっ」
耳に悲鳴のような鼻声を聞く。女の嬌声のようだった。
たまらない。溜まらない。
だめだ、もう、そんなに、動かないでと思うのに。
肌が滑りあう。合わされる。餌をねだる猫のように、頭だけでなく、全身で、リリが俺におしあてられて、勝手にすべりあって。もう、それ以上は。
射精してしまうかと思うほどの快感は、けれどいまだ張り詰めたまま。あるいは俺の全身が陰茎のようであったら、すでにそこらじゅうの毛穴から白濁液が漏れ出しているに違いないとすら思えるほどの快感は、彼女の肢体は、リリは。けれどやっぱり、射精に至らず、ひたすらに鳴き声を上げたがる口は蠢く熱で埋まり、押しとどめたまま、まだ押しとどめたまま、膨らみすぎた感情が脳天を破裂させてしまいそうなほどに。
「んんっ、んすっ、ふっ、んっ、ん、ん、んっ」
ただ鳴く。ただ鼻で鳴く。ノドで鳴く。
「……ん、……んふふふ」
ああ、リリ、止まって。
とまって、くれないと、ああ。
ああああ。
右手がリリの背中を滑り出す。
腰をすべり、指先に生地が触れる。いまリリがまとっている唯一の布。
布地を進む手のひらが丘へ上る。小さく、リリが笑った気がした。
ああ。リリの。リリのおしり。
リリの下着。ローブの中の、そこ。
ああ止まらない。止まらないよ。リリ、ねえ、リリ。
リリがくすぐったそうな声を上げて、お返しとばかりに大きく身をくねらせる。俺は絶叫する。しようとした。塞がれた口ではできるはずもない。さらに両手で、彼女の腰のしたの、女性な部分を、えっちな場所を、思うがままに堪能していく。まるで追いすがるように、あるいは感情の捌け口をやっと見つけたかのように。
夢中になる。布の感触と、リリの腰つきと、なにより、自らの行為に。
「あは」
わずかに息継ぎをしたリリは俺が目を開けるよりはやくまた塞ぎにくる。甘い熱が入ってくる。おしりの溝に中指をもぐらせる。ぷにぷにの丘を手のひらで進む。布と素肌の境目をなぞる。リリが身をよじる。俺の上で、淫らに踊る。倫理を失った俺の両手が、それに呼応するように踊り狂う。
狂う。リリに狂っていく。
ああ、ああ。
ああもう。
ああ今度こそくる。なにかが。
なにかが、きてしまう、ああ。あああああ。
なに、なに。ああ。リリ、ねえ。
これ、これな、なに、あ。ああ。
あ。
ばちばちと全身を駆け巡った。
脳から下まで一気に駆け抜けるような、貫く電撃のように。はじけた。痺れに跳ねた。びくびくと痙攣する。すべてが一気に張り詰め、すべてが弛緩し、それを繰り返して。目の前が真っ白になる。何も見えない。ひたすらの白。
毛穴という毛穴が開いていくように。俺という俺の全部が、全身が、外側へ向かって開放されていくように。ただ跳ねる。彼女を乗せたまま。おかしくなって、身を捩って、シーツの感触にすら耐えられなくて、また跳ねて。おかしくなって。おかしくなって。
ああ。ああ。
あー…………。
「――――まだたくさん残ってるねえ……」
夢うつつな意識は沈むことを許されず、すぐに言葉に覚まされる。
リリは俺に寄り添うように、胸のあたりに移動していた。
その青い瞳は俺を見つめていて、布団の中の暗がりから、不肖の息子が頭をこちらに向けていた。その先から少量の糸を垂らすように、おへその下の辺りに白く粘つく泉をつくっていた。
「動かす、ね?」
制止を請うどころか、息を吸う時間すらなく。
彼女の小さな手が上下した。
「――――――ッ!」
動かされて、初めて、自分のソコが掴まれていることに気付く。
力いっぱいに張り詰めたソレは、熱を持ちすぎて、触れられていることにすら気付かず、気付いたところでもうすでにコトは始まっていて。
リリが目を細めて、ふふ、といたずらに笑った。
加速する。
快楽に昂ぶっていく暇すらなかった。
赤々と腫れたソコは少女の手のひらに涙を流すほど打ち震え、煮えたぎった感情の残りは出口寸前にいまも構えていて。
いいようにされた。それはもう、いいようにされた。リリのくすぐったい笑い声が聞こえた。リリに、一回り小さな女の子に、サキュバスに、いいようにされた。いまもまだ、されていく。
好き放題になっていく。彼女のおもむくまま。
笑われた。おにいちゃんと呼ばれて、少しだけ、なじるように笑われた。困ったようなリリの笑みに、胸の奥が焼け尽くされた。
扱かれながら。親指が亀頭をなぞって、リリの唇が俺の胸の突起を強く挟んで、舐められて。体は暴れて。ぐちゃぐちゃになって。全て吐き出して。されるがままに、彼女の思うがままに。大の大人が、勇者が。その小さな小さな手の動きだけで。
鳴くに鳴いた。リリを呼んだ。悲鳴で助けを願い、叫び声でとめどない感謝と告白を伝えた。陰茎はまだ馬鹿になったまま。痺れの後遺症が全身を弾けさせる。射精していく。腕が射精する。足が射精する。頭が射精して。すべてリリの意のままで。
任せて。投げ打って。もらってもらって。いじめてもらって。激しく恋をした。
深い深い愛を下半身で語った。情けなくて、悲しくて。リリが好きだった。
全部出た。全部出て行く。出て行くのにまだはじける。ばちん。ぱちん。
彼女の小さな手は上下し続ける。
びきん。ぼん。
弾けたところから幸せになっていく。白くなって、至福にたどり着いて。けれどまた飛んで。リリ。リリ。
リリ。
リリ。
ねえ。
* * *
どうやらリリの胸の中にいるらしい。
さわ、さわと頭を撫でているのは間違いなくリリの手で、鼻先に感じるのはぷよぷよとした乳房の感触で。肌の匂いが薄く甘くて。
およそ俺が保護者にならねばならない相手は、いまや立場は反転している。おかしいとも思わなければ、恥ずかしくもなかった。ただひたすらに温かくて。あたたかかった。
あたたかすぎて、またひとつ、ぶるりと寒気を払った。
何も言われない時間。
俺も何も言わない。
きっと話すべきことはたくさんある。謝らなければならないことも、いろいろ。
でも、いまは、いいのだろう。
きっと、いいんだ。
そんな甘えすら、きっとリリは、許してくれて、しまうのだから。
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