部屋に鳴り響くのはキーボードの音。
世界最大の検索エンジンは果たして俺の悩みを解決するか。
「…………」
「…………」
大して来客もないのに無駄に買ってしまった大きなソファー。ぶかぶかなティーシャツ姿の彼女が隣に寄り添う。長い髪はやけに水ハケがよくてドライヤーですぐに乾いた。せっかくの綺麗な髪なのにヘアブラシなんかを持っていないのが申し訳ないところ。男の一人暮らしだ、許してほしい。
ずっと脳裏によぎっていたワードがある。
彼女が人間じゃないとして。人外種だったとして。考えられるのはたとえば透明人間、ゴースト、座敷わらし。俺が彼女と出会ったあの道で、彼女はなぜか人々に無視され続けていた。
それが無視ではなく、本当に見えなかったのだとすれば。
彼女はそれに順ずるナニカであることは間違いない。
「……あった。でも、個人の研究ページ? ブログ? なんでトップに」
検索した単語は当然のようにヒットし、そのワードに最も適切に関連しているとされるページが一番上に並んでいる。
『サキュバスの生態について』
検索したのは“サキュバス”。
すでに世界でもいくつかの存在事例が確認されていて、俺もずっと以前に何気なく記事を読んだ覚えがある。どうしてサキュバスなんかに興味があったのかというと、男だからである。
『――――初めに書いておくことは、現在サキュバスと認識されている種は、神話や逸話などに登場するサキュバスとは性質が大きく異なっている……』
ふむ、と頷いてしばらく読み進める。
このブログ主はおそらくサキュバスという存在に誰よりも強い関心を抱いたのだろう。それに関する事例や記事やまとめから、各国や政府の見解まで全て網羅しているようだ。そしてそこから独自の考察などを展開している。
現世神象からこれだけの時間が経ってもまだまだ異種族への理解は進んでいない。治療のため医学的な研究が重視されているらしいが、生態を含めたイキモノとしての話はまた別だ。下手をすれば実体験のある個々人の方が細かい情報を持ち合わせている可能性はある。
いつか見た記事に、認知に関しての記載があった、ような気がする。
サキュバスと出会ったとき、そして一目で恋に落ちたとき、その外国の男性はまるで二人きりの世界に没入したかのような感覚に囚われたという。たしかそんな内容の記事だった。
二人きり。つまりあの場で彼女が俺以外の人に認知されていなかったとすれば、状況はそれに近いと言えるのではないだろうか。
「…………」
隣の少女を見下ろす。
昔、だぼだぼなティーシャツ姿に憧れて買ったその服は俺が着るにしても大きすぎるサイズで、座った彼女の膝小僧すらもすっぽりと覆っている。ワンピースがわりにと思って着せたものだ。たしかに裾の長さは十分だったが、逆にブイネックがかなり際どいことになっている。
「……?」
ディスプレイを見上げていた少女が俺の視線に気づく。
曇天の下で見るのとではまた印象が違う。さらさらの長い髪はクセもなく、背中からソファにまっすぐ降りている。よく見ればドライヤーの掛け間違いか、あさっての方向を向いたアホ毛が一本。
「かわいい」
「……?」
少女が小首をかしげる。
かわいいぞ。と、今度は外にこぼさず、口の中に押しとどめた。
相変わらず俺の言葉を理解しているのか判断がつかない。
「なんでもない」
彼女の形のよい頭をぽんと撫でて、ディスプレイに向き直る。
『――――サキュバスといえば性的な行為を想起させるが、現時点でわかっていることは、サキュバスにとって栄養となるのはパートナーの愛情や興奮など、感情が主である。彼女たちは食事を必要とせず、感情を栄養とする。感情は性的行為によって大きく引き出されることが多いため、サキュバスがたくさん栄養を得ようとすれば必然と行き着くことにはなるが、必ずしも必要な行為ではない。彼女たちのエネルギーはパートナーからの愛であり情である』
「性行為は必ずしも必要ではない、……か」
なるほど。
サキュバスといえばえっちだ。セックスだ。その美貌や身体で男を誑かして行為に及び、精液や生命エネルギーなんかを吸い取る、なんてイメージが強い。しかしそれは結果的に性交をしすぎた男が疲れてしまっただけであって、そんな部分だけが大昔から伝わってしまっただけなのかもしれない。
『――――サキュバスは生まれながらにして成体であることが多い※』
「へっ、え?」
思わず変な声を出してしまい、思わず少女を見つめる。
ほやほやしたあどけない顔が俺を見上げている。彼女がサキュバスだとしたら、これがすでに成長しきった姿ということになる。
こんな小さい子が? まさか。
さすがに彼女がサキュバスである線が薄くなってきた。
『――――サキュバスは極端に老廃物が少なく、排泄行為がない※』
「ほ?」
これまた妙ちくりんな情報である。
サキュバスはおしっこをしないということか。確かにさきほどから彼女は便意を訴えたりしていない。雨で体も冷えていただろうに。いや、水を飲む必要がなければ出す必要もないのか。
それよりさっきからこの米印が気になる。なになに。
※いずれもパートナーの趣味嗜好によって異なる
「なんじゃそら」
俺は画面を前に顔をしかめる。
いずれもパートナーの趣味嗜好によって異なる? 文面をそのままつなげるのなら、サキュバスが生まれながらにして成体であることや排泄行為がないことは、パートナーの趣味によって違うということになる。なんぞ。
「えーっと……?」
文面の意味がよくわからない。もともと国語の成績はよくなかった。
というか、パートナー、パートナーと連呼しているけれど、普通に考えたら相手は一般男性が対象になるはずだ。ふつうに男性と書けばいい。パートナーというのは相手の男性、という意味以外にも何かあるのだろうか。
パートナー。パートナーパートナー。
「…………あった」
『――――サキュバスは必ず一人の相手とだけ契約を交わす。その相手から感情を与えられることによってのみ、存在を保つことができる。ここでは便宜的に契約相手を“パートナー”と記す』
「契約相手?」
『――――サキュバスは必ずパートナーの性的嗜好に合った姿で現れる、とされている。これはサキュバスには元の姿があり、パートナーとなる男性の好む姿に化けているという見方や、最初からパートナーに合わせた姿でこの世に生まれるという見方もある。事例があまりに少ないため、邂逅時の詳細な状況がデータとしてあまり集まっていない。前者であればサキュバスに変身する能力があるともいえるし、後者であればサキュバスが出現するメカニズムから解明する必要があるだろう』
「…………性的嗜好」
『――――また、これは偶然かもしれないが、サキュバスとパートナーの事例として、ほぼすべての例でややアブノーマル、マイノリティな嗜好で繋がっている。以下に例を示す――――』
「待て、まてまてまて」
性的嗜好? 俺の?
俺は再び彼女を見る。これだけ何度も変な顔で見つめられてさぞ迷惑だろうが知ったことじゃない。というかなんだその邪気のなさすぎる顔は。卵と小麦粉と油でカラっとあげたろか。
ちくしょう可愛い。問い詰めようとした勢いを完全に削がれてしまった。どうせ問い詰めたところで有益な答えが返ってくるとも思えない。
無口なゆるふわ美幼女。はてさてそれは本当に俺のドストライクなのだろうか。いや、風呂場の一件は無かった、と、して、だ。いったん忘れよう。勃っていたコトは。
本当に彼女がサキュバスであれば俺が大好きな創作物のキャラクターとして出現してもおかしくはない。しかもそのキャラクターも別に無口ではない。俺は元気な子も大人しい子も、生意気な子も好きだ。こんな“いかにも”な子が特別好きという自覚もない。
「……?」
「可愛い。好き」
また小首をかしげた彼女に、気付けば告白して頭を撫でていた。
少女はまるで猫が喉を鳴らすかのように力を抜き、目を細めた。
「……っ」
その表情はお風呂場のときとまったく同じで。
俺は、ずきりと胸が切なくなる。
何と無く、髪に触れる。指先が通り、まんまるの頬を手のひらで包む。
――――――ッ
目を閉じた猫の。
頬ずり。
ぷにぷにしたほっぺと、きめ細やかな髪質が手のひらに押し付けられ、甘えるように上下する。心臓を根こそぎ持っていかれる。血が上って、目の前がぼやっとする。引力のように引っ張られる全身が、彼女を抱けと急かしてくる。気圧の中心。引き寄せられて、俺はむちゃくちゃになってしまいそうだ。
うっすらと開く目蓋。蒼い瞳。
上気した頬。
愛おしい。かわいい。かわいい。
もうどうにも、かわいくて。
ああ。
ぞわっと、体中に広がる黒い感情。
それを反動にして俺は自らの正気をたぐりよせる。
「ちょっと、待っててね」
「…………」
熱に干上がりそうな喉で言葉を放つ。彼女は少し間をおいてこくんと頷いた。
その表情は触れる前より明らかに蕩けていて、体ごと流されそうになる自分にぐっと力を込める。すさまじい引力。見るからに甘そうな幼女。同時に思うのは。
彼女はもしかしたら本当に、サキュバスなのかもしれない。
俺の感情を食べているのかもしれない。
契約相手の、感情を。
「……契約」
はたとして、俺はマウスを掴む。
そうだ。契約。
サキュバスは契約したパートナーの感情のみをエネルギーにすると書いてあった。彼女がサキュバスで、俺がそのパートナーで、俺の感情を食べているのであればすでに契約がされているはずだ。
言葉を交わした覚えもなければ、誓約書を書いた覚えも無い。外に出るときにハンコなんて持ち歩かないし。
『――――証言では、パートナーとなる者が初めてサキュバスに触れることによって契約が結ばれることが多いとされている』
「触れる……、あ」
外。出会ったときの丸裸の彼女。
パーカーを着せるときに触れた腕。そこから感じた強い脈動がフラッシュバックする。
そしてその瞬間、彼女が周りから認識されはじめた。
あれは、すでに契約だった?
いや、いやいやいや。
そんな理不尽なことがあるか?
俺にとっては棚からぼた餅どころか埋蔵金が降ってきたような話だけれど、彼女はあの場で、あの道端で俺に触られてしまっただけだ。そこに彼女の意思はなかった。なんなら俺以外の誰かが触れていた可能性だってある。
俺がただ、パーカーを着せた。そんな些細なことでこの子の一生は決まってしまった。
決まってしまったんだ。ほんとうにサキュバスならば。
「はあ…………」
やったか、これは。
やったのか。やらかしたか。
いや、そもそも彼女は俺以外の人には見えていなかったし、性格まではわからないが外見は間違いなく俺の好みにアジャストされている。
ああ、だから前者だの後者だの。
彼女が生まれたのが先か、俺好みの姿になったのが先か。生まれたときから俺の趣味に合わせてあったのだとすれば、もはやこの契約は運命付けられていたなんて話にもなりかねない。鶏か卵かみたいな話になってきたな。
「……そういや、趣味がアブノーマルがどうとか書かれてたな。えーっと」
『――――ケース16、南米の男性。発見されたのは下半身を露出した男が咽び泣く姿と、その足元で四肢を切断されて死亡している裸の女性遺体。女性の周囲は血まみれになっていたが不思議と切断箇所は皮膚に覆われ傷口が無かったとのこと』
「……なんだこれ、――――話を聞いてみれば男性は女性の凄惨な悲鳴に強く性的な興奮を覚える者だった。サキュバスを追い詰め四肢を刃物で切断し、その悲鳴でエクスタシーに達した後、死んでしまったサキュバスを想って泣いていたのだという。一般的にサキュバスの体はケガをしてもパートナーからの感情の摂取によりすぐに再生するが、丸ごと切断されるほどの傷は治癒力が間に合わないことがこれによって判明。皮肉にもサキュバスの再生能力がどの程度のものかが試される事例となった。しかし同時に、この男性の嗜好の理想像として傷口が治ることなどありえないとされていた可能性もあるため、切断面は繋がらないが傷自体は治るなどという中途半端な状態になったのではないかという意見もある。この男性の嗜好によって生み出されたサキュバスであれば、純粋なサキュバスの再生能力として考えるのはいささか疑問かもしれない。その後、男性は抵抗することなく出頭。血まみれになっていたとはいえその場に争った形跡はあまりなく、女性の死に顔はとても安らかで、幸せそうな微笑を浮かべていたという――――」
――――胃がもたれるような話だ。
「なあ」と俺は隣の彼女を呼ぶ。
「……?」
「俺の趣味って、アブノーマルかな?」
「…………?」
「まあ、そうだよな」
まだ少し眠そうな表情を見下ろしながら、うんとひとつ頷く。
べつに趣味が悪いとは思わない。こんなに可愛い子が俺の理想として生まれてきたのだとすれば、俺は胸を張ってそうだと頷ける。だってこんなにも愛らしいのだから。
そこに疑念はない。俺の趣味はこんなにも素晴らしい。それは胸を張って言える。ただ世間に対して胸を張れないだけだ。
まあぜんぶ、ほんとにこの子がサキュバスだったらの話ではあるが。
「きみはサキュバスなの?」と俺は問う。
「……、」と彼女は頷いた。
「……ぐ、んふ、ぶははは、っはは、……そっか、サキュバスなんだ、そっか」
へー。そうなんだ。
サキュバスなんだね。君。
最初に聞けばよかったね。
あまりにあっけなくて、一気に力が抜けて、俺はソファーに背中を預ける。形のよい頭を撫でる。また少女が幸せそうに目を細める。
まあ、ね。
交番になんて、正直行きたくなかったし。
彼女を親元になんて、ぶっちゃけ帰したくなかったし。
だからこそ、サキュバスなんて単語を最初に調べちゃったんだし。
サキュバスだったら。もしくはほかの、イレギュラー的な人外種だったら、親を探さなくてもいいかな、なんて。
そんなことをたぶん俺は思っていたんだろうから。
「…………っ」
「……」
彼女の頭を撫でながら、また苦しくなる胸に手を当てる。
幼女は。幼くて可愛い女の子は、不可侵だ。
決して傷つけてはいけない。決して嫌がらせてはいけない。大事に大事に、そっと、触れずに、見守るべき存在だ。
「ごめん、ね」
「……?」
俺の謝罪に、彼女はやっぱり不思議そうな顔をする。
それはそうだろう。意味が伝わるはずもない。
彼女がサキュバスなら。契約したパートナーが俺ならば。彼女に感情を与えるのは俺で、そこに性的行為はまったく必要なくて。
ただただ、純粋に愛情をあげればいい。愛してあげればいい。それだけの話。
それだけで済めばいいんだ。
でも。
それで済まない。
「…………ぅ、ぐ」
唐突に目頭が熱くなる。
俺は唇を噛んで涙をこらえる。
だって、きっとそれで済まないから。
「ごめん、ね。ごめんね」
「……? …………?」
「ごめん」
決して侵してはいけない領域。小さな小さなおんなのこ。
それを胸に強く留め、俺は生きていくことができる。俺はしていいことと、いけないことの区別が付く。
でも。
それでもいつか、たぶん、ぜったい。
俺はきみに手を出す。
「…………ふ、ぐ」
数日はもつだろう。
なんなら、数ヶ月、よくて数年。は、無理か。
自分を叱って、制して、騙し騙し、俺はきみに、見かけだけは清い愛情を与えるだろう。
でもいつか、たぶん、ぜったい。
俺はきみに手を出す。
それがわかる。
「……? ……?」
0.01%の葛藤でも、永遠に続ければいずれは期待値は1を超えてしまう。
俺はこんなに、守るべき、可愛らしい子に。
いつか、手を掛ける。
男としての欲望をぶつける。
きみと、こんなに可愛い子と、ずっと一緒にいられるなんて幸せはないのだから、一緒にいたいから、その未来に間違いなく進むから。
だから俺は。
いつか時間に負けてしまう。
「……?」
困ったように、彼女が俺を見上げる。
その胸に飛び込んでむせび泣きたい。顔を埋めて、君の香りをかぎたい。
俺の理想が具現化したのなら、きみはきっと俺を撫でてくれるだろう。そしてそれがうれしくて、俺は好きという感情を溢れさせて、君はそれを喜んで食べるだろう。
だから、シちゃいけないんだ。
俺の感情が大きければ、当然きみは気付くだろう。
そしてどんなコトをすればたくさん感情をもらえるのかを知ってしまうだろう。
知ったら、きみはそれを俺にねだるだろう。
ねだられたら、俺は。
だから。
知られちゃいけない。
「ごめんね」
そのときまで、知られちゃいけない。
俺が俺を押し込められなくなるまで。いい人でいられなくなるまで。
それまで、なんとか。
「可愛いよ。好きだよ」
「……、……」
その頭を撫でながら、涙声で、俺は告白をする。
彼女はこくんと頷く。
はは、と俺は、その天使のような仕草に苦笑する。
どうにもならない。それほどにきみは可愛いから。無理だ。
そう。これはそうだ。
だから。
いうなれば。
俺がきみに手を出してしまうまでの、お話。
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